Ⅱ 都 -21
一か月が過ぎようとしたころ、蘭はようやく織小屋に入れてもらった。母屋と渡り廊下でつながっている織小屋は、店の中でも特別な場所で、許されていない者が勝手に入ることは禁止されていた。
ニノに連れられて渡り廊下を渡るとき、針森の村では日常的に踏み入れていた場所なのに、胸が高まった。
小屋の扉をニノが開けると、微かに聞こえてきていた機を織る音が、急に大きく聞こえた。そうそう、この音、と蘭は嬉しくなる。
二人が入ると、中にいた三人の織師は手を止めて、二人を見た。全く似てはないのに、柳と寧とに姿が重なって見えて、蘭は戸惑った。
三人の中で少し年長に見える女性が立ち上がって、蘭たちを出迎えてくれた。
「おはよう、リオナ。こちらがランよ」
リオナは頷くと、にっこり笑った。
「初めまして、ラン。リオナです。一応、この織小屋を預かっています」
都の人が、針森の人間の名を呼ぶとき、少し発音が変わってしまう。というより、針森の名が独特なのだ。都にはない文字を使い、一文字で表す名は、都には存在しないし、その発音も都の発音に直そうとすると、少し違ってしまう。ザックは針森で教えてもらい、キースもその父親に学んでいるので、どうにか針森での発音ができているが、都の人間が呼ぶと、都風の呼び方になる。
最初は蘭たちも違和感を感じていたが、土地の空気と一緒で、そのうち慣れてしまった。
柳の機小屋を思い出させるこの場所で、ランと呼ばれると、重なっていた柳と寧の面影はあっさり薄れ、ザックの店の機小屋として、くっきり蘭の頭に入ってきた。
ここは、わたしにとって、新しい場所だ。
「よろしくお願いします」
蘭はしっかりと頭を下げた。
蘭の腕は、リオナたちが考えていたよりも上をいっていたようだ。
そんなつもりはなかったのだけど、と前置きをして、リオナが申し訳なさそうに打ち明けてくれた。織師としての修業が明けるとは聞いていたのだが、やはり辺境の村の織師だということで、我知らず軽く見ていたそうだ。
蘭が織るのを見て驚いた自分を発見したとき、やっとそれに気が付いたの、とリオナは頭を下げた。
「ザックさんがあなたのお母さまから仕入れてきた反物、あれを見た時、本当に驚いた。私たちの織り方とは違うけど、あの鮮やかな色をうまく生かしている」
柳と寧の織物は、鮮やかな色彩と大柄が特徴の織物だった。寧の深い色はダイナミックな構図がよく合っていた。
ここの織小屋では、細かい幾何学模様が主流のようであった。よく考えられた模様を緻密に織っていく。
心のまま織っていくような柳たちの織物とはまた違った、美しい模様であった。
最初は思いのままに織れないことを、窮屈に感じていたが、しばらく模様と向き合っていると、宇宙に吸い込まれていくような気分になった。それを感じる瞬間は、属しているこの世界から切り離されたような感覚になる。蘭はその瞬間が快感となった。
幾何学模様を織ることに熱中し、店や家での雑用もこなして、蘭は毎晩倒れるように寝床に入り、泥のように眠った。織物に入れ込むあまり、信を最近見ないことにも、しばらくしてから気が付いた。
「そういえば、最近、信に会わないんですよ」
朝食のとき、ふと思いついて、蘭はニノに言ってみた。信はキースの外回りの供についていくことも多いので、最近はそれが重なっているのかと続けようとした。みれば、ザックもキースもいない。
しかし、ニノの大笑いに打ち消されてしまった。
「ノックさんがシンを気に入ってね。住み込みで見習いをさせてくれたんだよ。それにしても、ラン、シンが出て行って三日はたっているよ。ちょっと薄情なんじゃないかい」
笑ってはいたが、咎めるような口ぶりに、蘭は何とも言えない顔をした。
「まあ、休みが取れたら、ランの顔を見に来るって言っていたよ。来たら、優しくしておやり」
どこまで事情を知っているのか分からないニノだが、何か含みのある言い方に、蘭は曖昧に頷いた。
「あんたはよく働くし、気立てもいい。息子の嫁でもいいけどね」
さりげなく言われて、一瞬食堂が静かになった。この時、ニノと蘭の他に、見習いの娘が二人、食堂にいたのだが、二人とも黙ってこっちを見ていた。私的な会話なので、聞こえないふりしていたのに、思わず見てしまったといったふうである。
口を開けて見ている蘭を、ニノは面白そうに見ていた。
「冗談よ、半分は」
さあ、ご飯にしましょう、と続けるニノに、「じゃあ、もう半分は?」という疑問を蘭は飲み込んだ。
ノックという人のことも、もう少し聞きたかったが、朝食を食べると、バタバタとみな仕事にかかり始め、聞きそびれてしまった。商家の朝は忙しい。
そういう自分も、家の仕事が終わったら、機小屋にいって、掃除をしなくてはいけない。一番下っ端が、一番早く行かなくてはいけないのは、どこの世界でも同じである。
ニノのお墨付きをもらえるくらい、蘭はよく働いた。てきぱきと体を動かすのは、嫌いではなかった。やるべきことがたくさんあるのはいい。余計なことを考える暇がないからだ。
凛の夢を見ることは、あれからなかった。




