07.交流
淑女教育の行き着く先は、あらゆるマナーを身につけること。それは王妃になるための教育の最低限で、王妃とは一流の淑女なのだ。つまり淑女教育とは物凄く雑に言うと王妃教育の一部。サリドラが厳しく仕込まれた教育である。
そこに外交に関する教育などが量を増やし、程々に余裕のあったサリドラの生活は、一変して忙しくなった。合間に王妃との茶会――という名のテストを受け、婚約者としてロルフと友好を深めている。
「最近は何かあったか?」
特別優しげではないが、形だけでもない声で聞かれると、サリドラの口は止まらない。
こんなことを学んだ。こう思った。忙しいけれど楽しい。こういう煩わしいことがあった。もっとスムーズに対処できるようにしたい。
姉と母が領地に引っ込んでから、サリドラには親しく話せる人がいなかった。女友達など一人もいないし、少ない使用人からは遠巻きにされている。一番会話をするのが王妃だったので、まさか小娘の世間話を気軽に振れるはずがない。
息を抜ける会話に飢えていた。なんでもない話を聞いて欲しかった。大袈裟な反応をせず、軽く受け止めて欲しかった。
ロルフは王子だ。しかしサリドラに対等であれと言った。
殊勝に遠慮をしていたのは最初だけで、被る猫などとうに逃げ出した。兄に懐く妹とは、交流を目撃して呆れた王妃の言葉だ。兄。そう、こんな兄がいたのなら、サリドラは幸せだったに違いない。
ただ、この雑談は別に一方的なものではない。
「ロルフは?」
「今週は比較的時間が空いていたから、インクの改良をしていた。あれは作るのにそこそこコストがかかる」
「質のいい魔法素材は高いものね」
「素材も高いし……時間もかかるな。もっと魔力が溶け込みやすい素材があればいいんだが」
「一度姉に聞いてみましょうか。領地は田舎だから、王都では珍しい何かがあるかも。でも期待はしないで」
「ああ、助かる」
本人が言った通り、ロルフはロルフで対等な立場で喋ることができる相手に飢えていた。両親は国のトップ、弟とはやや距離を置いている。他愛のない話ができる相手は、彼にもまたいないのだ。
お互い、気楽に相槌を打つことすら楽しんでいる。王子も絶世の美女たるサリドラも、適当な返事が妙な言質にされそうで、日々張り詰めているのである。
ちなみに、婚約の件は帰ってすぐ姉に手紙で報告した。頭の痛そうな空気は感じられたが、特にお叱りはなかった。
無理強いされていないのか、何かあればすぐに言うようにと最短で届けられた返信は、何度も読み返して宝箱にしまった。無理はしていない、わかった。心配してくれてありがとうと返すと、おめでとうと届いて涙が出そうになった。
それから。
「そういえば、サリエリ伯も婚約したと聞いた。おめでとう」
「まだ国に届けたばかりなのに。情報が早いのね」
「婚約者の姉君の話だからな」
そう、姉、アルジラが新しい婚約者を得たのだ!
サリドラの顔を知らない、国外から来た魔術師だそうだ。なんだか便利な魔術を幅広く使えるらしい。植物や土壌の鑑定とか、物探しとか。性格は控えめで謙虚。見た目はやや頼りないが、アルジラを尊重してくれる温かくて優しい人だと母からの手紙で熱く語られていた。
「外戚となるから一応調査しているが……まあ、大丈夫だろう」
「姉は人を見る目があるので」
「きみは姉君が好きだな」
「世界一の姉なので!」
本当は姉を託すにふさわしい男かどうか確かめたいところだが、そうするとまたも姉の幸せを壊すことになると思うので、一生、絶対に顔を合わせないと決意した。どうせ姉の方が人を見る目があるのだから、サリドラの審査など意味もないし。
姉の幸せを願うサリドラを、ロルフは優しく、羨ましそうな目で見ていた。
「マーキスも、昔はこんな感じだったな」
「第二王子が?」
「俺のあとをついて来て、兄さまは凄いと目を輝かせてくれていたんだ。サリドラと同じように」
遠い日を想うロルフと同じように、昔の姉も愛しいものを見る目でサリドラに微笑んでくれていた。まだ特殊な変態くらいしか欲望を露わにしてこなかった、幼い時分の話だ。周りが変わって、姉も、サリドラも変わってしまった。
立場が違えど、兄弟間のいざこざや葛藤は似るものらしい。共感を覚えて眉を下げると、サリドラの気落ちを感知したロルフは意地の悪い笑みを浮かべた。
「きみよりもう少し控えめで大人しかったが」
「控えめに大人しくしているでしょう」
「それでか」
「わたくしが本気を出せば国を傾けられましてよ!」
「ああ……そんなことを言っていたな」
見えないはずの目が、じっとサリドラを射抜く。
遠慮の視線などという今更なものに気圧されてしまうのは、その目が真っ直ぐ過ぎるせいだ。
「まだ弟と面識はないんだったか」
「ええ」
「義姉になるのだから、近い内に顔を合わせることになるんだろうが……」
「登城の時間に制限がかからなくなったし、ばったり会うかもしれないわね」
人をまじまじと見て――見えていないはずだが――苦い顔をするのは失礼ではなかろうか。眉間を押さえる指がわざとらしい。
でも言いたいことはわかる。
「弟に恋敵扱いされるのか……俺は……」
質量を持ちそうなほど、その溜息は重かった。
「私が美しいばかりにごめんなさい」
「まだ希望はあるとか言え」
「では今から気休めを言うわね」
「……いい。悪かった」
だらけた姿勢で菓子を摘まむ彼の視線は、逸らされるかと思いきや、まだサリドラを捉えていた。
「何?」
「なんでもない」
今度こそ逸らされた横顔は、明らかに言いたいことを呑み込んだように見える。頑固な男のことだから、少しつついたくらいでは口を開くまい。
言いたくなったら言うだろうと放り投げ、その日の交流は終わった。
そんな感じに、それなりに忙しくはなったもののガラリと変わったというほどではなく、実りのある日々を送っている。
目論み通り、あからさまな態度で言い寄る男は減った。たまに暴れ馬のように飛び出してくる男はいるが、ロルフ相手ではないサリドラの棘は優秀だ。深く刺して、二度とふざけたことをしないように躾けている。
予想していた新たなトラブルには遭遇しなかった。幸か不幸か、新しい生活に慣れるまでは。