58話 本気の一歩は風になって
スターターピストルから放たれた乾いた音を皮切りに、選手たちが一斉にスタートする。
それと同時にグラウンドのスピーカーから声が鳴り響く。
『さあ始まりましたクラス対抗リレー、2年生の部! 今走者一斉にスタートしましたぁ! 実況は放送部が、解説には陸上部部長をお招きしました! さあ部長さん、注目のクラスはどこですかねぇ?』
『そうですねぇ、1組は陸上部員が3人いますから、結構早いと思いますよ』
『なるほどぉ。さあ、最初のコーナーを抜き出たのは3組! 続いて2組、1組と続きます! ……部長さん、やはり勝負の目はコーナーにあるんでしょうか?』
『そうですねぇ、直線というのは単純に足の速さが勝負を決めますからね。コーナーで差を――』
『おおっとぉ!? 直線で2組が3組を抜きましたぁ! そして最後のコーナーに向かっていくぅ!!』
グラウンドに鳴り響く実況と解説が、経過を事細かに説明してくれている。
部長、なんかないがしろにされてない? 実況の人も熱くなっちゃってるだけなんだろうけど……。
そんな実況の中、隆平達第二走者が位置につく。
それから順位は変わらず、1組には3位でバトンが渡った。
隆平が走り出したのを確認して、私は結奈の肩をたたく。
「落ち着いて走れば大丈夫。結奈より速い奴なんていないから」
「うん……! 絶対1位で繋いで見せる!」
結奈は決意に満ちた瞳でスタート位置に向かう。
『さあ、ここで選手は男子にチェンジしましたぁ! ……部長さん、男子の中での最有力候補は誰かいますか?』
『う~ん、1組の塚田は陸上部ですが、彼の種目は長距離なのであまり期待はできないでしょう。それよりも4組の田中選手はサッカー部の中でも俊足だと聞いていますから、彼でしょうね』
『なるほどぉ。さて最初のコーナーを抜けて現在1位は2組! 続いて4組、3組と続きます! ……確かに4組の田中選手の追い上げはすごいですねぇ』
『はい、彼はサッカー部部長からも高い評価を得ている選手ですからね。このリレーにも期待が高ま――』
『おっとここで1組が3組を抜いたぁ! 最後のコーナーを抜けてぇ、現在順位は2組を先頭に――、いやたった今4組が首位に躍り出たぁ!!』
やがて向こうから必死の形相で走ってくる隆平を、結奈が真剣な表情で待ち受ける。
そうしてスムーズにバトンが渡され、現在1組は変わらず3位。
『さすがに1組は上手いバトンパスですねぇ。一切スピードが落ちていないどころか、相沢のあれはトップスピード手前ですよ。後で褒めてやりたいくらいです』
『バトンパスというのはそれほど重要なんでしょうか?』
『バトンがスムーズに渡れば、それだけ次の走者のスピードを殺さなくて済みますからね。そこで減速するかしないかの違いは大きいです』
息を切らした隆平が戻ってくる。
その表情は苦悶にゆがみながらも、申し訳なさそうだった。
「ごめん、俺じゃあ順位のキープが精いっぱいだった」
「そんなことないさ。4組の田中相手によく頑張ったよ! あとは任せてゆっくりしてくれ!」
真っ先に広瀬君がそう励まし、隆平はほっとしたように笑みを浮かべた。
「ああ、後は任せた」
その言葉は広瀬君だけじゃなく、私と陽介にも向けられてるように感じた。
そうして結奈は圧倒的な力の差を見せつけ、1位で広瀬君にバトンを渡した。
2位に1秒近い差をつけている。さすがは結奈だ。
「おつかれ結奈! 最高の走りだった!」
「うん、ありがと夏希。私はやることをやった。だから後は夏希に託したよ!」
爽やかな結奈の笑みに、私は確かに託されたと頷いて見せる。
『おっとぉ? 突然声援が大きくなりましたがこれは……?』
グラウンドを覆い尽くさんばかりの黄色い声援に、思わず声の元を見ると、いろとりどりのうちわを掲げた女子たちだった。
広瀬君のファンの子たちか……。彼女たちは広瀬君が他の男子たちをごぼう抜きにするのを楽しみにしてたと思ってたけど、どうやら広瀬君が走っている姿を見れればなんでもいいみたい。
そんなファンの子たちに囲まれて、驚き戸惑っているユッキーが目に入った。
そんなユッキーは私と目が合うと、困ったように笑って、それから何かを言った。
「がん、ばって……? そんなの、当たり前じゃない」
結奈が作って広瀬君が繋いだこの1位を、私で落とすわけにはいかない。
それに、ちゃんと陽介にバトンを繋いでみせるんだから、頑張るのは当然なのよ。
……って、そうじゃない。どうして私はそんな風にしかユッキーの言葉を受け止められないのよ!
ダメダメ、こんな気持ちじゃ全力で走れない。陽介にちゃんとバトンを繋げない。
「夏希なら余裕だよ。頑張ってな」
「夏希ファイト!」
「夏希頑張ってー!」
「……うん、じゃあ行ってくる……!」
隆平と結奈、ヒナの声援を受けて、私はスタート地点に移動する。
陽介は微かに私に頷きかけるだけで、何も言わなかった。
ふっ、そうね。頑張るのは当たり前。わざわざ言わないってことね。
『さあ! 1組広瀬選手ぅ、圧倒的な首位を維持して最終コーナーに差し掛かったぁ!』
『2位とは未だ1秒以上の開きがありますから、次の小山が全力で走れば、このまま1組が1位かもしれませんね』
そんな実況を聞き、私は手に握った汗を体操服の裾で拭く。
軽く飛び跳ねて、体を温めつつ緊張をほぐす。
私の走り次第で陽介の走りやすさが変わる。
あいつをここまで引っ張り上げたのはユッキーだけど、広瀬君を挑発して、陽介をアンカーに押し上げた責任は私にもある。だから私が無様な走りをするわけにはいかない。
最後の直線をまっすぐ走ってくる広瀬君を視認し、しっかりと顔が確認できる距離で走り始める。
後ろに伸ばした手に、確かに硬いバトンの感触を感じ、私はそれを確かに握りしめた。
「夏希! ぶっちぎれ!!」
陽介の声に、思わず頬を緩める。
当たり前でしょ……! 全力でぶっちぎってやるわよ!!
一歩、大地を踏みしめる度に私は風に近づく。
声援も、実況も、セミの声もどこか遠くへ行って、耳を叩く風の音と私の呼吸の音しか聞こえなくなる。
最初のコーナーを曲がって、横目で陽介がスタート位置についたのを確認する。
『さあ! 1組小山選手圧倒的な速さです! 他のクラスを置き去りにしていくぅ!』
『小山は陸上部でも速い選手ですからね。当然の結果です』
『これは部長さんが言った通り、1組の一人勝ちになりそうですねぇ』
『いや、まだアンカーが残ってますし、アンカーは各クラス最も早い選手が集ってますから。それに、アンカーはトラックを1周半しますからね、まだわからないですよ』
息を吐くたびに口が渇く。
汗が垂れて、一瞬で後ろへ流れていく。
何も考えずに、ただ前へ。
0.1秒でも早く陽介へバトンを繋ぐために。
そうして最後の直線に差し掛かり、陽介の姿を視界に捉えた。
その瞬間、視界の端にチラリとユッキーの姿が見えた。
ユッキーは何かを言い、陽介が笑顔でそれに応えている。
その様子がなんだか私を無視しているように感じられて、一瞬前へ進む足が鈍る。
……そうだ。陽介は私のために走っているわけじゃないんだ。
ユッキーが言ったから、ユッキーの頼みだったから陽介は走ることにしたんだ。
次陽介が走るときは誰かのために走るとき、本気で走るときだと、そう思っていた。
だったら今陽介が私のバトンを待っているのは、誰かのために本気で走るときのはず。
じゃあ誰のために走るのか? そんなの決まっている。
ユッキーのために走るんだ。
分かってたはずの事実を改めて実感して、私は急に足が重くなるのを感じた。
でもダメ。前に進まなくちゃ。陽介にバトンを繋がなくちゃ。
だからまだ立ち止まっちゃダメ。今は何も考えちゃダメ……!
近づいてきた陽介の背中が遠ざかる。
後ろに伸ばされた掌に、バトンを伸ばす。
バトンは陽介の掌に触れて、陽介はそれを受取ろうと手を握った。
その瞬間――
バトンは宙に投げ出された。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
私は確かに陽介にバトンを渡したはずだ。それがどうして今陽介の手の中にないのか。
その理由はバトンが地面に落ちて、陽介がそれに気が付いて立ち止まったところで出た。
私が手を滑らせたんだ。陽介がバトンを握るその瞬間に。
はじき出してしまった。陽介の手の中から。
バトンを繋げなかった……? 私のミスで…………?
『おおっとぉ!? これはどういうことだ?』
『1組がバトンパスに失敗したようですね』
逆走してバトンを取りに戻る陽介に対して、他のクラスの選手は走り出そうとしている。
私が余計なことを考えたばっかりに、陽介にバトンを渡せなかった。
集中できていなかったから……! くだらないことに気を取られていたから……!
……あぁ、終わった。
これでもう陽介に勝ち目はない。
広瀬君にあんな啖呵切っておいて、私がミスしてたら世話ないわね。
陽介にも恥かかせちゃったし、私、何してるのよ。
私は力なく座り込んで、悔しさにきつく歯を食いしばっていた。
私を追い抜き、バトンを持ったアンカーたちが走り出していく。
もう、1組は最下位だ。勝ち目は、ない。
「大丈夫だ」
その時、確かにその声を聞いた。
短くて簡潔だけど、確かに力のある声。
顔を上げると、バトンを持った陽介が走り出していく、その後ろ姿が見えた。
だからその表情がどんなものか、私にはわからなかった。
だけど、一歩踏み出すその背中は、とても大きく、逞しく見えた。
……あいつって、あんなにかっこよかったっけ。
『これはやってしまったぁ! 1組、栄光の1位から最下位まで転落ぅ!』
『うーん、これは巻き返すのが難し――』
『おっと! 1組柳澤選手、バトンを拾って再スタートだぁ!』
陽介は瞬く間に私の前から遠ざかっていき、最初のコーナーに差し掛かった。
もう他の選手は最初のコーナーを抜け、直線に出ている。
あぁ、ダメ。何も大丈夫なんかじゃない。
ここからの巻き返しは陽介には無理。中学1年以降まともに走ってない陽介じゃ、無理なのよ!
「大丈夫か夏希!? 早くこっちへ」
駆け寄ってきた隆平に気遣われながら、私は何とかトラック中央に移動する。
帰ってきた私をみんな心配してくれたけど、広瀬君の顔は見れなかった。
『おや? おやおや!? これは一体どういうことだぁ!!』
実況の叫びに、顔を上げてトラックを見る。
すると次のコーナーで、途中にいる他の選手たちに追いすがるように陽介がコーナーに入っていた。
『なんとバトンパスに失敗した1組が、現在6位である5組の後ろにつけたぁー!! 速い! 圧倒的な速さです! これは一体どういうことだぁ!?』
『あんなに早い選手がいるなんて驚きですねぇ。ぜひ陸上部に欲しい!』
ありえない速さだ。
あれから全然鍛えてこなかった陽介が、あんな速さで走れるはずがない……!
たとえ走れたとしても1周半する最終ラップじゃ持たない!
『今1組が……、抜いたー! 1組が5組を抜きました! これで1組は6位に躍り出たぁ!』
コーナーを抜けるころになって、陽介は一人抜いた。
そして直線でもう一人抜き、現在5位。
私たちの目の前を通り過ぎていく陽介の顔は真剣で、その目はまっすぐ前だけを見ていた。
陽介は一瞬で私の目の前を通り過ぎ、その瞬間にまた一人を抜き去った。
これで4位……!
「お、おいおい、あれ、ホントに陽介か……!?」
「陽介、速いな……!」
4位でコーナーに差し掛かった陽介を見て、隆平と広瀬君が驚き、声を上げる。
「ちょっと夏希! 柳澤君ってあんなに足速かったわけ!?」
結奈が私の肩をゆすり、興奮気味にそう言った。
「私だって驚いてるのよ……。あいつ、どうしてあんなに……?」
コーナーの中ほどでまた一人抜いた。これでついに3位……!
『ま、まさかまさか!? 1組まさかのごぼう抜きで現在3位にまで浮上ぅうう!! あとの直線で1位に返り咲くことができるのかぁ!?』
『ちょっとこれはっ……、わからなくなってきましたよ!』
その時、誰もが陽介を見ていた。
逆境の最下位からスタートした最終ラップ。誰もが1組はもう終わりだと確信したあの瞬間、誰も陽介に期待なんてしてなかった。
でも今は、多くの生徒が陽介を見ている。あいつに勝って欲しいと願っている。
『ぬ、抜いたぁー! これで1組2位に浮上!! 止まらない、止まりませんッ!』
コーナーを抜けてまた一人、後方へと追いやった……!
そしてゴールテープを目前にした最後の直線。この時になって皆思い出したように声を上げた。
「行けぇぇえ! 陽介ッ!」
「ラストスパートだ! 陽介!」
隆平と広瀬君も夢中で声を張り上げている。
結奈とヒナもありったけの力で叫びを上げる。
私は拳を握りしめて、大きく息を吸う。
「陽介ぇ! ぶっちぎれぇぇええッ!!」
皆が陽介を応援する中、陽介と1位の選手がゴールテープへ迫る。
そして、セミの声すらかき消す声援の中、今ゴールテープが切られた。




