12.ロルフという人
そろりと押さえられた顔を上げる。黙ってしまったティアナはどうしているのかと覗き見れば、毛を逆立てて威嚇する動物のような目でこちらを睨んでいた。
「サリドラ、あなたロルフ様にそんなにくっつくなんて、恥じらいってものはないの?」
普段のティアナに激突しそうなブーメラン。そうそう、これこそサリドラの知る嫌味というやつである。
しかし、よく見ると今日は前回より少しマーキスとの距離が遠い気がした。以前は腕を抱えるように絡みついていたのに、今日は両手で腕を握る程度。どちらにせよ、関係性を考えれば褒められた距離ではないが。
まあ些細なことである。
「わたくしも、いきなり引き寄せられて驚いてしまって……」
照れたように目を伏せると、途端に顔を真っ赤にして怒るのだから可愛らしい。顔色ひとつ変えずにヒゲを弄る父親とは大違いだ。
「……婚約は解消したのだから、ご息女の呼び名は改めて貰いたいものだな、公爵。あなたもだが」
こちらの会話に乗っかって、ロルフが気になっていたらしいことを訂正にかかった。
「あいかわらずお堅くあられる。いずれ身内となられるのですから――」
「私とご息女の話は流れた。マーキスとご息女の婚約の話など決まっていない。いずれ身内になるとはなんのことだ?」
「……さようでございました。今はまだ。ティアナ、第一王子殿下とお呼びしなさい」
「王太子だ、シャタローザ公爵」
肩を竦めた公爵の言葉に、ついに壇上から正された。王の咎めには、さすがの鉄面皮も旗色の悪さを感じたのだろう。ほんの一瞬だけ舌打ちしそうに顔を歪めた。
「失礼を、王太子殿下」
それでもすぐさま取り繕うのだから厄介な男だった。親は子と共に育つと言うし、ティアナの素直さを見習うといいのに。
「しかし、殿下。娘の言ではありませんが、その腕の中の美貌の方」
娘と、娘のくっついたマーキスを回収した公爵は、去り際に言った。
「歓談に参加もせず、庇われるまま弱々しくあられるなど、国を支えるには少々……いえ、辺境の伯爵家のご令嬢でしたか。まだこれからに期待というところですかな」
減らない口は最後まで閉ざされなかった。ティアナは勝ち誇った顔をしてドレスを翻し、マーキスの視線は最後までサリドラを捉えていた。
ロルフは隠すことなく大きな溜息を吐いた。サリドラは残留する粘着質な空気を払うように扇を振る。
「――今は俺の隣にと言ったな、マーキスは」
「ちゃんと弟の教育をなされませ」
小声でぶつくさとぶつけ合って、精神を削るパーティーは終わった。
疲れたのですぐに帰りたいところだったが、ロルフに呼ばれて執務室へ向かうことになった。着替えの時間を要求すれば、ロルフも急ぎの用事があるので丁度いいとのたまう。だったら明日ではいけないのだろうか。
王宮にはサリドラ用に用意された一室がある。待たせるつもりで湯殿を楽しみ、じっくりと肌の手入れをして身支度を整える。
「ヒィ……湯上り美女……。ロルフ殿下は只今出られております……」
「……まだ用事を終えていないんですの?」
乙女の些細な意趣返しは不発に終わった。
踏み込んだ執務室には、何度か顔を合わせた側近しかいない。出会い頭に怯えられて拍子抜ける。
「本日のパーティーの件で招集がかかったのですが、話し合いが長引いているようです」
それなら仕方があるまい。
王宮に泊まる旨を侍女に伝え、ソファに腰を下ろした。ただでさえ遅い時間なので、これから帰宅しなければいけないのかなどと考えながら話をしたくはない。
ぼんやりと座っていると段々眠気が忍び寄る。眠ってしまうわけにはいかないが、暇つぶしの道具など持ってきてはいない。
軽く頭を振って、こちらを認識しないよう黙々と書類を仕分ける男に声をかけることにした。
「エイベン。お喋りしてもよろしいかしら」
「はい、なんでしょうか!」
飛び上がる様子に少し眠気が晴れた。壁に貼りついて必死に視線を外す無様は見逃そう。
震えるエイベンが可哀相に思えて、こちらからの視線も外してやった。
「ロルフ殿下は、生活やお仕事に困ってはいらっしゃらない?」
「はっ」
大きく深呼吸をして正気を取り戻したらしい。落ちかけた眼鏡を戻し、キリリと真面目な顔をする。
「最初こそ途方に暮れておられましたが、今はさしたる支障はありません」
「途方に……そうよね、突然目が見えなくなって、平静を保てるはずがないものね」
見えない目で歩く術を編み出し、見えない目でも文字を読めるように工夫を凝らした。彼の努力のかけらは聞いたが、その前には色々な葛藤があったはずだ。
そのショックを推し量ることはできない。体に不便を抱えているのはサリドラと同じでも、この美貌は先天的なものだからだ。唐突に奪われるのはどんな気持ちだろう。できたことができなくなるのは、どれだけ衝撃だったろう。
途切れた会話を繋いだのはエイベンの方だった。
「私は殿下よりいくらか年上なのですが、幼い頃、同じ教師のもとで同じ教育を受けたことがあります」
勝てたことがなかったと彼は言う。幼い頃からロルフは優秀で、勉強面でも、運動面でもエイベンは負けっぱなしだったと苦い顔で笑った。
「ご存じかもしれませんが、殿下は昔から容姿について陰口を叩かれていらっしゃいました。我が国より、王妃殿下の容姿を色濃く継ぎ過ぎていると。しかし、殿下にはそんな誹りをものともしないだけの能力がおありです。ご自身もそれを自覚されていたので、気にすることはなく鷹揚に笑っておられました。豊かな向上心で、自分が国を発展させてやるのだと仰って」
エイベンは迷うように言葉を切った。ちらりとサリドラを見て、苦悩するように眉間を押さえる。
その仕草はロルフを思い起こさせた。仲がいい者同士は似るというから、どちらかから移った癖なのかもしれない。
ふ、と息を吐いた彼は、思い詰めた顔をして続けた。
「失明してからは心無い言葉を聞くたび、落ち込まれ、荒れて。婚約の解消が決まった日には……さっさと王太子からも外してくれとこぼすほど消沈してみえました。あれほど己の無力を感じたことは他にありません。激励の言葉も、慰めの言葉も、何も浮かびませんでした」
大丈夫だと言われても、頑張ってと言われても、反発しか覚えないだろうなと思う。大丈夫じゃないから消沈しているのだ。頑張っていたのに、転がされたのだ。
無責任に応援されるなら、きっとエイベンのように無言を貫いてくれた方がいい。
「一年ほどした頃でしょうか。不自由なく歩けるようにしたいと魔力を練り出したときには、心から安堵いたしました。再び奮起されたのだと」
近しい誰もが感じた希望は、けれど、空回って終わってしまった。
「誰の手も借りずに歩く姿を、殿下を見守っていた人々は素晴らしいと称賛しました」
王は元のように歩けることを喜び、王妃は再び立ち上がった気概に涙を浮かべた。
「殿下は……殿下は、幼い頃から優秀で、志が高い方で」
仕事に復帰するため特殊なインクを開発したロルフに、皆が言った。これならいずれ、元々できたことを取り戻せる、王としてもやっていけるだろうと。
「……求められる水準があまりに低くなったことに、気づいてしまわれたのです」
「それは……」
「俺にできるのは、なくしたものを取り戻すことだけなのか、と言って」
それは、志高くあったロルフを散々に打ちのめした。
味方であった人々が肯定したロルフとは、全くの最低限だった。歩けて、今までこなしていた仕事の一部ができる。
齢十五のロルフ以上を求められることはなく、それ以上の成長を望まれることはなかった。
「それからはずっと、失意に沈んでいられたのだと思います。私にその嘆きを聞かせてくださることはありませんでしたが」
支えてくれた人々に期待をされない。そんな消極的な肯定なら、ない方がマシだったのかもしれない。