30.ドレジという男
「ああ、我が女神様、ご無事でしたか!」
「ドレジ卿」
腹を揺らして駆け寄る子爵を見て、日常に戻れた気持ちでサリドラは微笑んだ。
あんなことがあったばかりだ。サリドラとて、関わりの薄い相手であれば目もあわせなかっただろう。けれどドレジは馴染みの男である。心からこちらを心配している顔に、なんだか少しホッとする。欲に晒された後だから、そういう意味で自分を害さない人間の存在はありがたかった。
しかしロルフは警戒も露わにサリドラの前に立つ。場に残った数人の騎士もまた、サリドラにもわかるくらいに空気を張り詰めさせたようだった。
「なんの用だ」
「女神の危機を知り参上した次第でございます、殿下」
「どこで聞いた?」
問いへの答えに、ロルフは鋭い目を解きはしなかった。横にずれて顔を出そうとしたサリドラの身が引き寄せられて、広い胸に頬をつける。
ドレジはやり手の商人である。表立っては言えずとも、城に子飼いくらいはいるだろう――いや、それにしてもおかしい。未来の王太子妃が誘拐されたなどというとんでもない醜聞、易々とは漏らさないはずだ。それに。
「……駆けつけるのが早いのですね?」
「いいえ、遅いくらいでした」
悔いるドレジから飛び出した、続く言葉に瞠目する。
「いつもの通り焚きつけた彼らが、まさか誘拐などというたいそれたことを仕出かすとは。我が女神が輝きを増したことを考慮できなかったなど、商人として情けない限りです。さすがに肝が冷えました」
「焚きつけた?」
「はい」
それが何か、と言わんばかりの真っ直ぐな目をして頷いた。その悪意のなさに呆然とする。
ドレジは生粋の美術品好きだ。価値ある美術品を愛で、更に美しく磨き上げることが好きな彼にとって、それは全くの好意であったという。
サリドラに欲望の目を向ける男に甘言を弄し、少しばかり強引に言い寄らせた。サリドラに嫉妬の目を向ける女を誘導し、加害行動を取らせた。
一番最初の焚きつけは、サリドラが王妃に教えを受け、少しばかり社交界に慣れた頃に行われたらしい。
「女神は研鑽を積み、表面ばかりではなく中身までより美しく、気高く咲き誇っていかれました。ですが一方からの教えでは伸びぬ場所もあります。そこで山と積まれた愚作を使い、一計を講じました」
試練を乗り越えて人は強くなる。経験を積み磨かれる。王妃が懐に入れたことで随分と減ったトラブルを、ドレジは安全を考慮しながら嗾けた。
初めは戸惑い揺れていたサリドラだったが、何度も試練を繰り返し、やがて欲望を華麗に退ける術を得た。攻撃をいなし、躱す、鮮やかな弁舌を得た。一段と麗しくなったサリドラを磨き上げた一因が己であるから、ドレジは歓喜に震えて至高の美術品を楽しんだ。
ところが、ロルフと婚約したサリドラは美の性質が少々変わったようで、甘言の塩梅を間違えた。
「婚約者に隙を見せるという新たな一面を得た女神は、まるで非対称でありながら見事なバランスを保つ花瓶のようでした。少しばかり形が変わったとはいえ、それもまた美しさのランクは変わらぬ最高の美術品ですからな。同じように磨こうとしたのですが、印象の変化からなる影響への配慮が足りずこのような失態に……いやはや、本当に申し訳ない」
しょんぼりと丸い肩を落としたドレジだったが、唖然とするサリドラを見ると、すぐにいつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「しかしさすがは我が女神! 性欲に塗れて興奮し、罪を犯した男たちすらも宥めてしまったそうではないですか。お疲れの様子ではありますが、より一層気高い薔薇となられましたな」
終わりよければ全てよし。反省点はあれど、至高の美術品が新しい一面を見せたので、彼としては満足のいく結果であったらしい。
すでに申し訳なさそうな色は跡形もなく、ニコニコとサリドラの成長を喜んでいる。その状況に似合わぬ様子が、堪らなく不気味だった。
「私の腕を握り締めて詰め寄った男性、怒りに燃えて腕を振り上げた女性……それらはあなたが嗾けた結果だと?」
「全てではありませんが、さようです。きっと試練を乗り越えられると信じておりましたよ」
「……私はそのたび骨を折ったのだけれど、悪いことをしたとは思わなくて?」
「そのたび美しくなられる女神には感服するばかりでございます」
眉間を強く押して頭痛を堪える。理性的で、常識的で、できた男だと思っていた。それがまさかこんなクレイジーな人間だとは。
理由はともあれ、ドレジを嫌厭していたロルフが正解であったようだ。己の見る目のなさに嫌気が差す……と言うと、彼を重用している王妃への非礼にあたるだろうか。
そこまで考えてハッとする。
「ロルフ……殿下、王妃様はドレジ卿の紹介で使用人を雇用されていなかったかしら」
「そう、だな。調査するまでもなく確定したな……」
ロルフは肺の空気を全て押し出すように思い溜息を吐いた。こめかみを揉んで、ちらりとサリドラを気遣う視線をくれる。
瞬きの後には、その目はもう裁定者の鋭さを湛えていた。
「王宮に己の手の者を入り込ませ、嗾けた者がサリドラに届くよう手引きしていた。間違いないか」
その言葉に納得する。だからロルフと出会ったあの日、似つかわしくない場所に場違いな令嬢が入り込んでいたわけだ。
苦虫を噛むサリドラと、厳しい顔をするロルフと騎士たち。反対に、ドルジ子爵は相変わらず後ろめたさを感じぬ態度で飄々と答えた。
「手の者を入り込ませるとは穿った言い方をなさる。実力者を紹介しましたから、仕事はしっかりとこなす者ばかりでしたでしょう? ただ、嗾けた者には誰に協力を仰げば女神に会えるかをアドバイスしておりましたので、会いに行った先で手引きをした可能性はございますな。何しろ誰もが我が女神の信奉者でしたので、女神の魅力を高めるためならばある程度のことはこなします」
「ああ、有能だった。さすが眼識の鋭い子爵の紹介だ。以前サリドラの部屋に不審物を置いた侍女も、熱心に仕事をすると評判だったな。……それから、ルルナという侍女などはとりわけ重宝していたのだが」
「ルルナ?」
ふらりと視線をさ迷わせると、いつの間にか駆けつけてきていた女騎士たちと目が合った。ラヴェーヌは露骨に困った顔をして、ロルフから首飾りを預かっていた女騎士は目線で謝罪を告げてくる。元気そうでよかったと頭の片隅で思いながら視線をロルフに戻せば、慰めるように背を擦られた。
愕然としながら思い出す。今回誘拐の現場、小さな庭の散策を勧めたのはルルナだった。ロルフの物言いを考えるなら、それは偶然ではなく。
「ルルナが、誘拐の手引きをしたということ……?」
「いいえ、それは違います!」
穏やかな調子を崩し、ドレジは被せて訴えた。
「私も侍女も、あなた様を害する気は毛頭ございません。想定していたのは、いつも通り煽った一人の男が女神にちょっかいをかける程度のこと。誘拐など想像だにしておりませんでした」
「強引に言い寄られたり手を上げられたりすることは害と言うのではないの」
「度が過ぎれば鎮圧できるよう、護衛を一人つかせておりました。結果の報告もその者が」
「……誘拐のために雇われた者たちを見て、肝心の護衛は逃げ帰ったというわけか?」
「腕の立つ騎士がついていたため、距離を詰められなかったと。防音の魔法に阻まれて様子を探るのも遅れ……全く不甲斐ない……」
腕の立つと聞いてラヴェーヌが鼻を高くするかと思いきや、嫌みかと低い声で唸っていた。出し抜かれたことが堪えているようだ。
「結果として侍女が誘拐の一因となってしまったのは確かですが、忠誠心を疑われてはあまりに不憫です」
「主を謀る者の忠誠心と言われてもな」
「誠の忠義者とは、ときに主に逆らうものかと」
「よく回る口だ」
「本心を述べているだけでございますので」
「サリドラは裏切りに傷ついているのだが?」
「裏切りなど。ですが、傷つきながらも立ち上がる強さもまた美しきものですな」
不愉快そうに鼻を鳴らし、ロルフは会話を打ち切った。
「意図はともあれ、罪は罪だ。手引きしたことがある者には相応の罰を与える。罪を犯していない者を咎めはしないが、念のため注意を促し、怪しそうであれば解雇も視野に入れる。例の侍女は偶然とはいえ誘拐の一因となったため、処罰の上で解雇となるだろう。ドレジ子爵。あなたが間接的な関与しかしていないのなら罪として問われることはないかもしれないが、少なくとももう王家はあなたを信用できない。手を引くと思っておいてくれ」
ドレジはいかにも心外だという顔をした。心境を隠しもせずにこちらを見るから、眉を寄せて首を振る。
当たり前だ。試練と称したドレジの行いは、サリドラにしてみれば悪質な嫌がらせをされたとしか思えない。どうしてそれを、さもいいことをしたと言わんばかりにひけらかせるのか。
ひたりと正面からドレジを見据え、厳かに告げる。
「わたくしと話をしてくれたこと、支えてくれた献身、これまでの様々な行いに感謝しています。けれど、もう二度とわたくしが個人的にあなたを呼ぶことはありません」
「そんな、なぜ!」
「なぜと言うから信用できないの。あなたの問題点を自覚してくれる日が来ることを祈っております」
故郷との取引については、とんだ手間をかけてしまうが姉に任せようと思う。サリドラは契約に関与していないから意見を述べることしかできない。また、サリドラに対する行いには問題があったものの、ドレジは商売の面では本当に優秀なのだ。美術品が関わらなければ正常なため、領主としては問題ないと判ずる可能性も高い。
異性の中では一番近くで至高の美術品を愛でてきたドレジは、二度と傍には寄らせないという宣言に、失意のあまり膝をついた。まるで爵位を剥奪でもされたかのように絶望的な顔をしていたから、過剰な罰でも与えてしまったような心地になる。
「以上だ。……サリドラ、行こう。きみは早く休むべきだ」
ひどく残念だった。ルルナという信頼できる侍女に裏切られていたことも、長く付き合った安心できる貴重な人を失ったことも。
傍らの温もりに体を寄せて、内側から冷え切った身を温める。回された手が肩を撫で、あやすように二の腕をポンと叩く。
帰った部屋は変わりないのに、侍女の数が一人少ないだけで妙に寂しい空間に見えた。
もう少しで完結です。