短編 問い
私は悩んでいる。新入生、中学校を卒業したばかりの少女から受けたその質問に。彼女にとっては会話の切り出し、もしくは私に興味を持って深く知るための質問だった可能性もある。そこまで深く考えておらず、各先生へ質問する定型的なものだったのかも知れない。 なにせ、質問が短すぎてどうにでも解釈出来てしまう。それ故に、哲学的な側面も持っており安易に回答することが出来なかった。
「ちょっと考えても良いですかね。まとまったら必ず回答しますので」
その場を取り繕う為の言葉が、今の私を苦しめている。もちろんジョークめかして斬り捨てても良かったが、真剣に聞いてきたのならこちらも正々堂々と戦わなければならない。躱す事の出来る太刀筋だったが、敢えて受ける。そうしなければならない「何か」をその一つの質問から感じ取ったのだ。
「なぜ先生は先生なんですか」
何度も心の中で復唱する。もし教師となった経緯を知りたいのであれば、冗長ではあるものの語ることは出来るだろう。しかし、あの少女が求めている回答はそんな安易なものではなく、なぜ人に教える立場となったのか、なぜ教えたいと思ったのかを聞いているのではないか。
職員室内の他の先生方にも伺ってみよう。なぜ先生になったんですか、と。新学期というだけでも忙しいのに、こんな面倒な老人の相手などしたくもないだろう。
「金、ですかね。ある一定の水準まで知識を詰め込んでテストで点を取らせてあげればいいだけなので。次の授業もあるので失礼します」
なるほど、そういう考え方もあるのか。塾の講師よりも簡単と思われているのか、そこまで深く聞くだけの時間は与えて貰えなかったようだ。一つの参考意見として手帳に書き加える。
「音楽の広さを知ってもらい、他人と合わせる事の重要さ、音を聞くための耳を今のうちに作って欲しいと思ったからですかね」
同じ教職と言えども芸術系の意見は方向性が違う。ただ、知ってほしいという部分には重なる部分も大きい。
「私は先生が教えてくれた事を理解できなかったので、同じ段に立てば見えるのかなと思っただけです。ああ、全然わからなかった訳じゃないんですよ。ちゃんとテストで点を取るぐらいには理解できてましたので!」
変わり者も中には居る。教える立場に立つことで見えるものも確かにあるし、多い。どこまで行っても教師であり生徒であるというところだろうか。
自席に戻り、なぜ教師となったのか、なぜ教師でなければならなかったのかを考える。
シラバスなんて糞くらえ、俺の化学はそんな枠にはまるような小さなものじゃない。そう息巻いていた若い頃の自分を思い出す。面白い実験を見せて感想文を書かせて、学期の後半に教科書を一通り舐める程度の、教師失格と言わざるを得ない身勝手なもの。当然、前の先生の方が良かったとPTAからの抗議もあった。自分の思い通りに授業を進めることができなくなり、私立の学校……この学園へとやってきた。学長の「教えたいものがあるのなら、ぜひ」という言葉だけが、静かな狭い部屋を埋め尽くしたのを覚えている。
化学の面白さとは何か。身の回りにあるものを別の角度から見つめ直す事が出来るし、目に見えない世界を現象として体感出来る。知識を持っていると世界が変わるのだということを他人に伝えたかった。勉強して良かったなと言って貰いたいという自己満足のようなものもあったのだろう。
授業スタイルを変えた。生徒の興味を引くような実験のみにし、それは何故起こったのか考える時間とした。起こった理由と原理について通常の座学で補足しつつ、覚えておくと楽しくなるような知識を盛り込んだ。学校の違いというのは確かにあったが、授業中に感じる視線の温度は格段に上がった。授業後の休み時間にまで質問されるということが、興味を持ってもらえた事の証だと考えたのだ。覚えるのが得意ではない生徒向けにプリントを作り、暗記や反復練習のきっかけを作ったのも好評だったのかも知れない。
そして、今に至る。
「なぜ先生は先生なんですか」
出来れば、あの時に即答するべきだった。いや、出来て当然だったのだ。
前期のテストを返還しおわり、問題の解説と面白い間違えについての議論を行い、残りの授業時間は自由時間とした。
「まだちょっと時間があるので、以前受けた質問に回答しようと思う。別に聞いてなくてもいいから、そのまま続けて貰って構いませんよ」
前置きをし、数ヶ月寝かせてしまったその問いに答える。クーラーが効いているというのに、額から汗が流れ落ちる。こちらを見つめる生徒も居れば、テストと教科書を見比べる者も居た。普段の授業では見せない姿に、テストには決して出ないにも関わらずメモを取る生徒が数人、そしてあの時の少女もこちらを見ていた。
「……以上が先生が先生である理由で、君たちに知って貰いたかった事です。これで良かったのかね?」
音の無くなった教室で、ただ一人だけが立ち上がる。
「はい、わかりました!先生」
その笑顔は私の回答が、私自身が及第点であった事を示しているのだろう。教師となってからの初めて貰ったマルに、私は胸を撫で下ろした。