1章(1) 異世界転移
寂れた神社の鳥居の下を、一人の若者が歩いていく。
そのまま境内に向かう彼の名は鋭斗。大学3年生、留年中。容姿だけなら爽やかな好青年だが、見る者に「とにかく地味で目立たない」という印象を抱かせる雰囲気の持ち主だ。
まだ梅雨入りもしていないのに、太陽は真夏のように燦然と輝いている。今日は暑いなぁと思いながら賽銭箱の前まで来た鋭斗は、鈴を鳴らしてからポケットに手を入れ、持ってきた小銭を投げ入れた。それから二礼二拍手。何か楽しいことが起こりますように、と祈ってから一礼し、渋面を浮かべた。
(違うだろ)
本当は、もっと違うことを祈るつもりだった。
何もせずダラダラしている現状を変えたい。やりたいことを見つけたい。
神に祈ったところでどうなるものとも思えないが、何もしないよりはマシな気がして、こうして参拝しに来たのだ。
(……まあいっか。明日にでもまた来て祈り直せば)
溜息を吐きながら後ろを振り向いた鋭斗。その視界が、白く塗りつぶされる。
(⁉)
急な出来事に混乱しつつ目を凝らすが、かろうじで境内の階段が見える程度。参道は見えない。
濃霧であった。
『願いを叶えてやろう』
陳腐すぎる言葉とともに霧が揺らぐ。
(何だ? 何が始まった⁉)
訳の分からない事態に、鋭斗は立ち尽くすしかない。
『我はこの地の祭神。我の力をもって異世界に送ってやろう』
人間離れした声だった。どのような性別にも、どのような年齢にも聞こえる。虫の羽音のようにうるさく感じたかと思えば、美しい音色に転じて川のせせらぎを連想させる。そんな奇妙な声が、鋭斗が唖然としているのに構わず話を続ける。
『異世界転移の物語が、この国に多く溢れていることは知っておろう』
(まあ、知ってるけど)
『その影響で、神が異世界転移を司れるようになった』
(そんな無茶苦茶な⁉)
『どの神でも、という訳ではない。だが、異世界転移を多く願われた神は異世界転移の力を得る。我もつい最近出来るようになった』
到底信じられる言葉ではなかった。
(そもそも異世界転移なんて願ってないし)
もし仮に、本当にそんな力があるのなら、本気で異世界転移を望んでいる人を転移させるべきだろう。そのようなことを鋭斗は言おうとして、
『次にいつこの神社に参拝者が来るか分からん』
自称・神に遮られた。
鋭斗は訝し気な顔をする。
「……力を得るほど多く願われたってことは、参拝者もそれなりに多いんじゃないんですか?」
『否。この地域で暮らす全ての人の願いが反映されておる。しかし異世界転移させられるのは参拝者のみ、かつ本人が希望せねば出来ない。という訳で、我の力を試させろ』
「願いを叶えてくれるはずでは?」
まさか試しに使ってみたいだけじゃないだろうな、という思いを込めて確認すると、
『お前の願いは異世界転移で叶えることが出来るだろう。もってこいではないか』
自称・神が畳みかけてきた。
『それにな、参拝作法が中途半端だ。何故、手水を使わない? ちらっと見ていたあたり、知ってはいるのだろう?』
急にダメ出しされて、鋭斗は気まずそうに俯く。
「えっと……ひしゃくにカビがきてたので、触りたくなかったんです」
『まあ良い、許してやるから異世界転移を受け入れよ』
(それ言うためのダメ出し⁉)
面倒臭くなってきた。霧から聞こえる声を信じるかどうか悩むのも、異世界転移を拒む理由を考えるのも。
「分かりました、好きにしてください」
鋭斗が諦めたようにそう言うと、境内の霧が濃さを増していった。
『では、転移を開始する。転移とともに言語理解の能力を授けよう。異世界の公用語を日本語と同様に理解出来る能力だ』
(くれる能力それだけかよ。こういうのって、もっとチート能力もらえるものじゃなかったのか?)
不満を感じながら、じっと霧が晴れるのを待つ。
しばらくそうしていると、白ばかりの視界に色が戻ってきた。彩度の低い色だ。
ひんやりとした湿った空気が火照った体を冷ましていく。木製の床に接していたはずの足は、なだらかな石の斜面を踏んでいた。
(……洞窟?)
不揃いな岩がせり出す壁には照明器具が取り付けられているが、経年劣化のせいか消えたり暗くなったりしていた。あちこちが闇になっており、視界が悪いことこの上ない。道は方々に伸びているが、出口を指し示す看板など無いのでどう進めば良いのか分からない。
「どうしろと」
呟いた声が反響する。
その響きに混じって、前方から何かが聞こえた気がした。耳を澄ますと、やはり聞こえる。獣の唸り声のような、グルル、という声が。
(何かいる……?)
丁度あんな唸り声がエンカウントのサインだったRPGの魔獣を思い出して、背筋が寒くなった。ボスでもないのにやたらと強くて獰猛で、勝てなくて諦めた難敵だ。
あんなものと現実で遭遇したら、確実に喰われて死ぬ。
(ってか、普通の野生動物とかでもヤバいな)
息を潜めて様子を伺う。隠れるような場所は無い。逃げようにも後ろは行き止まりだ。
杞憂であってほしいという思いとは裏腹に、唸り声が大きくなった。複数。近い。
戦慄していると、生暖かい液体が腕を濡らした。ハッとして横に跳ぶ。さっきまで居た場所に、よだれを垂らした獣が3体降ってきた。
狼のような姿の獣だ。紅い瞳を爛々と輝かせている。大きな口を開け、1体が突っ込んできた。
「っ!」
迫る牙をギリギリどうにか躱せたところに残り2体の爪が走る。左腕が切り裂かれ、右脇腹が抉られた。
こけるように倒れ込み、苦痛に呻く。体を動かす気力は湧かない。勢いよく流れ出る血が灰色の地面を濡らしていく。
(……死ぬのか、俺)
どこか他人事のように感じた。
獣たちが近付いてくる。ゆっくりと。獲物を追い詰めて愉しむように。
(異世界転移、断るべきだったな。……いや、もしかして、これは夢?)
酷い悪寒と息苦しさに、堪らず目を閉じて考える。もし夢ならば、とっくに覚めていそうなものだ、と。
獣の息づかいが、やけにハッキリと聞こえた。
(夢、な訳、ないか…………)