26.マーキス
行儀悪く背凭れに体重を預けて嘆息した。懸念が晴れて一気に気が抜ける。
もう話が終わったような気持ちで脱力したのだが、王子たちにとっては、どちらかと言えば本題はここからだったらしい。だらしない姿勢を横から伸びてきた手に正されて、渋々腹に力を入れた。
身を小さくしていたマーキスが立ち上がる。
「サリドラ様、今までの行い、誠に申し訳ありませんでした」
それはよく躾けられた使用人に匹敵するほど美しい謝罪の礼だった。唐突過ぎて、止めることすら忘れ呆然と見守る。
「ええと……何が」
「あなたを囮にする言動を取りました。公爵令嬢を曖昧な態度で揺さぶり、シャタローザ公爵を煽り、兄からサリドラ様に標的を移させました」
目を見開いて隣に座るロルフを見たが、彼は動揺はおろか、表情すら動かさなかった。すでに聞いた話なのだろう。
「全て独断で動きました。僕は……どうしても、兄を失いたくなかったのです」
沈痛な面持ちのマーキスは、細い声で再び謝罪の言葉を紡いだ。サリドラは声も出ないほど驚いていたから、罵りも許しも口にできなかった。
恋に溺れたような行いのあれこれは、どうやらわざとであったらしい。人の目を気にせずにサリドラにアプローチを仕掛けたのではない。人の目を気にしたからこそサリドラに言い寄ったということだ。
彼がサリドラに向けた恋情は確かなものだった。まさか己の感情を利用して、気弱で大人しく素直と評される第二王子が暗躍していたとは。
『マーキスはロルフのことが大好きで、誰よりもロルフのことを尊敬して慕っていたわ。ぽっと出の恋情などに惑わされるものかしら』
母の目とは偉大だ。大当たりである。
凄く、物凄く驚いた。重ねて言うが、マーキスは確実にサリドラに恋していた。
神の呪いと言っても過言ではない強制的な恋に、サリドラへの情愛に――兄への敬愛が勝るのか。
「あなたのことが好きでした。いえ、今も変わらず。外見だけで惚れたというのは、その通りです。あなたと話して、あなたの強さも好きになったつもりですけれど……外見ありきだと信じるあなたを説得できる自信は持てません」
ぽつり、ぽつりと落とされる言葉が、徐々に意思を強くする。
下がっていた視線が上がり、優しげな眼差しがサリドラに向いた。その目は熱に浮かされ、熱を現実のものにしてサリドラの顔を焦がすようだった。
「あなたを犠牲にしようとした僕に、あなたに選ばれる資格はありません。お願いをする権利もない。でもどうか、ひとつだけ我儘を聞いて貰えませんか」
神に祝詞を捧げるように静謐で、それでいて感情を固めてぶつけるような声で、彼は言う。
「お返事が、欲しいです。サリドラ様、僕の隣で、僕と一緒に生きてくれませんか?」
こんなにも真っ直ぐな告白は初めてされたな、と思った。美しくて、情熱的で、まるで物語のできごとみたいだ。
驚愕からようやく浮上して、サリドラは軽く息を整えた。姿勢を正して口を開く。
「私はロルフ殿下と……ロルフと生きると決めているので、マーキス殿下の隣に立つことはできません」
「そう、ですか」
「望み通りきっちり振られたからには、もう俺の婚約者に手を出そうとするのは止めるんだな」
「死体を蹴るのは楽しいですか、兄上……」
「サリドラを餌にしたことについて、俺はまだ許していないぞ。しばらくはネチネチいびられると思え」
「……仕方がありません、甘んじて受け入れます」
口を閉ざしていたロルフがすかさず釘を刺す。マーキスは肩を落として背中を丸めたが、その悲しげな表情の中にはかすかな喜びが浮かんでいた。
兄に向かう目は穏やかで、それは全く恋敵を見る目ではない。よく見ればどこかに嫉妬が見つかるのかもしれないけれど、少なくとも今は、ただ大切な家族としてロルフを見ていた。
「マーキス殿下は気弱だ日和見だと言われておりますけれど、強くいらっしゃるのね」
ぽろりと飛び出た言葉に、兄弟の目がこちらを向いた。王家の紫はどちらも等しく美しい。
「私のことが好きなのに、兄のためにその恋を切り捨てられたのでしょう。この美貌より兄を取れるなんて素晴らしいことよ。腹芸ができて、物事の優劣をしっかり判断できるのですから、そうね、王に向かないだなんて大嘘だわ」
「そうでしょうか」
「ええ。でも勿論、王太子にはロルフが一番ふさわしいと思っているけれど」
「それは当然のことです」
これまで場を引っ掻き回されることを忌々しく思っていたのに、随分あっさりと覆るものだと我ながらおかしくなる。
ロルフを推すサリドラに、彼は兄を自慢するように胸を張った。ついつい笑みがこぼれて、思わず口が軽くなる。
「あなたみたいな人になら好かれるのも悪くないわね」
振った直後だというのに、何を気を持たせるようなことを。
軽率に口にした失言を悔やむ前に、マーキスは春の日差しに似た笑顔ではにかんだ。
「……光栄です、義姉上」
間髪入れずに隣に引き寄せられて目を瞬く。固い太腿に倒れ込むような姿勢のまま見上げると、ロルフが渋面を晒して見下ろしていた。
「何?」
「今、何を考えた」
「今の顔はいつかのあなたの笑顔と似てたなって。やっぱり家族よね……ちょっと、ボタンが顔に当たって痛いわよ!」
「……」
更に力強く抱かれて文句を言う。すぐに痛くないよう顔の位置をずらされたが、それより腕を外して欲しい。この体勢は腰と首を痛めそうだ。
くすくすと笑う声がした。
「兄上が幸せそうでよかった」
「そうだな。幸せ者だよ、俺は」
どちらも顔は見えなかったけれど、きっと同じような顔をして微笑んでいるんだろう。
そう確信するくらいには、二人は優しい声をしていた。