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「旦那様が仰った通り、エリアナ様は本日より、こちらの離れで生活していただきます。身の回りのお世話をするものが2人つきますので、後程、紹介させていただきます。」
そう言ったセザールは、手の平の先で離れである建物を示した。
木造平屋建てのその建物は多少老朽化しているとはいえ、使用人の寮として使用していただけに、エリアナが今まで暮らしていた家とは比べ物にならない程大きくて立派な建物だった。
ただし数日前まで倉庫として使用していたので、外観の掃除は特にしておらず、蜘蛛の巣が複数はり、軒下には燕が巣を作り巣の下は燕の糞だらけ。お世辞にも綺麗とは言い難かったが、それでもエリアナにとったらその大きな建物は、母に唯一買って貰った絵本にでてくるお城のように思えた。
目を輝かせて食い入るように離れを見上げていたが、先ほどのガーランド公爵の言葉から少し思うところがあり、エリアナはセザールに視線を戻した。
「お母さんは……?一緒に此処に住むの?」
ガーランド公爵はエリアナの母を妾として迎えると言っていた。
エリアナには妾の意味がわからなかったが、エリアナの母は本邸であるさっきの建物には入れるけれど、自分は立ち入るのが許されないのだろうという程度の認識はあった。
「申し訳ありませんが、エリアナ様とエリアナ様のお母様であるセレナ様は一緒に住むことはできません。」
セザールは心痛な面持ちでエリアナを見やる。いかに彼女を傷つけないように説明したくとも、厳しい現実を突きつけなければならなかった。
「セレナ様はガーランド公爵様の………。」
セザールはそこまで口にした後、言いづらそうに表情を歪めて口をつぐんだ。妾という言葉はあまり良い意味にとれるものではなく、既にガーランド公爵が本人に伝えてしまってはいるが、妾の意味を聞かれるとなんと答えて良いかわからなかったからだ。けれど小さな子どもに分かりやすく伝えられる代わりの言葉も思い付かず、困ったように浅く息を吐く。すると、不意に少し離れたところから2人に声がかけられた。
「あら、教えてあげればいいじゃない。お父様は私のお母様が亡くなった後に次々に持ち込まれた縁談に辟易していた。遠い昔に少し手を出しただけで子を孕んだから追い出した侍女が子爵令嬢だったのを思い出したから、縁談避けに後添えに迎えたって。対外的には妻として扱われるけど、実際は妾なんだって。ただの愛人なんだって。」
一切悪びれることもなく、まるでとても楽しかった友人との語らいを話すように、少し離れたところにいた1人の少女が表情を綻ばせながら告げた。
少女は興味深そうにまじまじとエリアナを上から下まで凝視すると、桃色の唇の両端を上げた。一見すると人好きのする好感の持てる表情に見えるが、少女の性格を熟知しているセザールからしたら背筋が寒くなる思いがした。
離れたところから声をかけてきた少女はとても美しい少女だったので、思わずエリアナは呆けて見惚れた。
蜂蜜色の艶のある金の髪、長い睫に縁取られた大きな青い瞳、通った鼻筋に桃色の唇。
少女が着ているのは唇と同じ桃色で、たっぷりとしたフリルの可愛らしいドレス。
エリアナがかつて母に連れられて街を歩いていた時、玩具屋の店先に置かれていた愛らしい人形に似ていた。
似ていた。
エリアナはというと、その髪は陽にすけると金とも言えなくもない金混じりの茶髪。顔は母であるセレナとそっくりで愛らしい顔をしていたが、アリスと比べれば大輪の薔薇とかすみ草くらいの違いがあった。
エリアナはつい自分の着ていた粗末な衣服と、目の前のアリスの可愛らしい服とを見比べてしまい、恥ずかしくて御者と会った時と同じように服の胸元をギュッと握りしめた。
「アリスお嬢様!」
セザールの非難めいた声に、アリスは腰に手を当てて眉根を寄せた後にあからさまなため息をつき、セザールを嗜めた。
「なぁに?すぐ分かることなんだから、きちんと教えてあげないと困るのはこの子よ?」
そしてアリスはセザールからエリアナに視線を移すと、自分の胸に手を当てて微笑んで見せた。
「初めまして。私の名前はアリス・ガーランド。ガーランド公爵家の1人娘よ。」
「……っ……こんにちは、はじめまして。エリアナです。」
エリアナもガーランドの公爵の娘だが、アリスの言葉はあくまで娘なのは自分だけなのだと言いたげな口振りだった。しかしエリアナはその皮肉には気づかず、ただアリスに圧倒され、戸惑いつつも掴んでいた胸元の手を離して、深く頭をさげた。挨拶の仕方が明らかに平民の動きで、アリスはエリアナがまったく貴族としての教えを貰っていないことを悟った。
「えっと………お母さんは、結婚したってこと……よね?」
アリスがセザールと話していた内容と、先ほど会ったガーランド公爵が自分に告げた話とを思い出しながら思考を巡らせ、確認するようにエリアナが質問すると、アリスがこくんと頷いて見せた。
「そう。私のお父様とね。」
「でも……私は………娘とは認めないって言われた……。」
公爵はエリアナに対し、あくまで娘はアリスだけで受け入れる気はないと言っていたのを思い出した。宙ぶらりんの存在の自分はどうすればいいのかわからず、再びぎゅっと服の胸元を掴む。
「そう、貴方はお父様の血が流れているけれど、娘とは認められていない。」
そう言いながら、アリスはそっとエリアナに近づき顔を寄せる。そして優しい優しい笑顔を浮かべて語りかけた。
「お父様は貴方のお母様であるセレナさんに手を出して、子どもを孕ませた。それが貴方。セレナさんは子爵家の令嬢だったけど、結婚もせずに子どもを孕んだことで子爵家から絶縁され、平民になった。貴族令嬢だったのに、貴方のせいで平民になった。貧乏な生活を強いられた、本当に、可哀想ね。全部、貴方のせい。貴方のせいで、セレナさんは不幸になった。」
「私の………せいで……?」
お腹がすいてひもじい思いをして、1日水だけ飲んで過ごした日もあった。祖母を入れて3人で、1つのパンを分けたこともあった。しかしエリアナの母親であるセレナはそれをエリアナの前では辛いと一言も言わず、いつも笑顔だった。けれどアリスの言葉で、それは幻で本当は辛かったんじゃないかと思った。辛いのを我慢して、仕方なく自分を育てていたんじゃないかと。
私のせい、私のせい、私のせい……。
私がお母さんを不幸にした。
その思いがぐるぐると頭の中を巡って、胸が締め付けられ、胃の奥から酸っぱいものが沸き上がるような気がして気持ち悪くなり、口元を押さえて俯く。するとその腕をアリスが掴んだ。
日焼けした自分の手とは違う、真っ白で柔らかくて細い指だった。
「貴女が私の言うことを聞くなら、セレナさんを私のお母様として受け入れて、優しくしてあげてもいいわ。お父様に、きちんと妻として扱って優しくするように言ってあげてもいいわ。お父様は、私のお願いはいつも叶えてくれるの。」
悪魔の囁き。けれどエリアナにとっては、女神様の言葉に思えた。
「言うことを聞く!お母さんを幸せにしたい!」
「アリス様!!お止めください!」
このままでは、アリスの毒牙にやられてしまう。
アリスの言葉を遮ろうとセザールが2人の間を裂こうと手を出せば、アリスはセザールをきつくと睨み付けた。
「セザール、私を誰だと思っているの?少し黙っていなさい。」
邪魔しようとするセザールの手を空いた手でピシャリと払いのけると、アリスは再びエリアナの方を向いた。優しく蕩けるような笑みを浮かべて。
「これは契約よ。私の言葉には絶対服従。言うことを必ず守るの。」
「わかった……守る。」
エリアナがアリスに頷いて見せると、アリスは自分と同じ身長のエリアナの頭を、それは優しく撫でた。
数年後にあの約束をするべきではなかったと後悔する、アリスの奴隷となる契約だった。
エリアナが祖母と思っている人は、本当の祖母ではありません。