06.婚約3
「わたくしがいいと言っているのです。有象無象は関係ありません」
「俺のことなど何も知らないだろう。どうせその内、嫌になる」
「……随分ネガティブなのですね、殿下」
尖らせていた声を和らげて戻すと、ロルフは子供のようにそっぽを向いた。
王子様然とした爽やかな彼の噂ばかり聞いていた。だから意外な大人げのなさに驚くが、考えてみれば頷ける。
厳しい教育、いずれ国を背負うという重圧。負けずに邁進していたところに思わぬ傷を受けたかと思えば、周囲が手のひらを反すのだ。そりゃあ捻くれるだろうし、人間不信にくらいはなろう。
「初めてお会いしましたから、勿論殿下の内側など詳しくは存じませんけれど」
意図的に顔を合わせないようにされていた。理由はわかっていたから、貴族として最低限の知識は押さえども、好奇心など持たないようにわざと深い事情を知ろうとは思わなかった。
でも、こんなに短い時間でさえわかることはある。
「歩行の補助のため、周囲の形を把握する術を編み出したのでしょう。見えない世界を歩くための努力ができたほどに、あなたが強い人なのだとは教えていただきました。凄いことだと思います。それに、魔術は才能が必要なので誰でも同じことができるわけではないですけれど、殿下以外の目が見えない方も助かるかもしれませんね。……騎士や兵士が覚えたら、護衛や巡回に使えないかしら。暗闇の中でも警護ができますし」
「……それは……」
丸く見開かれた紫色がふらふらとさまよった。
迷うように唇が開閉され、しばらくして、目線を外したまま小さな声でロルフは言う。
「……最近、魔術に反応する特殊なインクが完成した。王城では今、重要な書類には偽造防止を理由にこれを使わせている」
「ええ。そのようですね」
突然なんの話だろう。
半年ほど前に作られたインクのことは知っている。魔力に反応する素材を混ぜており、魔力を流すと光るのだ。ただの王妃のお気に入りであったサリドラが利用したことはないが、王妃が書類を光らせているのは見たことがある。
このインクが使われていない書類は、王族が手にするほどの重要書類として扱われない。清書が手間ではないかと思われたが、インクを変えるにあたり書式を統一させたので、官吏の仕事はむしろ楽になったらしい。
両陛下、および王子たちの仕事に余計なものも混ざらなくなり、書式が整ったので処理も早くなり、時間に余裕ができたと王妃が喜んでいた。
「仕事に支障をきたすようになったから、俺が開発させた」
「と言われると……まさか、あのインクを使えば、目が見えずとも書類が読めるのですか……?」
「そうだ。魔力を見るのは視覚ではないから。少しでも魔力が流せる者なら誰でも読める」
「視覚が関係ないなら、視力の弱い人でも読めるのですか?」
「眼鏡を外してもはっきりと読めたようだ」
「それは……え? 凄いではないですか。皆様大助かりでは」
凄いというか、凄過ぎるのではないだろうか。
彼が目に傷を負ってたかだか三年である。周囲の形を判別する魔術を生み出しただけでなく、仕事のことまで手を伸ばしていたとは。おまけに周囲に貢献までしている。
「凄いですよそれは」
「……そうか」
心から感心して重ねて言えば、ロルフは俯いて腕を組んでしまった。
うっかり口調が砕けてしまったから怒らせたのかと思ったが、よく見ると何やら頬が微妙に赤い。色の濃い肌は血色がわかりにくいから、ポーカーフェイスを貫きやすいのに。
もしかして照れているのかこの人。褒められたから。ひょっとして、突然何を話し出したのかと思いきや……もっと褒めて欲しかったのか、この人?
「えっ」
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「いえ、不敬になるかもしれませんので」
「不敬になるようなことを考えたのか」
「いえ、そんな、多分、そんな……」
――可愛いですねあなた。なんて言ったら不敬になるだろうか。
ぶっきらぼうな口調に胸を高鳴らせる。こんなことは初めてだし、そもそも十を超えた男性を可愛いと思うこと自体が初めてだ。
何せサリドラは男を狂わせる美貌の女。謙虚な者もいないことはないが、自己アピールとなれば大抵の男たちは挙って己の有能さ全力で推してくる。話を盛って盛って盛って盛って、最初から最後まで言葉を濁すことなく全てを濁流のように唱え出すのが常だった。
美しさに興奮し切った大人の男たちは、うるさいか、しつこいか、ギラギラと目を輝かせて、あるいは全てを網羅しているか。いずれにせよ圧迫感のある押し売りばかり。絶対に変わりないのは、あわよくばその先を求める、欲望を込めた視線だった。
それがこんなに控えめに、頭を撫でて欲しいとチラチラ見上げる子犬のようなアピールが存在するとは。
「殿下は」
「ロルフでいい」
「……ロルフ様は」
「なんだ」
「凄い方ですね……」
「そうか」
しかし、褒められ慣れていないのだろうか。装飾語をつけることもなく更に重ねた単調な感心にまで喜んでいるなど。
ロルフは優秀な人だ。幼い頃から利発で覚えがよく、事件の前にはすでに知識面での王太子教育は終えていたという。王妃は日頃から満足げにしているし、サリドラと会う機会の少ない王も息子自慢をしていたはず。
今更ただ褒められただけで照れるのは不思議だが……怪我を負ってから、それだけこき下ろされているのかもしれない。
湧いて出る同情を表に出さないようにしながら、代わってこちらからも訊ねた。
「ロルフ様こそ、私でいいのですか。初対面でご覧になったとおり、内面は淑女から程遠い女ですよ」
「普段は取り繕えているんだろう」
「よりによって王族であるロルフ様の前でやらかしました」
「きみに教育を施した、あの厳しい母がいいと言っているんだから問題ない」
サリドラにもそれなりに自信はあったのだが、今日はあっさりと化けの皮が剥がれてしまって自信を失ってしまったのだ。おまけに一度剥がれた影響なのか、それとも惚れられていないという安心感で警戒心が仕事をしていないのか、妙にぽろぽろと素地が出る。
このポンコツな中身を危険区域でさらけ出してみろ。せっかく牽制していた男たちが我先にと手を伸ばしてくることになる。これは自惚れではなく事実である。
「きみは落ち込んでいるが、個人的にはやらかしてくれてよかったよ」
目を翳らせるサリドラとは反対に、無防備に椅子に背を預けたロルフが軽く笑った。自分の話題でなくなると途端にリラックスするらしい。
「母を参考に教育されたということは、きみの外向けの姿は、多かれ少なかれ母に似ているということだ。……婚約者が骨の髄まで母の現身というのは、ちょっとな」
「確かに」
「中身が全く違って安堵している。薔薇の棘が着脱可能だというのもいいな。とっつきやすい」
「ものは言いようというやつですね。でも確かに」
ツンツンツンツンした態度の人間と仲を深めるなど一種の拷問。令嬢を撃退したあの態度のサリドラと仲良くなれと言われたら、自分なら絶対に御免だ。
「だから、二人のときには気取った態度を取らなくてもいいぞ。敬語もいらない。敬称も」
「それはさすがに」
「俺もたまには対等な立場で普通に喋りたいんだが?」
「……善処します、わ」
「悪化してるじゃないか」
二つ返事で頷くだけの度胸はなかった。
曖昧に返事をすると、吐息をこぼすようにして笑った彼は、内緒話をするように身を乗り出して声を潜めた。
「本当に、俺に悪いことをしたなどとは思わなくていい。いけ好かない奴らばかりが喜ぶのだと思っていた俺の失明が、きみのためになったというのは……悪くないと思ったよ」
子供を諭すような、柔らかな、囁くような声だった。
母親の面影が強いロルフの顔。彼の作り笑顔は王の笑顔とは印象が違ったが、そうして自然な柔らかい表情をしていると、柔和な王の血を確かに引いているのだなとわかる。容姿をあれこれ言うようないけすかない奴らとやらに、彼はきっとそういう顔を向けはしないのだろう。
無造作に手が差し出されて、意図を察せず凝視する。
骨張って、荒れて、小さな傷さえついた指。欠けた爪が痛そうだ。これはただの偏見だけれど、王子というよりは騎士か兵士のようだった。
「サリドラ。これからよろしく頼む」
ひらりと揺れた指先に誘われてこちらからも手を伸ばすと、躊躇いもなく捉えられて揺らされる。
握手のためにあわせた手のひらは硬く、彼の並々ならぬ苦労と、力強さを感じさせた。
「よろしく、お願いします、ロルフ様」
「口調」
「…………ロルフ、……」
「よし」
最後にぐっと強めに握られて、サリドラより高い温度が離れていく。大きな手だった。手を握られたのに不快感がなかったのは、下心を感じさせないからか。
……よくわからないし、なんとも言えないし、確信は持てないし、どうしても先行きへの不安は消えないが。
満足げな顔で微笑むロルフを見ていると、突然背負わされた重責の割には、まあなんとかなるのではないかと思えた。
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