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目の前にいる御者が何故自分の名前を知っているのかわからず、エリアナは顔を上げて目を白黒させた。御者は慌てて両の手をエリアナに向かって差し出したが、周囲をキョロキョロと見回した後にためらい手を引っ込めて立ち上がると、
「人を呼んでくるから、そこを動かないでいただけますか?」
御者は先程まで小さな見知らぬ子どもに対する態度だったのに急に畏まった喋り方になり、エリアナの家の中に入っていってしまった。
「え、え、えぇ……?」
わけがわからなくて、最初こそエリアナは言われた通りにその場に立っていた。けれど御者が入って行ったのは自分の家なのに家の前で待っている必要もない。エリアナは、戸口を開けてそっと中を覗いた。
「ただい………。」
『ま』と言いかけたところで、さっきまで家の外でエリアナに話しかけていた御者と、御者より更に品の良いものとわかる上等な服装を着て白ひげを蓄えた男性が、居間の中央に立っているのが見えた。
そこに母の姿はなく、祖母だけがそわそわと所在なさげに部屋の隅にいる。
粗末な家に上品な男性がいるその光景はかなりの違和感があり、ぱちくりと目を見開く。白ひげの男性はエリアナと目が合うと目を細め、スッと近づくと目線を合わすように屈んだ。好好爺然とした風貌のその男性は、そのまま自分の胸元に手を当てて丁寧に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、エリアナ様。初めまして、私は執事のセザールと申します貴方様をお迎えにあがりました。」
「お迎え………?」
「お母様は一足先に屋敷に向かいました。」
自分の名前に『様』をつけられた上に畏まった態度をされ、まるでお金持ちのお嬢様になったような気がして気後れする。
「邸宅で旦那様がお待ちです。」
「旦那様……?」
混乱したエリアナは、録な説明もされずセザールに誘導されて馬車に乗り込んだ。馬車の椅子はふかふかで、その柔らかさに驚く。森の近くの農場で飼われていた羊に座っているような気分だった。嬉しくて何度も座り直していると、セザールがその様子を微笑ましいものを見るような目で見ているのに気づいた。
その温かい目が嬉しいような恥ずかしいような気がして目をそらすと、馬車の窓から外の様子が見える。
馬車の外には祖母が立っていて、こちらを悲しげな目で見ていた。
「おばあちゃん……!」
なぜ悲しい目をしているのかわからず窓に飛び付けば、祖母がエリアナに気づきエプロンの袂をグッと握りしめた。祖母は目を伏せ、その目元が潤んでいる。
エリアナが馬車から降りようとその扉を開けるレバーに飛び付けば、やんわりとその手を止められた。
「エリアナ様とあの方は、もう住む世界が違います。1人で生活できるだけのお金は保証されますので、ご心配なく。」
途端、馬車が走りだし、祖母の顔が遠く小さくなっていく。祖母は馬車を追うように歩きだそうとしたが、その足を止めてただエリアナが見えなくなるまでその姿を見ていた。エリアナも同じように祖母の姿が見えなくなっても、その方向をいつまでも窓に貼り付いたまま見つめていた。
それが祖母との最後の逢瀬になろうとは、その時は思いもしなかった。
公爵家の本邸に着いた馬車を降りたエリアナは、あんぐりと口を開けて固まった。
広い玄関の前には大きな噴水と、噴水の周囲に円を描くように敷かれた石畳。噴水の向こうにも石畳は続き、広々とした通りになっている。その石畳通りの両側には緑で出来た壁があり、遥か向こうまで続いている。目の前の玄関の広さだけでも自分が住んでいた家が何軒も入りそうなほど。
豪華な馬車を見ていたから相当なお金持ちなのだろうとは思ったが、想像の範疇を飛び越えてきた。
セザールはあまりに素直な表情を見せるエリアナを微笑ましく思い、親しみを持った。
「エリアナ様、そろそろ参りましょう。」
セザールがエリアナに手を差し出すと、エリアナは言われるまま手を出してセザールの手をぎゅっと握った。
貴族の娘として教育を受けていたならばエスコートで差し出された手には軽く手を添えるだけなのだが、あいにく教育を受けていないエリアナは出された手は握るものだと思っている。
今後を思えばそれは訂正すべきことなのだが、セザールは敢えて何も言わず、握られた手を握り返して彼女を案内した。
そんなセザールが彼女に向ける視線には憐憫が込められていた。