前座
ワクチンをご存知だろうか。
弱めた病原菌を少量体内に注入し、体の免疫機能にこの菌に対する抗体を作らせる。そうすることで次に体内に同じ抗原が入った時に、速やかに免疫機能が働いて病気にならないという寸法だ。
ワクチンの歴史は長い。その起源は天然痘の治療から始まった。
時は1721年。ヨーロッパでは産業革命が起こり、爆発的に文明が発展を遂げた激動の時代である。
急激な文明の進化は生活環境を著しく変化させ、しばしば流行病が街を襲うことがあった。
その最もたる例こそ天然痘。
症状は四十度もの高熱!立ち上がれないほどの頭痛、腰痛!さらに膿の泉が体のあちこちに出現!膿は内蔵までも蝕み、肺まで犯された場合、呼吸困難で死に至る。
特筆すべきはその感染力だろう。なんと、患者のかさぶたでさえ一年間、触れただけで感染する汚染力を!保持し続けるというのだ!
今でこそ耳にしない病名かもしれない。だが近代のヨーロッパにおいて天然痘とは死と同義の存在に違いなかったのだ。
しかし、天然痘の脅威は一人の救世主によって衰退を迎えた。
彼の名はエドワード・ジェンナー。外科医ジョン・ハンターの教え子であり、田舎の開業医である。
田舎の医者?と疑問を持った方も多く見受けられるだろう。その通り、医療とは常に都心で進化するものだ。整った設備と環境は研究に最も向いている。
だがしかし!
天然痘の根絶は”田舎”でなくしては起こらなかったのだ!!
当時の農民の間ではこのような噂があった。
「牛飼いで発熱した者は天然痘に罹らなくなる」
ここであえて話を変える。
オスマン帝国駐在大使夫人だったメアリー・モンタギューという人物は現地で膿の泉、膿疱から取り出した液体を健康な人間に注入する人痘という治療法を知り、帰国後にイギリス上流階級にひろめていた。だが、この治療法は摂取者の二%が重症化し、死亡するという極めて危険な方法だった。
ジェンナーはこの2つの話に関連性を見出した。一度罹患した患者は次に同じ病気に罹らなくなるのではないか。
――――時は1796年。ジェンナーはついに、人体実験を行う。
彼は使用人の9歳の少年に牛痘を摂取させた。
経過は多少の発熱、及び不快感。症状はその程度で大事には至らなかった。
その六週間後、ジェンナーは本命の天然痘を少年に摂取させた。
天然痘。ヨーロッパの死神。
実験に期間が空いたのは、覚悟を決めるのに時間が必要だったからだろう。一歩間違えれば殺人になるからだ。
天然痘の潜伏期間は7〜16日。観察を続ける間、ジェンナーも少年も生きた心地はしなかっただろう。不安と恐怖に苛まれ、夜も寝付けなかったに違いない。
そして、摂取してから16日が経った。
少年は発症しなかった。熱も、頭痛も膿疱も、少年には起きなかった。
一日、一日と日は過ぎていく。
摂取してから一ヶ月が経った。
少年は、発症しなかった。
少年は、発症しなかったのだ!
牛痘治療法は立証された。
以降、牛痘は改良を繰り返し、ワクチンとなり、ヨーロッパだけでなくアジア、アフリカ、アメリカ大陸、オーストラリア大陸にまで普及し……
1980年、WHOは天然痘の根絶を宣言した。
ここに人類と天然痘の長い戦いの終止符が打たれたのだ。
以来、ワクチンは有効な予防手段として世界に渡って使用されている。中には『医学的に無害と立証されている』ワクチンは自閉症を起こしたり、国の陰謀の前座だのと実に実に滑稽で荒唐無稽なほら話で摂取を拒む人間がいるようだが。
しかし、気持ちはわからなくもない。ワクチンという外部からの侵入物をなんの違和感もなく受け入れる風習が現代には確率されている。ある意味ワクチン忌避者は危機管理意識が高い人間なのかもしれない。
ワクチンは無害で、最も安全に病気予防ができるアイテムだ。よほどの物好きか、妄想主義者でない限り摂取をお薦めする。
そう、今のところは。
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サイレンが鳴っている。
サイレンが鳴っている。
聞いたこともないサイレンが、鳴っていた。
それは甲子園で聞く音に似ていた。
蝉の声。いつもはうるさいそれも大人しく聞こえる。
叫び声がする。一つは悲鳴、一つは動物じみた奇声。肉が肉を打つ音、数度の繰り返し、静かになる。
血の匂いがする。鉄臭い、むかむかするにおい。
走れなくなって目の前の壁に手を突いた。汗がぼたぼたと落ちていく。
苦しくて開いた口から熱い空気の塊が喉をせりあがって喉を衝く。
嗚咽、胃の中身が残らず逆流。
びちゃびちゃと壁を汚すそれから目をそらし、壁を支えに歩き出す。
一体何が起きている。自分が何をしたと言うんだ?
恐怖と混乱で目が回る。今に至るまで見てきたすべてが嘘であってほしい。だけれどきっとそんな事はないのだろう。
左腕、そこには人の手形が刻まれていた。青く腫れたあざ。普通こんな怪我を与えるほど人間の握力はないはずなのに。
狂っている。
世界は狂ってしまった。
『市街地では暴徒による混乱が発生しています。住民は室内で待機してください』
アナウンスなんて無意味だ。何もしらない奴の注意なんてなんの役にも立たない。人を殺す化け物になり果てた人間なんて止める術なんてない。
「わけわかんねぇよ…」
顔に垂れ下がった枝が当たる。降りかかった理不尽さを擦り付けるように毟り取り足元に投げつける。
「わけわかんねぇよ!!」
荒ぶる感情に任せて踏み付け、子気味良い破壊音を奏でる。意味がないことはわかっている。こんなことに意味はない。だがこうでもしなければ正気など保っていられそうになかった。
がさ、と足音がした。
体ごと振り向き、自分と同じ制服を着ているのを見て安心する。
「優斗、逃げてこられたのか」
疲れた様子の友人に歩み寄る。学校から逃げる際にこの廃工場に逃げる事を伝えた七人のうちの一人だからだ。彼らはまだまもともだった。だから信用できる。
優斗はふらふらとこちらに近づいてくる。俺は途中まで彼を信用していたが言葉一つも発しない様子を見て歩くのをやめた。
「優斗。どうした?なんか言えよ」
いつもの優斗なら、疲れていても笑顔で気の効いた言葉を放つはずだ。たとえあの惨劇を見たとしても言葉の一つぐらい…
「優斗!それ以上…」
言い切るよりも早く、奴はとびかかった。
後ろに下がろうとして足がもつれる。結果として俺は転び、優斗が押さえつけるように襲い掛かってきた。
「やめろ優斗っ、この…!」
腕を振り回してどけようとする。頭が回らない。どうすればいい?でたらめに腕を叩きつけるが優斗には全く効いた様子がない。
そうだ、足だ。のしかかられているのは腹である程度動かせる。背中を何度も蹴るがこれも全く答えない。
「アア…」
聞いたこともないかすれ声が、眼前の顔から発された。血管で覆い尽くされた眼球。そこに俺が知る友人の姿はなかった。
バキ、と目から星が散る。殴られた、そう認識するより早く二発目が頬を打った。
「ッあぁぁあ!!いってぇ!!」
あまりの痛みに友人への気遣いが亡くなる。怒りに任せて優斗の腹あたりを渾身の力で殴る。すぐに三発目をもらって地面に倒れるが相手の裾を握って横に転がる。
優斗が離れた。
すぐに立ち上がろうとして、顔面に攻撃をもらった余波でよろめき、また倒れる。足が千切れるほどの痛みを訴える。優斗がつかんできたのだ。
「放せよ馬鹿野郎!!」
空いた足で顔を蹴る。容赦なんてしない、そんなことしたら殺される。死に物狂いで蹴り続ける。すると靴が足からすっぽ抜けてようやく逃げ出すことに成功した。
痛い、ほんとに痛い。立たなきゃ死ぬ。そう思って気合で立つ。
逃げよう、とにかく逃げよう。こんなところにはいられない、仲間と交わした約束なんて知るか、殺されたくない、生きたい。
すぐに足は止まる。
ふらふらと歩き回る”奴”が一人、二人、三人と増えていったからだ。
全員顔を知っている。ここまで逃げようと言った、全員だ。
踵を返す。だがそっちにも”奴”がいる。
唸り声が少し遅れて上がった。まるで輪唱、死刑宣告に等しい地獄の歌声だ。
逃げられない。
俺は…ここで、死ぬ?
恐怖のあまり目を閉じ、頭を抱えてしゃがみ込む。俺はこいつらに殴り殺されて死ぬんだ―――。
爆音。
ほとんど一つにしか聞こえない音が、響いた。
周囲で人が倒れる音がする。
顔を上げると俺を囲んでいた奴らが何か強い一撃を受けて倒れ伏していた。だが、死んでいるわけじゃない。何事もなかったかのように起き上がる。
あの音は?知っている。あれは…銃声だ。
カツ、カツ、カツと早歩きの足音。
目の前を白いものがよぎった。甘い、花の香。雪のような白い髪。
それは次の瞬間、踊った。弧を描き、流れるような動きでたなびく。
足元、ローファーで踏みつけた首の上、軽い銃声の後血が噴き出る。
俺は、その銃声を知っている。
22LR弾。威力の低い小口径の弾丸。
そんな事を考えるうちに、射手は次々に敵を仕留めていった。
つかみかかる一人を避け、膝裏に蹴り。
即座に脳天に射撃、後ろから腕を振り回す相手にしゃがみ、腹部に銃口を押し付け一発。くの字に姿勢が崩れた瞬間額に穴が開く。
倒したその襟首をつかみ、左から迫る一体に投げつける。足にぶつかり、前のめりに転がった所を一撃。
残る敵は三人、射手を囲むように動いている。少しは知性があるようだが、逆に命取りになった。
腕がブレた、と思ったその時には銃声がして二体が倒れる。恐ろしい速度での早打ち、だが銃のボルトが後ろに下がり切っている。弾切れだ。
恐ろしい叫び声と共に”奴”が射手に向かって走る。その顔面に、拳銃が当たった。
武器を投げた?
驚いたその数瞬、射手は銀閃をひらめかせ、即座に最後の一体を仕留めた。パチン、と束にナイフが戻る。
なんて早業だ。動きを見るので精いっぱいだった。
それに熟練した技の数々に見とれてなにも考えられなかった。自分はただ突然現れた命の恩人を前にして茫然としていたのだ。
と、射手が近づいてくる。先ほどはあまりにも混とんとしていて顔を見る余裕はなかったが女性のようだ。かなりきれいな顔立ち。
黒の手袋に包まれた手が伸びる。直後、髪の毛を掴まれて無理やり立たされた。
「ちょっ、痛った!なにすんですか!?」
「名前を言え」
「は?」
あまりにも訳の分からない発言に変な声が出た。舌打ちが聞こえたと思ったら、どん!とみぞおちに衝撃が走って俺は地面に転がった。蹴られた…のか?
「さっさと名前を言え。殺すぞ」
冷たい、あまりにも冷たい声。やるといったらやる響きが降ってくる。
「乾です!ゲホッ!乾修二!!」
ビビッて上ずりながら名乗る。俺はどうなるのか。不安で女性の方を見やる。彼女は耳のあたりに手を当てていた。誰かと話しているのか?
「…おい、ヘタレ。お前生まれてから一度も予防接種を受けていないのか?」
「え?は、はい。親がさせてくれなくて」
冷たい紫の瞳が興味深げに歪んだ。
「命拾いしたな」
女性はどこからともなくもう一丁の拳銃を取り出す。さっき使っていたスタームルガーとは違うタイプの銃だ。形状的には……
いや、そんな事を考えてる場合じゃない。この人は、助けてくれた。それ以前に人を殺してしまっているじゃないか。たとえ、俺を襲ってきた奴らがおかしくなってしまっていたとしても人間には変わりない。こいつは俺の友達を…!
「おい!」
乱暴に扱われた腹いせもあって、俺は怒声を上げて立った。
「なんで殺した!!こいつらは俺の友達なんだぞ!」
はぁ……と長い溜息。
こうしてみるとこの女性はずいぶんと小柄だった。身長は150もあるだろうか。見たこともない制服を着ている。どこかの…生徒なのか?
「一つ教えてやる」
耳鳴りがした。
後ろでどさり、と何かが落ちた。
「死にたくないなら倫理を捨てろ」
くるくると拳銃が回り、どこかに消える。
俺はやはり白痴のようにその後ろ姿を眺める事しかできなかった。
「ついてこい。お前には価値がある」
ふらふらと、白い髪を追う。