33.目を閉じて、
「真実愛し合う夫婦を引き裂くことまかりならぬ。ロルフ・フォークナー及びサリドラ・サリエリが夫婦となり、誠の愛を示した時、我、愛の神は今生の二人の愛を守る祝福を授ける」
厳かな王妃の声に、ロルフと目を合わせる。彼女が愛について語るのは似合わないなと以心伝心。どうだとばかりにこちらの反応を待つ王妃に、サリドラは眉を下げて控えめに言った。
「また祝福という名の災害が何か?」
「疑心暗鬼が過ぎるわよ。わたくしが仲介の神にあれやこれやと注文を繰り返して勝ち取ったのだから、そんな不手際があるはずないでしょう!」
国神も可哀相に。王妃の注文に応えるなど、並大抵の努力では済まなかっただろうに。
仲介の神には、まず愛の神を呼び出して貰ったらしい。一対の美しい夫婦愛について熱弁し、サリドラの美貌に誘惑された不埒者の手で夫婦が引き裂かれる可能性を説いた。
どうにかこの迷惑な美貌を抑える術を得られないかと問えば、サリドラの稀なる美を夫婦で共有し、一対の美、手出しできない至高の二人とすることは可能であると告げられた。しかし、それは素晴らしいことであるから是非やってくれと頼んだところ。
「他の神の創造物に手を加えるのはと渋られたので、追加で美の神も呼び出ししていただいたのよ」
そちらにも対の美を持ち出し、ついでに年を重ねることで生まれる美しさについても説きに説いた。
王の補足によれば、説得が完了したというよりは、人間らしからぬあまりの圧と押しに折れた形であったらしい。神すら圧倒する精神。さすが王妃だと思う。
「そういうわけで、おまえたちが愛を成立させて神の前で宣言を行ったら、おまえたちは愛の女神直々に祝福をいただくことができるわ。サリドラは集る羽虫に煩うことはなくなり、ついでにこれから増えるだろうと思われていた、ロルフに言い寄る女狐もいなくなるわね」
とんでもない話をしばし脳内で噛み砕く。ラヴェーヌより気品に満ちた『ドヤ顔』に反応を急かされたので、サリドラはぼんやりとしたまま咀嚼中の言葉を吐き出した。
「つまり……婚約を解消しなくてもいい、ということですか……?」
「解消!? 絶対にしないからな俺は!」
正面に座っていたロルフが飛び上がり、王妃とは反対隣の狭いスペースに体を捩じ込む。固く手を取られ、ロルフの言葉を脳に入れると、長く続いていた緊張がじわりと解け出した。
少し待っても主張への反論も上がらない。両陛下はむしろ、サリドラの懸念を聞いて、ロルフと同じく目を剥いて驚いているようだった。
「お、おまえ、婚約の解消を望んでいたの?」
「いえ、解消した方が、後顧の憂いがなくなるかなと……」
「嫌ではないのね!?」
「あ、はい。私でいいのなら」
「国のために息子すら蹴落とすわたくしが、手塩にかけて育てたおまえが相応しいと言っているのよ! なぜそんなに自信がないの!? ロルフ、おまえサリドラを口説きもせず、何をしていたの!」
「つい先程、まさに口説いていたところに乱入されましたが?」
ぎゃあぎゃあと言い合いを始めた二人には、とにかくサリドラを離す気がないようだ。
婚約は解消しなくてもいい、らしい。浸透していくにつれ喜びが溢れ出す。
サリドラという負債が、他ならぬ神の手で返済されるという。散々迷惑を被ったのだからいまいち神を素直に信用しづらいものの、王妃がああも自信満々だということは、恐らく疑心にかられて不安がる必要はないのだろう。
聞いた通りにこの美貌にまつわるトラブルがなくなるのであれば、王太子妃、および未来の王妃としては問題がなくなる。美しいだけなら、現王妃だって人間の頂点に立つほど美しいのだ。
サリドラを挟んで王妃と話すロルフを見上げる。
婚約を解消されないなら、好きだと告げてもいいのか。ロルフの目が見えるようになってサリドラの全てを愛してくれたなら、サリドラは手前勝手な遺憾もなく彼を愛することができるのか。
ひっそりと息を呑むサリドラに、横から声がかけられた。
「サリドラ、きみには感謝しておるよ」
母子が奏でる騒音の中、不思議とよく通る穏やかな声。顔こそ何度も合わせているがあまり話したことのない王が、眩いものを見る目をしてサリドラを見つめていた。
「このたび息子の目が治る兆しを得たのは、恐らく神の祝福が伴侶にまで効果を伸ばしたからであろうと思われるのだ。きみの傷がすぐさま治るように、傍にいる者の傷も徐々に治癒されるのではないかとワシらは考えておる。美しいものの隣には美しいものを、ということだな。そして一月前、ついに人の手で治療できるほどまでに回復した」
「神の、祝福が……」
役に立つことがあったのか、と己の滑らかな頬を撫でる。うっかり本心を口走ると、王は眉を下げて困ったように笑った。
「きみにとっては災難極まりない神の祝福だろう。きみが苦しんできたことをワシは知っておる。涙を堪え、必死で背筋を伸ばしていた努力も。きみの不幸を喜ぶようで申し訳なく思うが、あえてこう言わせて貰おう――きみの長らくの不幸が、ワシの息子を救ってくれたのだ。本当にありがとう」
王が深く頭を下げるのを、止めることすら忘れて見守ってしまった。マーキスに謝罪されたときにも同じことをしてしまったように思う。
聞きようによっては、サリドラを傷つけようとする言い回しだった。不幸であってありがとうだなんて。でも、なんだか報われた気持ちになる。サリドラが不幸であったことが、誰かのために……好きな人のためになったというのだ。
『いけ好かない奴らばかりが喜ぶのだと思っていた俺の失明が、きみのためになったというのは……悪くないと思ったよ』
婚約が決まった日、サリドラがロルフの目のことを喜んだとき、ロルフは柔らかな声でそう言った。こんな気持ちであったのかと今更ながら思う。
苦しんだ日々は無駄ではなかった。涙が出そうになって、慌てて堪える。
気づけば言い争いは止まっていて、ロルフはサリドラを気遣うように手を回しながら王を睨みつけていた。そんな顔をしないで欲しい。サリドラは王の言葉に少しも傷ついてなどいないのだから。
「ああ、でも……」
王の感謝を受け入れようとして、ふと思う。
ロルフが視力を取り戻せる目途がついたのは一月前と王は言った。神殿でロルフの幸福を祈ったのがそのくらいのことだ。あるいは本当に、サリドラの願いが最後の一押しであったのかもしれない。
それなら、以前神殿を訪れた際、サリドラが躊躇わなければ。
「私の心が醜くなければ……もっと早くに殿下の目は治っていたかもしれません」
「醜い? それはよくわからんが、治ったのだからよかろう。サリドラがいなければ早いも遅いもなかった」
「ですが」
「なあに、きっとその時間は必要なものだったのだ。国の病巣に刃を入れるために、ロルフとマーキスの和解に、そして、きみとロルフの未来のために」
本当にそうであったのかは今となってはわからない。けれど、ずっと気に病んでいた弱さを許された気持ちになった。
ロルフを見上げると、鮮やかで美しい紫色の瞳と目が合う。サリドラの青い瞳が映らないことを、初めて残念だと思った。
心地よい関係を壊すことを恐れ、サリドラは全てを後回しにしてきた。この姿を見たなら態度を変えてしまうと思ったから、奇跡を願うことを躊躇った。彼を愛してしまったら全てを愛して欲しいと願ってしまうから、奇跡に頼らないよう己の心を偽った。
「ロルフ」
だから、幸福に片足をかけた今くらいは、結果を待たずに先回りしてもいいのではないだろうか。
「愛してるわ。どうかその目が治ったら、私の全てを愛してね」
それは、我ながら薔薇の花が開くような会心の笑みだった。
奇跡の青薔薇の開花は、美に慣れたはずの両陛下の目さえ奪った。まだ花の見えないロルフは、笑みにとらわれることなく強くサリドラを抱き締める。
見惚れられるのにはうんざりしていたが、彼がいつかこの顔を見て狼狽える日が来たのなら、それはとても楽しみなことだと思う。
サリドラの愛を受け、善は急げと王妃に押されて二人は大々的な式を待たず夫婦となった。
普通であれば問題だったが、片割れがサリドラとなれば結婚式で略奪を仕出かそうとする複数の馬鹿を生み出しかねない。仕方なしと皆が目こぼしをした結果、見事愛の神の祝福により、誰にも邪魔ができない連理の枝が完成した。
後に行われた結婚式では、サリドラや王子が人のものとなる嘆きより、美しい一対の夫婦への感涙で溢れていたのだから、やはり神の力とは恐ろしいものである。サリドラの美貌が一片たりとも衰えてなどいないのに。
ついでに両陛下も今更ながら愛を育んでいるらしい。なんでも愛の神に「夫婦愛を語るならば当人もそうあるべき」と諭されたとか。元々仲が悪い二人ではないから、そこそこ順調に甘酸っぱさを振り撒いている。
月日が経ち、ロルフの視力が取り戻された。功績を称えられるべきは美の神だったが、愛の奇跡とうたわれるのを、サリドラは意地の悪い気持ちでせせら笑う。いくらロルフのためになったからといって、美の神への恨みが払拭されたわけではないのだ。
初めてサリドラを見て、ロルフは澄んだ紫色を丸くする。みるみるうちに顔が赤らんだ。
「これは牽制もしたくなる……」
随分と遅れて護衛の気持ちを理解したらしい彼は、誰にも見られぬようにサリドラを腕で包む。
いつかのサリドラは青い薔薇になりたかった。棘を落としてなお触れられぬ、人の手の届かぬ幻想の薔薇に。
でもたまに、赤い薔薇を羨ましく思っていた。鋭い棘で人の手を拒絶しながらも、大切に扱われればその身を許す愛の花。
唇で柔らかい感触を受け止める。ロルフは嬉しそうにはにかんで、サリドラの青色を覗き込んだ。
「顔が真っ赤だな。これでは青薔薇だか赤薔薇だかわからない」
自分の顔だってまだ赤いくせに、余裕ぶって揶揄ってくる。
呆れるよりも愛しくて、サリドラは薔薇のように笑んだ。そこに色など関係はない。青色だろうが赤色だろうが。
「どちらにしたってあなたの花よ」
抱き着いてこちらから唇を重ね、それ以上の軽口を塞いでやった。
紫の目が閉ざされるのを見て、喜びと焦燥を同時に感じる。このままずっと口付けていたいような、それとも早く自分を見て欲しいような。
ああ、なんて幸せで我儘な悩みだろう。
サリドラは吐息で笑って静かに目を閉じた。
本編これにて終了です。ありがとうございました!
よろしければ評価などいただければ幸いです。
後日、ロルフ視点の番外編をひとつ追加する予定です。