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叩かれた頬はジンジンと染みるように痛むけれど、今まで何度となく経験していることなので、明日には消えている程度の腫れだろうと予測はついた。
エリアナは軽くスカートの袂の埃を払うと、床に落とされた2枚の紙を拾い上げた。
靴跡のついた方の紙はよれよれで、まるで今の自分のようだった。
この家に来てからエリアナは、毎日のように大人の顔色を見て過ごした。
くるくると天気のように変わるベラとニナの気分や高圧的な態度に疲弊しながらも、良かったのは生活の仕方を教えて貰えたことだった。炊事、洗濯、掃除、繕い物の仕方。いくら母親が公爵に娶られたとはいえ、自分は公爵の娘として認められていないので貴族ではないただの平民。
いつ気まぐれでこの家から追い出されるかわからない。
母と暮らしていた時に多少は教えて貰っていたけれど、お手伝いの延長線のような簡単な洗い物や掃除程度。この家を追い出された後のことを想像すれば、どこかで働くにしても身に付けておくべきだと思った。
いや、そう思わなければ、中途半端な自分の立場ではこの家に存在価値がなくて、少しでも自分が必要とされる理由を求めていた。
上手に掃除できれば、上手に炊事ができれば、上手に洗濯ができれば………。
褒めて貰える良い子で居られるという、歪な存在価値を求めて。
この家で唯一気が休まるのは、セザールが来ている時のリビングだけだった。
「ちょっと!この繕い方は何?すぐ糸がほつれたじゃない!」
「申し訳ございません!」
突然自室に押し入ってきたニナに目前に差し出された雑巾は前日に命令されて作った物で、縫い付けられた糸がほつれて不格好に飛び出ていた。ただ明らかに糸が鋭利に切られていて、わざと糸をハサミで切ったのが目に見えてわかった。
このように自室は、ベラやニナがノックもなくやってきてエリアナを八つ当たりのように怒鳴り付けたり、洗濯や掃除をいいつけることがあるので、落ち着いて寝ていることすらできない。
ある時から、廊下から足音がするだけで動悸がするようになった。足音が部屋の前を通りすぎるのに気づくと、ほっと胸を撫で下ろす日々だった。
セザールは本邸での仕事の合間を縫って、3、4日に一度はこの別棟へと足を運んでくれた。その時ばかりはベラとニナの高圧的な態度は鳴りを潜め、ニコニコとした笑顔の、公爵のもう1人の娘を可愛がる侍女へと変わる。
その時の笑顔ほど気味の悪いものはなかった。
実はこの家に来て数日経った頃、一度、セザールにこっそり現状を訴えようとしたことがある。
「侍女2人が怖い。ご飯は貰えるけど、掃除も洗濯もしてくれない。自分でするように言われるの。」
その訴えは、エリアナの地獄に繋がった。
セザールがベラとニナに厳しく何かを言ったようで、その日の夜から2日間、食事が与えられなかった。
空の冷たい皿と水の入ったグラスだけがこれ見よがしに食卓に並べられる。
「手を煩わせないよう、言いましたよね。」
低く地を這うようなベラの冷たい声に、身が芯から凍える思いがした。
「申し訳……ございません……。」
身を小さくしてぶるぶると震え、ベラに更に怒られるのが怖くて涙すらでてこない。
ぎゅうと椅子に座ったままスカートを掴み、唇を噛んだ。
セザールの手前、殴る蹴る等の直接的な暴行こそなかったものの、育ち盛りの子どもにとって、食事抜きほど堪えるものはなかった。
平民として母親と暮らしていた時には耐えられたものが、この家で暮らしはじめて毎日三食しっかり食べられるようになり、身体が贅沢に慣らされていた。
とても母が恋しくなって、2人に見えないように自室で隠れて泣いた。
いくら泣いても母は助けてくれない、会いに来てもくれない。セザールに期待をしても、無駄だと悟り、セザールに訴えるのもいつしか諦めた。
セザールは香りのよいお茶やバターの香る甘いお菓子を持ってきてくれたり、同じ歳のアリスが着なくなったお下がりの服や装飾品を持ってきてくれ、生活に不満がないか何度となく聞いてくれた。
勿論、本当のことなんて言えるわけがなくて、ベラとニナの顔をチラリと見れば、凄むような笑顔。
「何も、ないです。ありがとうございます。」
それしか言えなかった。
2人が怖くて、そうとしか言えるはずもなかった。
エリアナが何も言わないと、夕食にデザートが追加された。
自分が何も言わなければ、我慢すれば、すべてうまくいく。
考えが次第に歪んだ。
セザールが持ってきてくれた数着の服や装飾品は、日が経つにつれてクローゼットから少しづつ数が減り、代わりにベラやニナが出かける時の服が華美になっているのを見るにつけ、2人が何をしているのかは一目瞭然だった。
でもセザールには何も言わなかった。
セザールの目があるので風呂は毎日入れるけれど、浴室を掃除して竈に火を入れて湯を沸かし、沸いた湯を浴室に運んで準備するのも、すべてエリアナの仕事だった。
そして、2人が入った後のわずかに温い残り湯で頭と身体を洗えば、浸かる分の湯は残らないし、足し湯のために湯を追加で沸かすことは許されない。
それでも冷たい川の水で身体を洗っていた時のことを思えば、温い湯で身体を洗えるのはまだありがたいのだと自分に何度も言い聞かせた。
あの時と比べれば、飢えることなく食事が摂れて、衣服にも困らない。
良い生活をさせて貰えているのだと。
エリアナは、大人にとって実に都合のよい、使い勝手の良い子だった。
本邸に住むアリスはというと、ふらりとやって来て日々あったことをエリアナに話して聞かせ、気が済むと本邸に戻るという、エリアナをただの一方的な話し相手にしていた。
そんな日々を過ごしているうち、エリアナに勉学の家庭教師が付けられた。つけられた家庭教師はアリスと同じ人で同じ課題をエリアナにも出す。
エリアナが課題で良い成績を出すと、アリスに頬を叩かれた。初めてアリスに叩かれた日には、驚いて呆然とアリスを見上げた。
「何で貴方と比べられないといけないわけ?この私生児と!」
エリアナは家庭教師に習ったことを覚えて、覚えたことが家庭教師の出す課題に出たので解いただけ。大人にとって都合の良い子でいたエリアナは、家庭教師にとって良い子でいる為に、良い成績をとるために勉強を真面目にした。それだけだった。
家庭教師が同じな為に、アリスと比べられるなんて考えもせず。
アリスは怒りに震えた様子でもう一度とエリアナの頬を叩いた後、手が痛くなったのか、今度は茫然とするエリアナを蹴倒した後、何を思ったのか急に笑みを浮かべた。
「まぁ、いいわ。勉強、がんばりなさい。」
平民のエリアナと公爵令嬢であるアリスを比べるなんて、今考えれば家庭教師は身の程知らずなことをしたものだと思う。
公爵令嬢であるアリスを奮起させる為に平民と比べたのだろうが、それが裏目にでた。
無論、その家庭教師は解雇され、別の家庭教師が雇われた。
新しい家庭教師は何を聞かされたのか、エリアナを教える時にすら何かに怯えていた。
新しい家庭教師は以前の家庭教師が進めていた内容を引き継いでいたようで、勉強の進度で出す課題を各々変えた。ただしどちらの課題もエリアナがする羽目になった。そして、間違えれば折檻を受けた。
間違えた数が多いほど、平手打ちや蹴りの数が増え、一度だけアリスに鞭打たれた時は、あまりの痛さに気絶するかと思った。
家庭教師も課題の筆跡が同じなので気づいていた筈だけれど、何も言わなかった。
家庭教師も己の身の安全が一番大事だったからだろう。
アリスが持ってきた課題は、夕食後に集中すれば1時間くらいで出来る量のものだった。
アリスは余程のことがない限り、1日に2回もエリアナが生活するこの別棟に来ることはない。侍女のニナはあの口ぶりから、しばらくはこの別棟内の自室から出てくることはないだろう。
ニナが命令するまでもなく、今やこの別棟の仕事はほとんどエリアナが担っていたので、朝早く起きて洗濯して既に干し終えていた。
年嵩侍女のベラはエリアナの侍女としてつけられてはいるけれど、もうすぐアリスの誕生パーティーが催されるのでその手伝いに駆り出されており、ここしばらくはエリアナの元に来ていない。
無論セザールもアリスの誕生パーティーの準備があるので、しばらく此方には来れないと言われていた。
今が出かけるチャンスだった。