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ローブのフードを深めに被って、さりげなく赤く腫れた頬を隠す。
ローブの下に着ているのは、服が汚れてセザールにバレてしまうと面倒だからと、別棟での仕事用にニナが用意した公爵家の古いお仕着せだ。
公爵家の外に出るのにアリスのお下がりの服では高級品すぎて、そんな姿で出歩いたら破落戸に襲ってくれと言っているようなもの。お古のお仕着せはすごくありがたかった。
初めて着た時は服が大きすぎて袖を捲りあげて使っており、スカートの丈も長すぎたので裾あげをしていた。それがいつしか服のサイズがピッタリになり、3年で随分と身体が大きくなったものだと思った。
ただお古とはいえ公爵家のお仕着せには高級な生地を使っている為、その上から着るローブはある人が用意してくれた。
「お久しぶりです。」
エリアナが街の商業ギルドに顔を出すと、ギルドのカウンターはにわかに活気づいた。木製のカウンターテーブルに暇そうに頬杖をついていた顔見知りのお姉さんがばっと椅子から立ち上がったかと思えば、カウンターから身を乗り出してエリアナの片手を両手でがっしり掴んできたので、エリアナは嬉しく思いながらも苦笑した。
「待ってたのよ、エリアナ!もう売り切れたの!納品はまだか?ってみんな煩くって。」
「良かった。また2階を借りてもいいですか?」
目をキラキラと輝かすお姉さん、グレースを前にしてエリアナが指で天井を差して見せると、グレースはブンブンと顔を上下に振った。同時にエリアナの腕も上下に強く振られる。
「勿論よ。裁縫道具も置いてあるから、すぐに作業できるわ。」
「お、エリアナ、久しぶり。」
「やっと顔を出したのか。」
「きゃっ!ちょっと押さないでよ!」
カウンターの向こうにあるテーブルで書類に目を通していたギルド員達が次々にエリアナに気づいて、グレースを押し退けてまで笑顔で声をかけてくる。
エリアナは色んな人に一気に声をかけられてどぎまぎしつつも、嬉しかった。
この商業ギルドで働くギルド員は、エリアナが今一番信用できる、数少ない人達だった。
ギルドの皆がいなければ、公爵家での仕打ちに到底堪えられなかっただろう。
エリアナの母、セリナが街で平民として暮らしていた頃、この商業ギルドに出入りして仕事を斡旋して貰っていた。エリアナもセリナに連れられて何度か来たことがあったので、ギルド員の何人かは顔見知りだった。
エリアナが1人でこの商業ギルドを訪れだしたのは、公爵家の別棟で生活しはじめてまもなくのこと。商業ギルドのギルド長が、ガーランド公爵家から依頼された食品を納品しに訪れたのがきっかけだった。
「エリアナ?」
何故こんなところに?という顔をしたギルド長に会ったのは、空腹で目を回しそうになりながら、別棟の裏にある物干し場でシーツを干していた時だった。
小さな身体では物干し棹の上まで手が届かないので、木箱を足場にして必死に手を伸ばして。
シーツをうまく棹にかけられたと思ったら、空腹と心的疲労、更に日の光を直視した途端に目の奥で光が明滅したように見えて起こった眩暈。
よろけてそのまま背中から地面に落ちそうになったのを、別棟にある倉庫に食材を入れようと運んでいたギルド長が気づき、背中から抱き抱えられて落ちずに済んだ。
「ギルドの……おじさん……?」
背中に温もりを感じて顔をあげると、見覚えのある顔がエリアナの顔を覗き込んでいた。
「あぁ、ギルドのおじさんだよ。何でエリアナは貴族の家に……?あ、セレナさんがここで働いてるのか?」
平民のはずの母親が公爵に娶られたなんて思うわけなんてなく、公爵家に働き口を見つけたと考えるのは当然の事だった。娘と共に住み込みで働いているのだろうとも。
「こんな高位貴族に伝があるなら、なんで商業ギルドなんかに……。しかも散々世話をしてやったのに一言も言わずにいなくなるとは。」
誰に言うでもなく独りごちるギルド長は、顔をしかめた。セレナに対して恨み言を言うその姿に、エリアナはそれ以上母親を悪く言われたくなくて、力なくダランと垂れていた腕に必死に力をいれると、自分の腰当たりに手を回していたギルド長の手を掴んだ。ギルド長はハッと気づいたようにエリアナの顔を再度見下ろすと、エリアナの前で母親を悪く言ってしまったことを恥じたのか、エリアナを抱き抱え直すと誤魔化すようにその頭をガシガシと撫でた。
「体調が悪そうだが、大丈夫か?しかも台に乗らないと届かないのに洗濯物干しをしているなんて……。」
ギルド長に上から下まで心配そうに一瞥される。街で暮らしていた時よりも、肉付きはよくなったようには思う。けれどエリアナは自分の顔に寝不足からクマができており、顔色も青白くおおよそ健康的に見えない状態である自覚はあった。それに背伸びしても届かないような物干しを小さなエリアナがするのは、考えられないこと。
しかしエリアナはギルド長の問いかけには答えず、黙りを決め込んだ。
今、エリアナは一番助けを必要としている時であり、またエリアナが一番人を信用できない時であった。
一番会いたい母親は来てくれず、セザールに助けを求めても無駄、侍女2人は相変わらず冷たくて、エリアナが今朝寝坊しただけで食事抜きの罰を与えられ、朝から何も食べていない。
つらくて仕方なかったけれど、誰に助けを求めても、自分を助けてくれる人なんていないと、絶望していた。話しても無駄だと思った。
けれど、腹の虫は正直だった。ぐーという小さな音。
お腹をエリアナが押さえると、ギルド長は拍子抜けしたのかクスクスと笑った。
「クッキー食べるか?ギルドの受付嬢がくれたんだ。エリアナもあったことがある子だよ。」
ギルド長は屈んでエリアナを下ろすと自分の膝に座らせる形で背中だけを腕で支え、己のポケットから小さな袋を取り出した。袋を開けるとバターの使われたなんともいえない甘い匂いがエリアナの鼻まで漂ってきて、空腹を刺激する。
「ほら。」
ポケットに入れていたので形が崩れたのか、歪な丸のクッキー。
近くまで手ずから運ばれたクッキーに思わず口の中に唾液がたまる。口を開きそうになる。
けれど、エリアナは必死に見ないように俯いてその手を押し退けた。
「ダメ!」
「え?」
お腹がすいているだろうにクッキーを拒否するエリアナに対して不可思議な顔をするギルド長が目に入り、エリアナは顔を覆って頭を振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
食べたら告げ口をされるかもしれないと思うと、必死だった。誰を信じてよくて、誰を信じたらダメなのかわからなかった。
するとギルド長は何を思ったのか、クッキーを仕舞うと、エリアナが落ち着くまで頭を撫でてくれた。
しばらく経った後、ギルド長はエリアナの身体を支えてしっかり立たせて優しく語りかけてきた。
「洗濯物干しはエリアナの仕事かい?」
「………はい。」
「そうか………。」
エリアナが躊躇いがちに返事すると、ギルド長はクッキーが入っていたのとは別のポケットから1枚のハンカチを取り出して差し出してきた。
なんの変哲もない木綿のハンカチだったけれど、四隅に小さな葉っぱの刺繍がされていた。
「もし私に話したいことがあったら、他の洗濯物と一緒にこれを干しなさい。すぐに駆けつけるから。」
ギルド長はそれを無理やりエリアナに押し付けると、再びエリアナの頭を撫でて、その場を去った。
当時のことをギルド長はこう語った。
『何か深い事情があるみたいだと思ったから、自分から話してくれるまで待とうと思ったんだ。』と。