03.王太子
さて、思わぬ時間を取られてしまった。余裕をもって来たつもりだが、王妃との約束の時間はまだ大丈夫だろうか。
「……ん?」
慌てて踵を返したところで、所在なさげに回廊の先に佇む男に気づいた。
淑女らしからぬ声が出たが、小さなものだから聞こえてはいないだろうし恐らくセーフだ。王妃に聞かれたら妙に耐久性の高い扇で頭を叩かれるところである。
「凄いことを言うな、きみは……」
男は、その王妃と同じような色合いをしていた。
南国から来た王妃は、この国ではあまり見ない色をしている。ミルクチョコレートのような甘い色の肌に、硬質な黒い髪。男の紫色の瞳だけが、王妃の金色とは違っていた。
反射的に礼をとり、顔を下げた。コツコツと響く靴音が近づくにつれ緊張が込み上げる。
王宮に何度訪れても、彼と顔を合わせたことはなかった。会わないように手配されているのだと気づかないはずもなく、また、そうするのは当然のことだった。彼がサリドラに魅了されては国の危機に繋がるから。
だというのになぜ、こんな場所に。
「サリエリ嬢、でいいだろうか。私はロルフ・フォークナーという」
「サリエリ伯爵家の次女、サリドラでございます。お見苦しいところを……いえ、お初お目に……かかります、王太子殿下」
言葉に迷いながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。これはまずいかと言い直した言葉ですら失敗して背筋が冷えた。
「……ロルフでいい。顔を上げてくれ」
「はい、ロルフ殿下」
気を悪くはしていないだろうか。恐々見上げた先に不快感は浮かんでおらず、悟られないようホッと息を吐く。ただ、優しげな笑顔が本物であるかは怪しいものだが。
「凄い音がしたが、もしかして暴力を受けたのか?」
「たいしたことはありません」
「失礼する」
大きな手が伸びて来て、骨張った手の甲がサリドラの頬に触れた。少しして、今度は逆側の頬に触れる。
サリドラは静かに彼を見返した。王と同じ色でありながら、やや濁った紫色の目と、引き攣れた目元の皮膚を。
この国の王太子であるロルフは、毒により失明している。視察の際に浮浪者に毒をかけられたのだと聞いた。三年前の不幸。奇しくもサリドラが家族から離れて一人になった年、ロルフもまた、その身に重い試練を負ったのだ。
踏まえて――軽く当てられた手を不思議に思う。手のひらを当てることもなければ、不埒に動くこともない。
穏やかな温度を居心地悪く感じていると、ふと形のいい眉が寄せられた。
「熱を持っているな。医者を手配しよう」
「いえ、この程度……あの、うかがってもよろしいかしら」
すんなりと離れた手に、我慢がきかずに声を上げる。上擦りそうになって堪えたが、先走る思考に煽られ、喜色は拭えなかっただろう。
頬を紅潮させもしなければ、目を潤ませもしない。変わらぬ硬質な態度の男に、サリドラは期待を込めて前のめりに訊ねた。
「もしかしてあなた、私に惚れていらっしゃらない?」
「は?」
唖然とした顔を見て、淑女の仮面が絶え果てた。
何を言っているのか本当にわかっていないというロルフの態度に拳を握る。今、己の目は過去になく輝いているだろう。宝物を見つけた幼子の表情をしているのだろう。
わかるだろうか、サリドラの感動が。この男、神の創りし美貌の前に、全くのニュートラルで立っているのである。
思わず男の手を取った。反射のような抵抗を感じたが、力強く握り締める。困惑に塗れた切れ長の目。ああ、ああ、喜ぶどころか戸惑っている。この白魚の手に触れられているのに!
「お、おい、何を」
「目が見えなければ大丈夫ってこと? 喋ってるだけなら平気なのね!? 私のこと、好きじゃないのね!」
「好……声は、美しいと思うが」
好きじゃない、とは紳士として言えなかったらしい。いいのに。異性に一番言われたい言葉だ。「お前なんて好きじゃない」なんて。「私に靡かないなんておもしろい男ね」とか一度でいいから言ってみたい。
盲点だった。対面しても、見えなければこの美貌は通用しない。考えてみれば当たり前のことだが、盲目の人と話をする機会などなかったので気づかなかった。
やったー! と無防備に声を上げて、跳び上がって、手を振り上げかけたところで――握った何かの重みに正気を取り戻した。
血の気が引いた。サリドラの愛らしく色づいた薔薇色の頬は、神の修正力に打ち勝って蒼褪めたと思う。
見開いた目は、戸惑いを超えて珍獣を見る目をしている男をしっかりと捉えてしまった。
「も」
掴んだ手を放す。跪く。
「申し訳ございません!」
額突こうとしたところで、肩を押さえて止められた。
「そんなに慌てなくてもいい。落ち着きなさい」
どことなく砕けた優しい声に、けれどサリドラは恥ずかし過ぎて顔を上げられなかった。
「ひ、人様のご不幸を全力で喜んでしまったこと、命をもってお詫びします」
「何か嬉しいことがあったのだろう。気にするな」
「はい、とても。初めて……いえ、はしたなくお手を取ったのも、本当に申し訳なく……」
「それだけ嬉しかったんだろう。謝罪は受け取ったからもういいぞ」
「……しかし、やはり殿下のご不幸を喜ぶなど、人として、人として……」
サリドラは叩きに来た美貌被害者を叩き返す程度には性格の悪い女だが、人として終わりたいとまでは思っていないのだ。
いつの間に外見ばかりに極振りして、内面がここまで醜くなってしまっていたのだろう。自分のことだけ考えて、なんの咎もない他人を殴りつけるなど。
とはいえあちらが許しているのに謝罪し続けるのはただの自己満足。更なる愚行に過ぎない。落ち込むのは帰ってからにしよう。
緩く頭を振って気持ちを切り替える。支えられながら身を起こし、もう一度だけと謝罪の意を込めて礼をとった。
「きみは真面目だな」
吐息を漏らすように笑われる。真面目か不真面目かを問われれば真面目だろうが、本当に真面目な人間はこんな気まずいことにはならないと思う。
「さて、母に言われてきみを迎えに来たんだが」
「そうでしたか……余計なお手間をおかけしました。行きましょう」
動揺が抜け切らない心を叱咤して、胸を張って気を引き締めた。
「殿下、腕をお借りします」
鍛えられた腕に手をかけ、早々に歩き出す。
遮るもののない広い廊下である。介助の手がいらない程度には慣れているようだし、そう歩調を落とす必要はないはずだ。
……王妃のことだから意図があってのことなのだろう。しかし、よりによって目の不自由な人に迎えを頼まなくてもよかったのでは。
今日は教育ではなく話があると呼び出されたのだが、一体何を告げられるのかと不安になる。王子と顔を合わせさせたからには王子絡みの話。どう転んでも面倒事の気配しかしない。
「……大丈夫なのか?」
こめかみに軽く手を当てたサリドラに、気遣わしげな声が落とされた。
なんのことだろうと視線を向ける。
「頬は」
「ああ」
そういえばそういう話をしていたのだった。平手打ちを受けたことなどより、ロルフの目の件が衝撃的過ぎて忘れていた。
頬を押さえると、平時に比べて少々熱い。腫れるほどではないものの、普通であればしばらく赤みは残るだろうけれど。
「私、怪我の類の治りが極端に早いのです。あのようにやわな細腕で叩かれたくらい、すぐに治りますわ」
自己治癒が早いのは、美の神による加護の数少ないメリットである。怪我とは美を損ねるものなので。
簡単に説明をすると、神の美貌によるデメリットの話を色々と聞いているのだろうロルフは、なんとも言えない顔で曖昧に頷いた。
「細腕はサリエリ嬢も同じだろうに、頼もしいな」
「私は適度に鍛えていますよ――失礼ですが、見えておられるのですか?」
添えた手の感覚の話かと思ったが、彼の目はしっかりとこちらを向いている。失明という定義からすれば、てっきりほぼ見えないのかと思っていたが。
「世界には魔術という便利な力がある」
大人びた見た目を裏切る、悪戯めいた顔をして、低めた声で囁いた。
なるほど、道理で足取りに不安がないはずだ。魔力で物の形を把握しているのか。サリドラは……というか、大抵の人間は魔力を自由に扱うことはできないから羨ましい。きっかけはサリドラと同じくアレだが。
「できないなりに、やりようはあるということだ」
「素晴らしい努力だと思います」
そうだろうと得意げに胸を張る様子に、サリドラは思わず肩を揺らして笑ってしまった。