94話 二人の付き合いは利益によって成り立つか
俺は目の前でゆらゆらと立ち上る湯気を見ていた。
それは空調の風で右に左にと揺れている。
俺は駐輪場に自転車をとめた後、電車に乗って家に帰ろうと思っていた。家まで帰ると学校をさぼったことがばれる危険があったから、駅で時間を潰す予定だった。
ただ、独り静かな場所でじっくりと頭の中を整理する時間がほしかった。誰にも邪魔されない場所で、自分の気持ちやあいつらの気持ちに向き合ってみたいって思った。そんな時間が必要だった。
だが、電車の時間は無情にも俺を街に引き留めた。ちょうど帰りの電車が行った直後で、次に来るのは14時。大体1時間ちょっとだった。
だから俺は街に居なくてはいけなくなった。幸い学校が終わる時間までこっちにいる必要はないし、こっちにも静かな場所はある。
そうしてたどり着いたのがここ。飯島さんとよく一緒に来るカフェだ。
静かなBGMが俺の荒んだ心を癒すようにあたりに充満し、挽きたてのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
……少しだけ落ち着いてきた。
と言っても未だに頭の中はぐちゃぐちゃだ。
夏希たちは雪芽が広瀬と付き合うだなんておかしいと言った。そりゃ確かにいきなりだったかもしれないけど、別におかしいことなんてない。
広瀬は人気者だ。イケメンだし、勉強もできる。きっと女子からすれば憧れだろう。
だから何もおかしなことなんてないのに、なんであいつらは頑なにおかしいと言うのだろう。何を根拠にしてそんなことを言うのだろうか。
でももし、雪芽が広瀬との付き合いを望んでいないなら、あの一瞬見せた表情も納得できる。
だけど、その根拠がない。だってそうだろ? 雪芽が広瀬の誘いを断る理由がない。だから雪芽の言葉に偽りはなくて、あの表情だって俺の気のせいなんだ。
……じゃあ、どうして俺の気持ちはこんなに晴れないのだろう。今なお胸に残るこの不快感は、一体何なんだろう。
雪芽に彼氏ができるのが嫌だった? 友達が自分の元を離れて行ってしまうから? 一緒に居られる時間が減ってしまうから? どれも違う気がした。
あるいは、もう俺が雪芽を守ってやる必要はないから?
「……あ、そうか、そうだったのか……」
思わず声が出た。それほどそれはすとんと腑に落ちた。
そうだったのか。俺はきっと寂しかったんだ。
今まで俺が雪芽を守ってきた。夏休みも学校も、俺はずっと雪芽を見守って、何かないかとずっと心配してきた。
いうなれば手のかかる妹のような存在。きっとそれが適当な気がする。
これからも当然そうなのだと思っていた。ずっと先のことなんて分からないけど、それでもしばらくは、雪芽は俺が守ってやんなきゃと思っていた。
でも、その使命は今の俺にはない。だって、それは広瀬が引き継いだんだから。
俺という存在よりもより身近に、広瀬という男がいる。なら俺が雪芽を災厄から守ってやる必要はもうないんだ。それは広瀬がやってくれる。これからは広瀬が雪芽を守っていくんだ。
だから俺はお役御免。もう俺は必要ない。俺はただ、雪芽の親友でさえいればいい。
そうだ、それだから俺は寂しかったんだ。役目を唐突に奪われて、今まで大切にしてきたものが、急に遠くに行ってしまって。
そうだ。そうなんだよ。そうに違いない。
……でも、なんでだろう。きちんと納得できたのに、それ以外の答えなんてないと思えるのに、どうしてか俺の胸にはまだ微かな靄が残っている。
いや、きっとまだ喪失感から立ち直れてないだけだ。時間がたてば自然と消えていくに違いない。
あるいはまだ納得できていないのかもしれない。夏希が、庭が、確信を持った目で言っていたことが、まだ引っかかっているのかもしれない。
「柳澤君……?」
俺が物思いにふけっていると、後ろから声をかけられた。
振り向くと飯島さんが立っていた。
「あぁ、やっぱりそうでした。こんな時間にいるはずないと思ったので別人かと」
「飯島さん……」
「……どうかしましたか? 学校でなにかあったんですか?」
飯島さんは心配そうに顔をゆがめて、俺の対面に座る。
そんな風に心配してくれたら、甘えてしまいそうになる……。
「俺、もう何がなんだかわけ分かんなくて……」
「よかったら話してください」
それから俺は今まで何があったのかを一から話した。
噂のことや喧嘩のこと、今こうして雪芽と広瀬が付き合いだしたこと。
飯島さんは表情こそ変えなかったけど、親身になって聞いてくれたことは十分伝わってきた。
「そうですか」
全てを聞き終わると、飯島さんは短くそう言った。
そして一瞬の沈黙ののちに、再び口を開く。
「柳澤君、話してくれてありがとうございました。そしてよく頑張りましたね。よく、一人で耐えましたね」
その言葉は、まっすぐに俺の心に届いた。
温かくて、優しい。俺を包み込むような言葉。
俺は目頭が熱くなるのを感じて、俯く。
「……はいっ」
「そうして辛いときは私を頼ってください。私は大人で、柳澤君はまだ学生なんですから、遠慮なんてしないでください」
溢れそうになる涙をこらえて、俺は頷く。
頷くことしかできなかった。だって、声を出してしまえば泣きそうだってことがばれてしまうから。
「夏休みのことだって今まで一緒に頑張ってきたじゃないですか。急に一人で抱え込むのはなしですよ」
「っ……! はい」
何とか涙を抑え込み、今度はちゃんと返事ができた。少しだけ、声は震えていたけど。
顔を上げると飯島さんは不満げな顔をしていた。
いや、表情が不満そうというよりは、雰囲気かな? なんとなく不満げって気がする。
「飯島さん、怒ってます……?」
「……怒ってないです」
「いや、怒ってますよね? やっぱり真っ先に相談しなかったからですか?」
「だから怒ってませんって。確かにもう少し早く相談してくれればなにか対策を練れたかもしれないとは思いましたけど」
「す、すみません……」
それから飯島さんに、いまさら言っても仕方ないと前置きされたうえでいろいろ言われ、俺はしっかり反省させられることになったのだった。
「しかし、雪芽さんが広瀬君というクラスメイトとお付き合いしだした、ということですが、雪芽さんは彼のことが好きなんですか?」
一通り俺を叱った後、飯島さんは注文したコーヒーを片手にそう尋ねた。
俺はコーヒーの苦さに顔をしかめてから、口を開く。
「本人はそう言ってました。でも夏希たちはそれはないって言うんです」
「なるほど……。では仮に好意はないとして、どうして雪芽さんは広瀬君と付き合いだしたんだと思いますか?」
「分かりません……。でも夏希は脅されてるんじゃないかって」
「柳澤君はどう思いますか?」
飯島さんの問いかけに、俺は雪芽が見せた表情を思い浮かべた。
気まずそうに目を逸らしたり、苦しそうな顔をしていた。それを思い浮かべると、俺の胸はチクリと痛んだ。
「何か……、何かを隠しているように思います」
「それは脅されていることを、ですか?」
「いえ……、いえ、違います。雪芽の目に恐怖はなかった……、様に思います」
「それじゃあなぜ、雪芽さんは広瀬君とお付き合いし始めたと思いますか?」
もう一度先ほどと同じ質問をする飯島さんは、優しげな目をしていた。
子供を諭すように、何かに気付かせようとしているかのように。
脅されてたんじゃないとして、好意もない相手と付き合う理由……?
そこで俺はふと思い立つ。物語の中には、望まぬ結婚を強いられる悲劇のヒロインがいる。彼女たちはどうして望んでもいない結婚をさせられたのだろうか。
「……メリットがあるから?」
「その通りです」
思い至った結論に、飯島さんは頷く。
「では誰にメリットがあるんでしょうか?」
「雪芽……?」
「おそらくそうだと思います」
「メリットって一体なんですか!?」
思わず身を乗り出した俺に対して、飯島さんは極めて冷静に首を横に振る。
「そこまでは分かりません。それにこれは雪芽さんに好意がないと仮定した場合のお話です。柳澤君はそうは思っていないんでしょう?」
「……正直分からないです。でも、雪芽には幸せでいてほしいから。だからあいつの言葉を信じたいんです」
「……そうですか」
そう言った飯島さんの目は優しかった。
それから俺は飯島さんの質問にいくつか答えた。
その内容は広瀬がいつから雪芽に近づきだしたかとか、どんな言動だったかとか、広瀬に関するものが多かったけど、俺もあまり覚えていないことだったので明確には答えられなかった。
それでも飯島さんは俺の答えを聞くたびに、何やら真剣な表情で考え込んでいた。
何を考えているのか聞いても、飯島さんは今はまだ答えられないと言うばかりで教えてくれなかった。
そうして話し込んでいるうちに、気が付けばもう1時間が経とうとしていた。もうすぐ電車の時間だ。
俺が飯島さんにそう告げると、彼女は頷き、いつもと変わらぬ口調で言う。
「柳澤君、きっと夏希さんたちはあなたを責めたんじゃない、助けてほしかったんです。好きでもない相手と付き合い始めた雪芽さんのことを」
「……分かってます。でも、俺はやっぱり……」
「大丈夫ですよ。柳澤君は自分の信じる様に行動すればいいんです。もし何を信じればいいのか分からなくなってしまったら、私を頼ってください。誰かを頼るのは決して恥ずかしいことではありませんから」
「……ありがとうございます。少しだけ頭の中、整理できた気がします」
俺は飯島さんに頭を下げると、コーヒーの代金をマスターに払う。
そして出口でもう一度飯島さんに頭を下げて、俺は駅へ向かった。
ホームに出ると、電車はもう着いていた。俺は乗り込み、人の少ない車内で独り物思いにふける。
雪芽は、やっぱり夏希たちの言う通り広瀬のことを好きじゃないのだろうか。
でも、雪芽は何かメリットがあって広瀬と付き合っているんだよな。それに、雪芽は自分で望んでそうしているってことになる。
それを俺の身勝手な理由だけで邪魔していいのか? 二人の間を引き裂いていいのか?
雪芽にとってのメリットっていうのがはっきりしない限り、結局俺にはどうすることもできない。
そんなことを、流れる車窓の景色を見ながら考えていた。
頭の中はだいぶ整理できて来て、心も落ち着いてきた。
俺は電車からいつもの無人駅に降り立つ。電車が去ってしまえば静かなものだ。
俺は近くのベンチに腰掛け、ぼうっと駅舎の方を眺めながら雪芽が広瀬と付き合うメリットについて考えていた。
結局いくら頭を巡らせようともなにも思いつかなくて、俺は疲れてしまった。
ベンチの背もたれに頭を乗せて、空を仰ぐ。相変わらず凹凸のないくすんだ白い空だ。
空に吐きかけた息が、白い煙のように浮かんでは消える。手がかじかんで、太腿の間でこすり合わせて温める。
「はぁ……、寒い……」
駅舎の中に行こうかという考えが頭をよぎり、そっちの方が温かくていいとベンチを立とうとしたとき、跨線橋から階段を下りて来る人の気配がした。
こんな時間に来るのはお爺ちゃんかお婆ちゃんくらいのもので若い人は来ない。だから階段で鉢合わせても大変だからとじっとホームを見つめて待っていた。
しかしその人はゆっくりと俺の方へ近づいてきて、やがてすぐ隣で止まった。
「よーすけさんっ! 何してるんですかー?」
見上げると、そこには由美ちゃんが立っていた。
あれ……? 今ってまだ学校の時間だよな? どうして由美ちゃんがこんなところに……?
「由美ちゃんこそ、学校はどうしたの?」
「あたしは今週から半日だって言ったじゃないですか。だから学校はもう終わってます!」
「あぁ、そうだったね。晴奈は? 一緒じゃないの?」
「晴奈は寒いから帰るって言ってました。遊ぶなら街じゃなくて家でにしようって」
「あいつらしいな」
炬燵の虫になってる晴奈は想像に難くない。
それにしてもそうだったか、晴奈たちは半日だったのか。そういえばそんなことを言ってた気もするけど、いつも俺の方が帰りが遅いから気にしてなかったな。
危うく帰ってたら晴奈に学校さぼったのがばれるとこだった。
「陽介さんはどうしたんですか? 学校」
「あぁ、えっと……、気分悪くなって早退してきたんだ」
「ええ!? 大丈夫なんですか!? 熱とか、ないですか!?」
そう言って由美ちゃんは慌てたように俺の額に手を当てる。
ひんやりとした小さな手が、俺の額を覆う。
それでもあまり冷たく感じなかったから、きっと俺の額も冷たいのだろう。
「熱は……、なさそうですね。よかったぁ~……」
「なんか前にも似たような事しなかったっけ?」
「ありましたね。あの時はあたしが倒れちゃって、迷惑かけちゃいました……」
「あの時とは逆ってわけか」
由美ちゃんはそうですねと言って笑った。
なんだか随分と昔のことのような気がする。あの頃とは随分俺と由美ちゃんの関係も変わったような気がする。
晴奈の友達っていうのは変わらないんだけど、俺と由美ちゃんだけで会うこともあるし、昔とは少し違うよな。
「……陽介さん、雪芽さんたちとのことで何かあったんですか?」
俺が過去に思いを馳せていると、由美ちゃんが心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……由美ちゃんは鋭いね」
「陽介さんのことならどんな些細なことだって気づきますよ」
「ん? どうして?」
俺が尋ねると、由美ちゃんは慌てたように俺の隣に座った。
「よ、陽介さんが分かりやすいからですよ! それより何があったのか話してくれませんか?」
俺ってそんなに分かりやすいのかなぁ……?
それから俺は由美ちゃんに事のあらましを話した。
由美ちゃんは終始痛ましそうに顔を歪めてくれて、まるで俺の気持ちを代弁してくれているかのようだった。
「そんな……。どうして雪芽さんはその人と付き合うことに?」
「俺の知り合いの人が言うには雪芽になにかメリットがあったんじゃないかって」
「……その知り合いの方って女の人ですか?」
「え? そうだけど、今それ関係ある?」
「……まあいいです。それでメリットでしたっけ? 何なんでしょう?」
なんだか不満げだけど、何がいけないんだ?
そういえば雪芽も夏希も飯島さんのことやけに気にしてたな。なんだ? 何がそんなに気になるんだ?
俺はそんな疑問を一度頭から追いやって、メリットについて考えていたことを由美ちゃんに話した。
「う〜ん、分かりませんねぇ……。何なんでしょうか?」
「そうだね。それが分かればいいんだろうけど……」
そうして俺たちは口を噤む。
「やっぱり分かりません!」
しばらくすると、由美ちゃんは何かを投げ出すようにそう言って空を仰ぐ。
そして勢いよく俺の方を向くと、
「陽介さん! あたしとデートしましょう!」
急にそんなことを言い出した。
「……え? デート? なんで?」
「楽しいからですよ! 困ったときは楽しいことして気分を変えればいい案が浮かぶかもしれないじゃないですかっ!」
……そういうもんなのか? でもなんでチョイスがデート……?
その時、向かいのホームに入ってくる電車が見えた。あれは街の方へ向かう電車だな。
「あっ、電車来ちゃった!? 陽介さん! デートのことはまた後で連絡しますっ! じゃあ!」
由美ちゃんはあの電車に乗るようで、慌てて席を立つ。
そして跨線橋に向かおうとする由美ちゃんの背中に、俺はいい忘れていた言葉を思い出して声をかける。
「あ、待って!」
不思議そうな表情で振り向く由美ちゃんに、俺は微笑みを湛えて、言い忘れた言葉を投げる。
「ありがとう。話聞いてくれてさ」
由美ちゃんは驚いたような顔をしたあと、本当に嬉しそうに笑って、
「お安い御用ですよ!」
そう言い残して跨線橋を駆け上がって行った。
向かいのホームに電車が入る。そのちょうど俺の正面の車窓に、由美ちゃんの姿が映る。
手を振る由美ちゃんに俺も手を振る。
そして由美ちゃんはあっという間に見えなくなってしまった。
「……うぅ、寒っ」
再び一人になったホームで、俺は身震いする。
そうだ、俺は駅舎に入ろうとしていたんだった。
俺はベンチを立ち、跨線橋を渡るために歩き出す。
吹く風は冷たく俺の体を冷やしてきたが、それでもなぜだか心は温かいままだった。




