Ⅰ 針森の村 -4
なめし所を出ると、夕飯の時を知らせる鐘が鳴った。まかない所の小屋が見えてくると、途端にいい匂いが漂ってきた。
村では、食事はそれぞれ家でつくるのではなく、まかない所というところで作られる。朝と夕の二食が作られ、鐘が鳴るとみな集まってきて食べる。まかない所は、朔という老女が取り仕切っていて、その下に朔の後継者の洋が一緒に働いていた。その他にも、まだ技の修業が始まっていない子どもや若者も、当番制で手伝いに来ていた。蘭や凛にも、三日に一遍ほど当番が回ってくる。今日はその日ではなかったが、夕食当番の時は、狩りも早く切り上げて、手伝いにいかなくてはならなかった。おかげで、技の修業が始まるころには、皆それなりに煮炊きできるようになっていた。
入口近くで、小屋から盆を持って出てきた少年とぶつかりそうになった。蘭がおなかをくの字にして、ぎりぎりで避けると、少年も二、三歩よろめいて止まった。木の食器がカタカタと音を立てたが、中身がこぼれたりはしなかった。
ふぅと息をつくと、蘭は少年をとがめるように視線を向けた。
「空、また他のことを考えていたでしょう」
空と呼ばれた少年は、バツの悪い顔で二人を見た。彼は二人の近所に住む十一歳の少年で、人懐っこく、大人には可愛がられ、小さな子どもには好かれていた。ただ、空想癖があり、やっていることと違うことを考えていることがよくある。そのせいで、失敗も多く、周りをいら立たせることも多かった。
凛と蘭はというと、彼が頭の中で考えていることを、面白いと思っていた。頭の中にもう一つの世界があるなんて、素敵なことだと思っていたし、小さい時から彼を知っていたので、可愛がっていた。
ただ、やるべきことをきちんとやらない時には、目上の者として、注意してやらないといけない。
「桜婆さまに持っていく食事でしょう? 粗相があったら、大変よ。しっかり持って、前を向いて行きなさい」
きつく言うと、空は神妙に頷いた。
「はい。では行って参ります」
そう言うと、社の方に歩いて行った。
「まあ、でも、桜婆さまへの食事を運ぶ役に選ばれるくらいに、成長したってことだよ ね」
凛がしみじみ言うと、蘭もうなずいてから、笑った。
「その自覚を持ってほしいけどね」
まかない所に入ると、先ほどから香っていた香ばしい香りが一段と強くなり、二人のおなかも一段と元気に空腹を訴え始めた。
つい、人の食事に目をやると、甘辛いたれがたっぷりかかったあぶり鳥が目に入った。良い具合の焦げ目が、空腹を刺激した。ひと口大に切ってあるが、干し肉ではなく、生肉が食べられるのは珍しいことだった。
「今日は、茶羽根がたくさん獲れたんですね」
ちょうど近くを通った洋に蘭がきくと、洋はにっこり笑って言った。
「ええ。蘭たちも茶羽根を獲ったのでしょう? 塩爺が喜んでいましたよ」
「赤羽根じゃないって、言っていたくせに」
凛が皮肉ると、塩爺の皮肉屋を知っている洋も笑った。
「塩爺が嫌味を言わなくなったら、病気じゃないかと心配しなくてはならないですよ」
洋は朔の孫である。洋の両親は二人とも、はやり病で死んでしまった。祖母であるまかない師の朔に育てられた洋は、当然のことだが、いつもまかない所いた。幼い頃からいて、いつも手伝わされていたので、腕はたいしたものなのだが、朔は頑固に「まだ見習い」と言い続けていた。洋は素直に朔の言うことを聞き続けて、熱心に腕を磨き続けていた。蘭たちより五つは年上なのに、全く傲らないのは、そうした彼の育ちが関係しているのかもしれない。
きびきびと働く洋を眺めて、蘭は感心して凛に囁いた。
「朔も安心だろうね」
「だれが安心だって?」
野太い声にぎょっとして振り向くと、丸っこい体の朔が腰に手をあてて睨んでいた。朔は年齢的にはもうおばあさんと言ってよいくらいなのに、年寄扱いされるのが、なにより嫌いだった。
二人は慌てて挨拶をし、
「いやあ、洋さん立派になったなぁ」
と口の中でごにょごにょ言うと、
「あんたらひよっこに言われたくないよ」と、鼻を鳴らされてしまった。
「忙しいんだから、早く取って、席についておくれ。それとも、手伝っていくかい?」
「忙しい」は彼女の口癖である。実際、いつも忙しそうであった。
二人があわてて食事を取りに行ったのは、言うまでもない。
あぶり鳥に、キノコと若菜の汁物、木の実を砕いて混ぜたノイ(パンのようなもの)。それが今日の夕飯であった。ノイは雑穀を砕いて水と混ぜ、小さくちぎり、平べったくつぶしたものを、熱くした石の上で焼いたものである。雑穀は唯一、村で栽培されているものであり、貴重な主食であった。
二人は一番にあぶり鳥にかぶりついた。皮はパリッとしていて、肉汁はジュッと出てくる。良い焼け具合である。甘いたれが絡んで、たまらなくおいしかった。
「今日、肉を焼く係になった子は誰だったのかしら、上手だわ」と頭の隅で考えながら、二人は順調に肉を骨にしていった。
ほかのテーブルでも、夢中で肉にかぶりついているせいか、あまり話し声が聞こえてこない。まかない所は、食事をする場所であると同時に、情報交換の場所でもある。いつもはお互いの声が聞こえないくらい、うるさかった。
肉を骨にしてしまい、指の油を舐めながら、ノイをかじっていると、あわただしく男が駆け込んできた。蘭たちの親と同年代で、大人になっても狩りを生業とする狩師の男であった。男は朔を見つけると近づき、何か耳打ちすると、すぐに出て行ってしまった。言葉が聞き取れなかったが、ただ事ではない雰囲気に皆が目を丸くして、朔を見ていた。
朔は首をすくめると、仕方なさそうに言った。
「すぐにわかることじゃが言うが」
なぜか言葉を切って、深くため息をつくと、どうでもいいことのように言い捨てた。
「神殿からの先触れが、村に入ったそうじゃ。『神の巫女』の選定者たちがくるらしい」
ざわざわと皆がざわめき、凛と蘭も顔を見合わせた。朔は「また忙しくなるわい」とぶつぶつ言いながら、貯蔵庫に引っ込んでしまった。
この国では、あらゆるすべてのものの上に君臨するのが太陽神であるとされていた。中央王都におわす王は太陽王と呼ばれ、太陽神の子どもとして使わされたとされていた。
人々は、天候、病気、作物、商売、そして生命、世の中の全てのものを、太陽神が司っていると信じ、怖れ崇めていた。
全国を巡って太陽神に仕える巫女を選ぶのが、選定者たちの務めである。選定者のなかには、占いをし、先を見ることが出来る巫女がいて、どの地に赴くか決めるという。
選定者がこんな山奥の村に来ることは、村人たちの記憶には全くなかった。そもそも針森の村では、太陽神への信仰はそれほど篤くない。信じていないわけではないのだが、都のように絶対神として崇めているのではなく、あまねく神々の一人として敬っているのである。都から迫害されているのではないが、忘れ去られているというのが、針森の村であった。都では「山奥に捨て子ばかり住んでいる村があるそうだ」と、お話の中の村と思っている人も、たくさんいるくらいである。
それを承知している村人は、選定者がこの村に来るなど、思いもしなかったのである。太陽神の巫女を選びにくると言われても、実感がわかなかった。
「選定者ですって、どんな人なのかしら」
凛が少女らしく、興味深々といった様子で、目を輝かせた。そういう顔をすると、美しさが一層際立つ。蘭は少しイライラした。胸の中がもやもやして、嫌な感じだ。蘭は気持ちを持て余して、ため息をついた。