Ⅰ 針森の村 -3
家に戻ると、母も同居している寧も、まだ戻っていなかった。まだ、作業をしているのだろう。村では、結婚しても、男女は一緒に暮さない。同業の者たちで一緒に住む。寧も織師で、母の同業者だった。織師は機織りが主な仕事だが、糸の染色も行う。寧は染色の達人だった。機織りをする機小屋は、柳と寧の小屋のほかに四か所あったが、色の美しさでは、二人の小屋が群を抜いていた。
蘭と凛は弓矢をおろして壁に立てかけ、手甲と脛当てを外し、泥を落とすと、壁に並べて吊るした。
「もうおなかがペコペコだわ。由のところに革を取りに行ったら、まかない所にいこうよ。もうすぐ鐘が鳴るんじゃないかしら」
甕の水で手と口をすすぎながら、凛はため息まじりの声で言った。
蘭にはもちろん異存などない。朝からずっと森にいたので、空腹で目眩がしそうなほどであった。
村には川が一本流れているが、なめし所はその一番川下にある。水をたくさん使うし、汚水もかなり出るからだ。汚水は中和して流すが、生活用水も兼ねている川の上流から流れてくるのは、気持ちいいものではないだろう。そういうわけで、なめし所は一番川下に建てられた。
村の皮をなめす技術は、都のものより優っているというのが、村の人間たちの自負であり、誇りであった。村では、基本、自給自足で成り立っているが、時折、外の者が買い付けに来ることもあった。
薬樽が整然と並んでいる間から、人の頭がまばらに見える。独特の匂いに鼻をヒクヒクさせながら、二人は由を探した。長年の力仕事でたくましくなった腕をみつけて、凛は声をかけた。
「忙しいところ、ごめんなさい、由。塩爺から聞いているかしら。大鹿の皮をもらいにきたわ」
村中のなめし師をまとめるだけあって、由の存在感はさすがである。雰囲気だけでなく、その容貌も独特だった。二の腕は太いのだが、身体はしまって細く、髪は匂いが付くのを嫌って、短く刈っていた。しかし、耳につけた大きなリングの耳飾りが、彼女の女らしさを語っていた。
由はにっこり笑って手をあげると、奥から革を持ってきた。美しくなめされた鹿革が二枚。凛の目が喜びに輝いた。
「こんな大きな革、貰っていいの?新品の脛当てが作れるわ」
「大鹿だったからね」
由は答えると、凛に革を手渡した。
「良い脛当てを作っておくれ」
二人のやりとりを何とはなしに眺めていた蘭に、由はくすりと笑って言った。
「うらやましそうな顔をしているよ」
はっとして、ばつの悪い顔をした蘭に、由はやさしく言った。
「お前のは頼まれていないからね。勝手に革をあげることはできないよ。今度は、きちんと自分の取り分を言いなさい」
塩爺が何か言ったのかなと思いながら、蘭は神妙に頷いた。凛といると、蘭はよく言葉を飲み込む、と柳にもよく言われていた。
凛のことはいいの。蘭はどうしたいの?
どうしたいかと問われても、凛のやりたいようにと答えるしかなかった。幼い頃は、そう答えると、凛は嬉しそうに抱きついてきた。「蘭、大好き」と言いながら。
でもいつの頃からか、嬉しそうな顔も、「大好き」の言葉もなくなった。ただ黙って、じっと蘭の顔を見るようになった。
一度誰かが、たまには蘭に譲ったらと、凛に言ったことがあった。すると凛は「わたしが譲っても、蘭はいらないと言うわ」と首を横に振った。
確かにその通りだ。凛が欲しいなら、凛にあげたい。