97話 それぞれの想いは互いに届かず
二人で長い下り坂を下る。街路樹の根元に集められた枯れ葉が、木枯らしに揺られて乾いた音を鳴らす。
薄暗くなってきた街は灯りをともし、ぽつぽつと夜の姿へと変わっていく。
しばらく無言で坂を下り、ちょうど駅までの距離が半分くらいになってきた辺りで、俺は意を決して口を開いた。
「雪芽、さっき庭から話を聞いた。お前、広瀬と取引してあいつと付き合いだしたんだってな」
「……取引なんてしてないよ」
「俺を守るためだったって、そう聞いた」
「……怒ってる?」
「別に――」
怒ってない。そう言いかけて思い直す。
確かにもう怒ってはいない。文句を言うのもやめようって思ったから。だけど雪芽の行動を受けて、俺が何も思わなかったわけじゃない。
「いや、違うな。確かにちょっと怒った。でも雪芽の気持ちも分かるから」
「そっか」
それからまた少し、俺たちは沈黙の中に身を置く。
目の前の信号が赤に変わり、俺たちは足を止める。並んだ肩の距離は以前より少し離れているような気がした。
そして少しすると、今度は雪芽が沈黙を破った。
「私は陽介の気持ちが分かったよ。大切な人を守れるって分かったら、後先なんて考えられなくなっちゃうね」
「……そうだな」
「それに今の陽介の気持ちも分かる。それはちょっと前まで私の気持ちだったから」
信号が青になり、雪芽は歩き出す。
俺も思い出したように足を前に進ませ、雪芽の半歩後ろについた。
「だから余計に申し訳ない気持ちになって。でも、私はこれでよかったって思ってる」
雪芽はこちらを見ることなく、ただ前だけを見てそう言った。
俺はそんな雪芽の横顔をじっと見つめていた。
そうだ、雪芽の言う通り間違いじゃない。正しかったんだと思う。
でも、きっとその正しさは自分一人のものだ。取り残された俺たちは、雪芽の行動を正しいと認めたくないのだ。
自分を犠牲にして何かを守っても、守られた人たちは自分を犠牲にしてまでも守ってくれたことに対する喜びや感謝よりもまず、どうしてそんなことをしたんだという不満が先にでる。
自己犠牲とはつまり、自己満足なんだ。他人のことを慮ることなく、自己陶酔に浸る。他人を思っての行動の中に、他人の気持ちを思いやることもせず。
それは正しいのか? きっとある意味では正しい。結果だけを見れば守りたい者を守れているから。
でも、それは決して最適解にはなりえない。自己犠牲の果ての未来で、みんなが笑っていることは決してないから。
俺にはそれが分かった。自分を犠牲に守った雪芽が、自身を犠牲にして俺を守ったと知ったときに。
でも雪芽には分からなかったのかもしれない。自己犠牲で守られた者が何を感じるのか知っていても、目の前に誰かを救える方法がぶら下がっていたら飛びついてしまう。ある種盲目的に縋ってしまう。
……いや、分かっていたのかもしれない。最適解になり得ないと知っていても、大切な人を守れるとしたら、手段は選べないと思ったのかもしれない。
大切な人、か。
雪芽は俺を大切な人だと言った。それはきっと大切な友人って意味だと思うんだけど、雪芽にとっても俺が大切な人なんだって思うと、胸の奥がじんわりと温かい。
自分を犠牲にしてでも守りたいと思える。それはきっと俺が雪芽を大切にしたいと思うのと同じくらい、俺を大切にしてくれているってことだと思うから。
それでも、やっぱり自己犠牲はだめだ。きっとそれが分かっているから雪芽も俺と目を合わせようとしないんだ。罪悪感があるからこそ俺の目を見れないんだと、そう思う。
「……陽介は私のしたこと、間違ってたと思う?」
駅が目前に迫った頃、雪芽は遠慮がちにそう口にした。
それは質問のように聞こえて、その実確認のようだった。
「間違ってはいないと思う。でも、やっぱり間違いだよ」
「ふふっ、何それ?」
「分かってるだろ?」
そう問われた雪芽は微笑みを悲しいものへと変えて小さく頷く。
「……そうだね。きっと少し前なら私がその答えを言っていたと思うから」
そうだ、雪芽の行動は間違ってないけど間違いだ。
誰かを守りたい、大切な人に辛い思いをさせたくないっていう気持ちは間違いなんかじゃない。でも、自分を犠牲にする行動が正しいはずなんてない。
それから俺たちは折よくやってきた電車に乗り込む。
なんだか雪芽と一緒に電車に揺られたのはだいぶ久しぶりな気がする。そのせいなのか、以前は途切れることもなかった会話が、今はない。
そうして無言のまま無人駅に降り立つ。やっぱり俺たち以外に降りる人影は見えない。
「ねぇ、陽介は私が広瀬君と付き合いだしてどう思った?」
ホームを歩く雪芽は足を止め、振り返る。その目はまっすぐに俺の目を射抜いていた。
「ショックだった、んだと思う。いや、ショックだったんだ」
「それは、どうして……?」
「広瀬に取られたから。雪芽を守るのは俺の役目だと思ってたのにさ」
「……そっか! そう思ってくれてたなら私はそれだけで十分だよ」
雪芽はそう言って笑う。しかしその笑みの前に見せた悲しそうな瞳が、その言葉を嘘っぽく見せていた。
……雪芽はやっぱり広瀬と一緒になんてなりたくないんだ。本当に広瀬が好きなら、幸せならば、そんな顔をするわけがないだろ。
「なぁ、雪芽。もう嘘をつくのはやめてくれよ」
「私嘘何て――」
「ついてるだろ? 好きでもない奴と付き合って幸せとか、自分を犠牲にするのが正しいとか」
雪芽は俯き沈黙する。その沈黙は肯定なのだと、そう受け取った。
だから俺は雪芽に会ったら言おうと思っていた言葉を言うことにした。広瀬のことを好きでないと確かめた今なら、俺は臆することなく言えると思った。
「なぁ雪芽。広瀬と別れればいいじゃないか」
その言葉に雪芽は顔を上げる。その目に、その口に、驚きを浮かべて。
ただ、その瞳に宿った感情は喜びのように見えた。
しかし、雪芽はその感情をふっと消すと、まるで反対の感情をその瞳に宿す。
それは悲しみであり、辛さだ。
そうして雪芽は目を伏せ、やがて俯く。
「それはできないよ」
「……え?」
期待していたものと真逆の答えに、思わず戸惑いが口をつく。
……聞き間違えたのかな。だって雪芽は広瀬のことを好きでも何でもないのに、幸せじゃないのに、どうして付き合う理由がある? そうだよ、もう一度聞き直せばきっと――
「私は広瀬君と別れるつもりはないよ」
そんな俺の考えを先読みするかのように、雪芽はもう一度はっきりとそう言った。
……いや、そうか。俺をまだ守ろうとしているんだな。広瀬と別れたらまた俺が攻撃にさらされるって思ってるんだ。
「大丈夫だって、俺はあらぬ噂をされるくらいどうってことないし、それもみんなで乗り切っていけばいいじゃないか。そうすれば雪芽が辛い思いをすることもなくて――」
「別に辛くなんてない。私が広瀬君と付き合いだしたのは私の意思だよ」
「で、でも! さっきは広瀬のこと好きじゃないって、幸せなんかじゃないってそう言ったじゃないか!」
「そんなこと、一言も言ってない」
「それは……」
思い返してみても雪芽の口からその言葉を聞いた記憶はない。雪芽はただ俺の言葉に沈黙で返しただけだ。
「じゃあ、それじゃあ本当は広瀬のことが好きで、今は幸せだって、そう言うのか……?」
雪芽はその質問にも答えず、ただ沈黙で持って返す。
また、またそうやって黙り込むのかよ? 本当に広瀬のことが好きならそうだって言ってくれれば、俺もこの件からは手を引くのに! どうして何も言ってくれないんだよ……。
そして俺と目も合わせず、雪芽はゆっくりと背を向けた。
「もうこれ以上、このことで私に関わってこないで」
背を向けたまま呟く雪芽の横顔は、髪に遮られてよく見えなかった。
ただ、去り際に見えた口元は固く結ばれ、微かに震えているように見えた。
そうして去っていく雪芽の後ろ姿を、俺はただ茫然と見つめていることしかできなかった。
誰もいなくなったホームで、俺は空を見上げる。相も変わらずのっぺりとした空だった。
長く吐いた息は震えていて、その震えを抑えようと歯を食いしばると、喉が苦しくなった。
苦しくて、苦しくて、俺はついに俯く。
それでも苦しさは収まらなくて。あれ、おかしいな……。
どうしてこんなに苦しいのだろう。どうしてこんなに辛いのだろう。
俺のために自分を犠牲にしている雪芽を助けたくて、でもその必要はないと思ってて。
だけど雪芽は広瀬のことが好きじゃなくて、だからやっぱり力になろうと思ったのに。
なのに、それなのに……。
「関わらないで、か。そっか、そっかぁ……」
お節介、だったのかな? 迷惑だったのかな? もしかして今まで俺がしてきたこと全部、雪芽にとっては余計なことだったのかな?
守らなきゃって思ってたことも、いろいろな場所に連れ出したことも、お見舞いに行ったことだって。
……命を救ったことも、もしかしたら迷惑だったのかな。
「なぁ、雪芽。教えてくれよ、答えてくれよ。……何とか、言ってくれよ」
俺の零した言葉は湿っていた。
それでも、大きく吸った冬の空気は、そんな俺をあざ笑うかのように乾燥しきっていたのだった。
――――
『急で申し訳ないんですけど、明後日の日曜日はどうですか?』
由美ちゃんからそんなメッセージが飛んできたのは翌日の金曜日だった。
その日は何をしたのか、誰と話したのか、よく覚えてなかった。ただ、来週から半日になると聞いてクラスメイトたちがはしゃいでいたことは覚えている。
「……何の話だろう?」
もう一度メッセージを読み返してみても、なんのことかさっぱりだった。頭がぼんやりしてるっていうのを抜きにしてもよく分からない内容だった。
『ごめん、何の話だったっけ?』
『デートのことですよ! もう、ちゃんと覚えておいてくださいよ~!』
確認のメッセージを送ると、そんな返信とともに猫が怒っているスタンプが送られてきた。
あぁ、そんな約束をしてたな。色々ありすぎて忘れていた。
『ごめんごめん、日曜日ね。空いてるからその日にしよっか』
『分かりました! じゃあ今度は忘れないでくださいよ?』
俺は簡単にスタンプで了解の意思を伝えると、スマホを閉じてベッドに体を預ける。
本当はデートなんて気分じゃないんだけど、元々約束していたことだし、今更そんな気分じゃないなんて言えないよな……。
それに由美ちゃんも俺の事心配してそう提案してくれたんだし、厚意は素直に受け取るべき、だよな。
……それでも、やっぱりデートを楽しむなんて気分にはなれない。
雪芽に拒絶されたことが、ここまでショックだとは思はなかった。今は何も手に付きそうにない。
それがどうしてなのか、俺は俺の気持ちがよく分からずにいた。
……あぁ、いっそすべて投げ出して寝てしまおうか。今目を閉じて眠りに付けば、俺はこんな苦悩を抱える必要もないのだから。
そうして目を閉じてみても、雪芽の言葉が、態度が、表情が、瞼の裏をちらつく。
その度に悲しさが、虚しさが、押し寄せてくる。
結局、俺はその後一向に眠りにつくことはできなかったのだった。




