13.不穏の先駆け
「……世界って残酷だわ。相手を想っていても、それだけじゃままならない」
「そうですね。かくいう私も、殿下が王太子を降りたがっていたときですら、それでもやはり殿下にこそ王になっていただきたいと思っていました」
エイベンは罪を告白するような顔で静かにそう言った。
その横顔を見ていると、彼は視線に気づいたのか途端に身を硬くした。視線から逃げるように壁伝いに距離を稼ぎ、しばらく角度を調整する。どうやら視線を逸らしていても失礼にならないギリギリの角度を模索しているらしい。物凄く今更だ。
こんなに警戒心が高いのに、よくも込み入った話をしてくれたものだと思う。
「随分詳しく教えてくれるのね」
「か、感謝をしているのです。殿下はあなた様と出会った日から明るくなられたので。一体どのようなことを話されたのですか」
「出会った日? 魔術やインクの件で凄い凄いと称賛はしたけれど……特別なことは何も言っていないと思うわ」
「ふむ……」
眼鏡のツルを弄ったエイベンは、しばし後、やはりサリドラが要因なのだと確信を持った目をして重ねて訊ねた。
「よろしければ、その称賛を具体的に」
「すまない、待たせたなサリドラ」
「……お帰りなさいませ、殿下」
「お帰りなさい殿下」
――のだが、息を切らせてロルフが戻ってくると、何事もなかったかのように頭を下げた。
どこかピリピリと張りつめていたロルフの視線が、悠々とソファに腰かけるサリドラと、窓際のエイベンを行き来して緩む。
「そんなに距離を開けてどうした。またサリドラに苛められたのか、エイベン」
「失礼ですこと。幼い殿下が生意気だったというお話を聞いていただけですよ」
「ほう」
「冤罪です殿下! 私は殿下は幼少時から優秀でしたとお伝えしたのです!」
「まあそんなところだろうな。ああサリドラ、口調は崩してもいいぞ」
「そうなの? エイベンはロルフに信頼されているのね」
「うぅ、高嶺の花の気安い態度……」
あまり本人に言うような話題でもなかったので誤魔化したのだが、すかさず飛んだ反論から、仲良くなったと判断されたのだろう。サリドラから垣根を取っ払わせ、部下の悲痛な顔を無視して対面のソファに沈み込んだ。
疲れた顔で天井を仰ぎ、深く息を吸って、吐く。
「……きみがいるといい香りがするな。普段、この部屋はインクの匂いくらいしかしないはずなんだが」
「殿下、いい香りがして心が辛いので窓を開けてもよろしいでしょうか」
「駄目だ。話が外に漏れるといけないから我慢しろ」
花の芳香を褒めるような穏やかな言葉に少し照れた。
落ち着かなさに手を揉んでいると、気を持ち直したらしきロルフが姿勢を正す。手遊びを止めて向き直った。
「時間も時間だ。前置きは省いて結論からいくぞ」
緩衝材も何もなく伝えられたのは、確かに今日聞かなければいけないことだった。
「マーキスが王太子妃のことを口にしたせいで、サリドラの身に危険が迫る可能性が出てきた。きみの警護を強化したいと思う。その都合で、本日から住まいを王宮に移して欲しい」
いわく、最近、ロルフの周囲では不穏な事件が特別多くなっていたそうだ。
見慣れぬ使用人の姿が目撃されたり、私室のものが僅かながら動かされていたり、外出をしようとすれば馬車に不審な形跡があったり。妙に統制の取れた賊に絡まれたこともあるらしい。
「それっておおごとじゃない!」
「特に問題は起きていない。……過去に一度大きな被害を受けてからは最大限に警戒しているんだ。今の俺の護衛は優秀な者ばかりだぞ」
過去の被害というのが何かはすぐにわかった。毒を受けた際の話だ。
しかし言葉の一部が引っかかる。
「今の……」
王太子なのだから警護は常についていただろう。それなのに毒をかけられる距離まで不審な浮浪者の接近を許したというのは、考えてみるとおかしな話だった。
手引きした護衛がいたということか。視線で問うと、ロルフは投げやりに肩を竦めた。
「浮浪者は即座に切り捨てられた。おかしな動きをした護衛は捕らえて尋問にかけたそうだが、手違いで死んだらしい。まあ、どちらも誰かの指金だろう。真実は闇の中だ」
「犯人のあてはあるの?」
「シャタローザ公爵が怪しい。証拠が出なくともその後の対応がアレだからな。なので、護衛の身は全員洗い直して、あの狸の手の者は全て排除してある」
これは婚約の解消と、第二王子への擦り寄りのことである。
「……なんだか後の動きが雑よね」
証拠を消した意味がない。疑いを持たれてもいいと言わんばかりだ。
この疑問にはエイベンが答えた。
「失明した王太子を排斥しようとする者が、もっと多いと思っていたのでしょう」
実際、味方は随分と数を減らしたらしい。
「ですが、殿下は優秀だったのです!」
幸運であったのは、重要な政務に携わる者ほどロルフを評価していたことだった。
発言力の軽い有象無象がいくら集まっても、重臣たちの意思に敵うものではない。国王夫妻がなおロルフについていたのだから尚更だ。
予想に反し、手のひらを返す集団の中に紛れてなお、高位貴族であるシャタローザ公爵は目立ってしまった。
それでもいつかは皆、役立たずな王子と見限り反対に回ると思われた。だがロルフはご覧の通り、その足で自由に歩き、およそ問題なく政務をこなすまでに立ち直っている。
「傀儡にしづらそうな王太子を排斥しようとして失敗し、後の対応も誤った。焦りが大きくなったところで、俺に権力ではない大きな力を持つ婚約者ができた。早く俺を殺さなければいけないと動いていたら、挿げ替えようと思っていた第二王子がサリドラに目をつけた。これでは王太子を交代させても、娘を王太子妃にすることができない。これ以上マーキスが執着を深める前に、先にサリドラを始末しよう……大方そういう流れだと思う」
すまないと謝られても、痛む頭は治まらない。
随分綺麗に殺害対象をシフトしたものである。問題発言をされたとは思ったが、権力戦争に疎いサリドラは、そこまで問題になるとは考えなかった。
散々あらゆる思惑に晒されている王たちは、すぐにサリドラの危機に思い当たったようだ。
「それできみの警護だが、母上つきの女性騎士を中心に編成することになった」
「それは……ありがたいけど。いいの?」
決定事項にいいも悪いもないだろうが、喜ぶよりも戸惑った。
王妃の護衛などエリート中のエリート。言ってはなんだが、たかだか伯爵家出の婚約者につけていいのだろうか。数を減らしてしまう王妃の護衛も、護衛の心情的にも。
「母が言い出したことだ、補充の当てがあるんだろう。あちらは男の騎士でも問題ないしな」
「一応言うと、男性の騎士でも仕事はきちんとこなしてくれるのよ。うっかりしたら騎士本人が脅威になるというだけで」
「本人が脅威になったら駄目だろ」
「それはそう」
でもそこはサリドラがもっと上手く立ち回れればどうにかなることだ。しっかり牽制していれば、我を忘れて襲いかかることはないのである。
今はまだたまの暴走を許す身だが、いつかはきちんと手綱を取れるようになりたい。周囲を無駄に煩わせていては、それこそ王妃など務まらないのだ。
「それに、母は公爵と仲が悪いから、護衛は俺と同じく関係のない者を集めてあるしな。調査の手間も省ける」
「王妃様には一生頭が上がらないわ。お礼は新しい化粧品がいいかしら。この国にはお色に合うものが少ないでしょうし」
「そうしてくれ。……実は、きみと美容について話し合うようになってから母の機嫌がいい日が多くて、俺も父も助かっている」
「あら、朗報ね」
サリドラを王太子妃に据えようとするだけあって、王妃は美しいものに目がない。勿論本人の美意識も高く、よく手入れされた肌などは神の創造物に匹敵するほどきめ細かいし、黒髪もシルクのように艶やかだった。
またドレジ子爵に手伝いを願わなければ。彼なら王妃の愛用品もよく知っているし、肌質や色に合わせた良品が作れるはずだ。詳細はおいおい考えるとしよう。