ロルフの幸福と奇跡の話
喉元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉がある。
ロルフは現状、まだ過ぎ去ったばかりの熱すら忘れて度々思う。視力を失ったことは、結果的に幸運だったのではないかと。
我ながら浮かれている自覚があるし、さすがに公の場で口にするのは憚られた。こうして奇跡的に治ったから言えることで、まかり間違っても同じように視力を失っている人間には到底聞かせられない暴言だ。
しかし親しい者の前であればその限りではない。例えば己の執務室で、側近のエイベンと二人きりのときだとか。
「まあ、散々心配をかけたおまえにそれを言うのはいけないんだろうが」
「いいえ、殿下がお幸せならばいくらでもお惚気ください!」
クールなようでいて表情筋豊かな側近は、大層嬉しそうに笑って先を促した。
なんでもエイベンは、主の妻に横恋慕をする可能性がなくなったため、毎日がとても幸せなのだという。そんなことで幸せになるなと思うのだが、彼は飛び抜けて真面目で誠実な男だ。余程思い詰めていたのだろう。
言葉に甘えてぽつぽつと続ける。
ロルフは視力を失ったことで多くを失ったが、代わりに様々なものを得た。弱者の目線であるとか、信頼の置ける側近であるとか、得たものは数多くあるが、ではロルフにとって一番大きなものは何かというと、考えるまでもなく最愛の妻であると思う。
昔から容姿についての評判は耳にしていた。サリエリ伯爵家には美の化身がいると。
だが当時のロルフはあまり興味がなかった。年月を追うごとにその評判は高まって、美貌に纏わるトラブルが増えたと聞いた。大変そうだなと他人事として思っていた。
ロルフが毒を受けるのと前後して、母がサリドラを教育し始めたらしい。消沈したロルフはあまり情報に触れようとしなかったので詳しくは知らないが、恐らくこの頃から王妃はサリドラを王太子妃にするべく目をつけていたのだろう。
失明から一年が経った頃、侍女たちの噂話を聞いた。サリドラが貴族令嬢たちに悪意を向けられがちなこと、男に害されそうになったこと、それでも負けじと教育に打ち込んでいること。置かれた境遇は悲惨の一言で、さすがに顔が引き攣った。
二歳年下の少女が茨の道を力強く歩んでいる。思えば燻っている己の現状がなんだか情けなくて、どこかへ一歩踏み出そうとロルフはとにかく立ち上がる努力を始めた。
目が見えない。がむしゃらに歩いているが、進んでいるのか同じところをぐるぐるしているのかがわからない。さまようロルフに、初めて出会ったサリドラは、確かに前に進んでいるのだと教えてくれた。
触れるなど畏れ多い。気高く、美しく、手の届かない高嶺の花。共に過ごせば過ごすほど、サリドラに向ける皆の評価がわからなかった。
ロルフにとっての彼女は、思っていたよりずっと普通の人間だったからだ。努力家で、負けず嫌いで、他愛のない話をするのが好きな可愛らしい女性。気高く美しい強さは感じるが、柔らかな輝きに触れることを躊躇う理由はなかった。
ひとえに目が見えなかったおかげである。
ロルフは特別な何かを持つ人間ではない。仮に視力を失っていなかったのなら、他の男たちと同じく恋に狂っていたのだろう。サリドラを苦しめる一人の男となっていたはずだ。
「幸運にもサリドラの中身と向き合える環境にあったから、サリドラからの愛を受け取れたんだ。そうでなければ恋に狂った未来の王は、サリドラを権力で手にしていたかもしれないな」
「殿下はそのようなことはなされません」
「あるいは、他の目の見えない男がサリドラの心を手に入れることになっていたか」
「それはあるかもしれません」
「否定しろ」
「正直者で申し訳ございません」
忠臣をいびっていると手元の書類が完成した。
特殊なインクを用いないそれは、本来ロルフが処理すべき案件ではない。サリエリ伯爵領に関わるものである。
一見突き放そうとしているようで、その実妹を愛しているサリドラの姉アルジラは、当然ながらドレジ子爵の所業に激怒したようだった。領地の収入を減らしてでも取引を打ち切ろうとしたのだが、彼女の婚約者がやんわりと止めたらしい。
女神の愛する姉のもとで贖罪していればいつかお目通りできるかもしれないと甘言を弄した結果、ドレジはせっせとサリエリ伯爵領を発展させるべく従事している。ロルフもアルジラも、二度とドレジをサリドラに会わせる気はないので無駄な労力である。恐らくアルジラの婚約者も会わせる気はないのだろう。
ただ、会わせる気はないが、会う可能性がゼロではない機会は訪れようとしている。
「ロルフ、今いいかしら?」
ドアがノックされ、ひょこりとサリドラが顔を出した。少し凝った髪形をして、いつもより華やかなドレスを身に着けている。その姿はまさしく女神のようだった。
「ああ、いいんじゃないか。清楚に纏まっている」
「そう思う? 大丈夫? エイベン、私に惚れたりはしなさそう?」
「ええ、お二人が眩し過ぎるので平気です!」
ロルフとの結婚式よりも緊張した面持ちのサリドラは、このところ己の衣装について人生で一番悩んでいる。
結婚式のドレスやアクセサリーは、言葉では言い表せないほどに豪奢だった。サリドラは光り輝かんばかりの衣装に負けず、堂々たる態度で国民たちに手を振った。すでに夫婦になっていたので式自体に思い入れはなかったが、限界まで着飾ったあの姿は後世に語り継がれて然るべきだと思う。というか、今なおあらゆる分野の芸術家が腕を振るっては嘆き苦しんでいるので、既に語り継がれることは決定づけられている。
目の前で眉を下げる彼女は、そのときとは正反対に弱々しい。そんな姿もまた美しいのだから、愛の神の加護がつく前は、それはそれは大変だったことだろう。
「お姉様の結婚式に出られるだなんて夢のようだけど……まさか衣装選びがこんなに大変だとは思わなかったわ」
姉に美しいと思って貰えて、しかし決して出しゃばらず、領地の男を引っかけず、まかり間違っても姉の婚約者の目を奪わない格好。
そんな難しいオーダーを日々模索する妻をロルフは微笑ましく見守り、アルジラの結婚式でトラブルが起きないように婚約者と話し合っている。
「そんなに心配しなくても、愛の神の祝福があるのだから大丈夫だろう。俺と二人揃っていれば盤石だしな」
愛の神の祝福は強力だが、相変わらずサリドラの美貌の力も強かった。以前ほど強烈ではないが、この美しさなので惚れる者は惚れる。祝福はサリドラとロルフが二人揃っていてこそ本領を発揮するのだ。
妻が無用に言い寄られるのは面白くない。そういう事情もあり、義姉の結婚式なのだから、当然ロルフも赴くつもりだった。いささか遠い場所ではあるが問題はない。緊急の仕事を押しつけても良心の呵責を感じないくらいに両陛下は元気である。
とはいえ別に仕事を放棄して遊びに行くわけではない。インクの材料についても話があったので、ちょうどいい機会なのだ。
「楽しみだな、サリドラ」
未来の義兄からの手紙によれば、義姉がサリドラを嫌がることはありえない。ドレジと出会う可能性はできる限り潰している。警備についても手を回しているので、余計なトラブルを起こさせる気はない。
だから、そんな不安そうな顔をせずにただ楽しみにしていて欲しい。思いを込めて短く問えば、感じるものがあったのか、サリドラは薔薇のように笑った。
「……ええ、そうね。とっても楽しみ!」
目を細めて、美しく咲き誇る花を見つめる。思い余って額に口づけを落とすと、ふわりと頬が赤らんだ。
失明については本当に苦しかった。しかし谷底に落ちた自分はもう十分に悲観を重ねた。だから今更それを反芻すまい。
不幸を反芻すまいとなると、あとはもう幸福に目を向けるしかなくなる。
己に与えられた幸福がなんの気兼ねもなく咲き続けられるよう、神の前で己に誓った。できることなら愛した女の姿を見たいと、彼女の願いを自分こそが叶えたいと神に願った。願いは叶えられたから、ロルフは一生をかけて誓いを果たさなければならない。
尊い幸福を腕の中に閉じ込めて、ロルフは全ての奇跡に感謝した。
幸福と奇跡は、どちらもその名をサリドラという。
これで終わりです。
長い間おつきあいいただき、ありがとうございました!