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エリアナが追従の意を示したことに対し、アリスはそれはそれは嬉しそうに微笑むとその場を去った。セザールはアリスの後ろ姿に視線をやり、額に手を置いて眉根を下げ嘆くように首を振るとようやくエリアナの方を向いた。
その小さな両肩に手を置く。
「エリアナ様……過ぎたことは仕方がありませんが、もう少しよく考えてアリス様に返事をなさるべきでした。アリス様に弄ばれて辞めた侍女や、2度とお茶会に参加することなく社交界を去った令嬢は1人や2人ではありません。たとえマリア様が優しく見えても、それには裏があるとお考えください。」
エリアナには、アリスがセザールの言うような人には見えなかった。自分に眼を合わせて諭すセザールの言葉を聞いても、自分がどれほど愚かなことをしてしまったのかわかっていなかった。
後々に身に染みて理解したが、当時はそんなこと言われただけは理解できるものではなかった。
「……はい。」
頭の中は疑問符だらけだったけれど、とりあえず受け入れたふりをした。
セザールもエリアナがよく理解していないことになんとなく気づいていたが、こればかりは口でいくら言っても体感しない限りわかるものではなく、アリスがエリアナに対して酷いことをし過ぎることがないようなるべく目を配るしかないと思い、それ以上アリスについては何も言わなかった。
「ともかく、今日からここが貴女の家です。貴女の世話をする者を待たせておりますので、行きましょう。」
セザールは立ち上がり、エリアナの背に手を添えて押し出すようにエリアナがこれから住むことになる建物へと促した。
新しい生活の始まりだった。
最初にセザールに2人の侍女であるニナとベラを紹介された時、2人は殊更優しかった。ニナは屋敷に来て2年程の若い侍女で、ベラはもう10年以上は働いているベテランの年嵩の侍女だった。
「まぁ、可愛らしいお嬢さんだこと。」
そう口を揃えた2人に優しく見つめられ、エリアナは恥ずかしくなってセザールの後ろに隠れた。
微笑ましい光景だった。
浴室で綺麗に身体を洗って貰い、綺麗な温かな服に身を包めば、エリアナはまるで自分がお姫様になった気分だった。
「エリアナ様のこと、よくよくお世話するように。」
「承知しました。」
セザールに2人が揃って頭を下げる。
「またすぐに会いに来ますからね。」
セザールはそう言って、去っていった。
セザールが去った瞬間、2人は浮かべていた笑顔を能面のように変えた。
2人が優しかったのは、セザールがいた時だけだった。
「私はこれでも子爵家の娘なのよ?なんで公爵の私生児とはいえ、平民の娘の世話なんてしないといけないわけ?」
そう言ったのはニナだ。余計な仕事を与えられたと、心底めんどくさそうにエリアナを見下ろす。次に口を開いたのはベラ。
「これから生活の方法を教えます。いつまでここに居られるのかわかりませんから、洗濯、炊事、繕い物くらいは。追い出されても1人でも生活できるようにします。食事は本邸から届くのでそれは届けます。ただしくれぐれも我々の手を煩わせないようにお願いします。」
ベラは煩わしそうに言うと、エリアナの背中をぞんざいにダイニングの方に押した。
知らない場所に連れてこられ、優しいセザールがいなくなった途端に冷たい対応をされ、エリアナは訳がわからなくて泣きそうだった。
『ししゃく』とか『へいみん』とか『しせいじ』とか、よくわからないことばかりだった。
思わず目頭が熱くなると、ベラにきつく睨まれた。
「手を煩わせないよう……言いましたよね。」
ベラに鋭い目付きで言われ、ヒュッと息が詰まった。身体の芯から冷えていくような感覚がした。
「ごめん……なさい。」
「違います。悪いことをしたら、『申し訳ございません』です。」
思わず謝ると、訂正された。
「……申し訳ございません。」
おどおどと顔色を見るように謝ると、ベラがようやっと微笑んだ。ベラの微笑みに、エリアナはほっと胸を撫で下ろした。
完全に主従関係が逆転し、まるで躾をされているペットのようであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
エリアナは、熱を持った頬を押さえ床に倒れた。目前には、掌を掲げてエリアナを蹴転ばしたアリスが立ちふさがる。
アリスはいつも美しく整えられている金の髪を振り乱してエリアナを怒鳴りつけた。
「貴女のせいで恥をかかされたわ!ほんっと最悪!」
アリスは底冷えのする視線をエリアナに投げ掛けると、まだ憤りが治まらない様子で肩を怒らせ、机の上に置いていた2枚の紙を床に投げ捨てた。
エリアナは何も言えず、ただただ怯え震えながらアリスを見上げた。
1枚は家庭教師に出された課題の計算問題が、紙一面にびっしりと書かれている。もう1枚は同様の計算問題が既に解かれたもので、解答のうちほとんどが○をつけられている中で、5問だけが赤いペンで✕をつけられていた。
アリスが機嫌を悪くしている時は頬を叩かれて転ばされるなんてのは序の口で、酷いときは鞭打つことすらある。何とかして機嫌を直して貰わないといけない。自分が悪かろうと、悪くなかろうとも。
かつて1度背中に打たれた鞭の跡が、当時を思い出させるように疼く。
「申し訳ございません……!」
エリアナが慌ててアリスに向かって伏せ、額を床に擦り付けて何度も謝罪を口にすると、ようやく機嫌を直して口角を上げた。
アリスは既に解答がなされた方の紙をぐりぐりと踏みつけて靴跡をつけると、
「次に同じ失敗をしたら……わかっているわよね?」
そう言って踵を返し、靴音を荒く鳴らしながら部屋から出ていった。
床に伏せながら耳をそばだて足音が遠くなっていくのを確認すると、エリアナはようやく顔を上げた。
よかった。今日は鞭はなかった。
床に膝をついたままほっと胸を撫で下ろしていると、アリスが出ていったドアとは違う方向のドアの向こうから足音が近づいてくる。
「失礼いたします。アリスお嬢様、飲み物をお持ちしました。」
返事を待たず直ぐ様、ギィーと油を暫く差していない蝶番の音がしてドアが開き、その向こうから侍女がトレイの上にカップを1つのせて現れた。
最初こそ口元に笑みを浮かべて畏まった顔をしていたが、侍女は室内を見回して其処にエリアナしかいないのを確認すると、露骨に不服そうな表情を浮かべた。
「アリス様がお帰りになったのならちゃんと言いなさいよ。せっかく良い茶葉の紅茶を入れたのに、無駄になるじゃない。」
侍女のニナはわざと聞かせるように大きなため息をついてみせ、運んできたばかりの紅茶をエリアナにサーブするどころか、自らの口に運んだ。
「アリス様にアピールして本邸に配属して貰えるチャンスだったのに、損したわ。」
ニナは紅茶を飲み干して独りごちると、セザールによりエリアナに仕えるよう言いつけられた侍女であるはずなのに、偉そうにエリアナに命令した。
「床に座るなんて、汚いわね。汚れた服は自分で洗いなさいよ。私が教えたように。ついでに他の洗濯もよろしく。私は朝から体調がすぐれないから、もう少し休むわ。じゃあね。」
ニナは体調がすぐれないと言った割には軽快に歩き、鬱憤を晴らすように激しい音を立ててドアを閉めて去っていった。1人残されたエリアナはノロノロと立ち上がると、腫れている頬を押さえ虚ろに床を見つめ、かつてこの家に来たばかりのことを思い返した。
エリアナがガーランド公爵家に引き取られてから、3年の時が過ぎようとしていた。