48話 隣の芝は真っ青に見える
夏休みが終わって、始業式も昨日終わった。
そして迎えた土曜日。相も変わらず、私は部活にいそしんでいた。
「14.36! 悪くはないタイムじゃない?」
「うん、ありがと」
100mを走り終えて、息を整えつつタイムを計ってくれた同級生に礼を言う。
ベストにはまだ遠いけど、最近安定しているのは確かだ。彼女の言う通り、悪くはない。
「よし終わりだ! 片づけー!」
山井田先生の部活終了の掛け声に、皆今やっていることを中断して、談笑しながら片づけを始める。
私もスターティングブロックを片づけようと膝を折る。
しゃがんだ拍子に汗がこぼれる。
汗はグラウンドの地面に吸い込まれて、微かなシミを作った。
それはあっという間に乾いて、気が付いたら元の地面の色に戻っていた。
今日も暑いわね……。もう8月も終わりそうだっていうのに。
片づけが終わると、ダウンのために流しで走り、山井田先生の話を聞いて解散となった。
「夏希、お疲れ」
私が手洗い場で顔を洗ったり、喉を潤したりしていると、声と共にタオルが差し出された。
顔から垂れる雫が服に垂れないように、前かがみになりながら声の方を振り向くと、私と同じくらい汗で顔を濡らした隆平が立っていた。
「ありがと。あんたもすごい汗ね。顔洗ったら?」
「うん、そうするよ」
私が顔を拭いてる間に隆平も顔を洗い、びしょびしょに濡れた顔を自分の体操着で拭った。
タオル、持ってきてないのかな? それじゃあ結局汗を塗りたくってるようなもんじゃない。
「あ、あの! 夏希先輩!」
今度からタオルを持ってくるように注意しようとしたとき、後ろから声をかけられた。
振り向くと、陸部の1年女子だった。何かと私によく懐いてくるいつも一緒の3人組だ。
今は暑さのせいか顔が赤い。熱中症とかになると大変だ。
「顔赤いわよ? 熱あるんじゃないの?」
そっと一人の髪をかき分け、額に手を当てると微かに熱かった。
「ちょっと、ホントに熱いわよ!? 大丈夫?」
「あ、あぁ……! もう、ダメ……」
「だ、大丈夫です! それより夏希先輩にこれをと思って!」
私が熱を測った子は言葉を失い、代わりに隣にいた子が彼女の持っていたタッパーを奪い取った。
「ちょ、苗!? ふらついてるけどホントに大丈夫なの!?」
私が熱を測った子は隣にいたもう一人の子に支えられてようやく立っている様子。
本当に大丈夫なのか心配だ。
「これはのぼせてるだけなので問題ないです! それよりこれ、苗が作ってきたんです! よかったら夏希先輩にって」
「これは……、はちみつレモン? これもらっちゃっていいの?」
「はい!」
差し出されたタッパーの中身は、はちみつにつけられた輪切りのレモンだった。
疲れた体にこれは魅惑的だ。思わず1つ手に取って口に放り込む。
「……む、これ美味しいわね。隆平もどう?」
「いや、俺はいいよ。それは夏希にってことなんだろうし」
美味しかったので隆平にも勧めたのだが、隆平は困ったように笑って断った。
まぁ、私にって言ってきたんだし、勝手に隆平に勧めちゃダメか。
「あっそ。……うん、やっぱりおいしいわね。はい、ありがと」
もう一つ口に放り込んで、後輩の女子にタッパーを返す。
彼女は何が嬉しいのか満面の笑みでそれを受け取った。
「あ、ありがとうございました!!」
そう言ってきゃーきゃー言いながら走り去っていく。
私、何でお礼を言われたんだろう……?
「さすが夏希だね~」
「どういう意味よ、それ」
隆平は揶揄うようにそう言った。
一体何がさすがなのよ……?
「あ、あの! 夏希先輩!」
今度は何だと振り返ると、陸部1年の男子だった。
少し離れたところには彼と同級生の後輩男子が集まってこちらの様子を伺っている。
「どうしたの? 何か相談?」
「い、いや! その……、お疲れさまでしたぁ!」
彼はそれだけ言うと、そそくさと踵を返して行ってしまった。
見れば彼の友達はよくやっただ何だと囃し立てている。何しに来たんだろう?
「夏希モテモテだねぇ」
「そんなんじゃないってば」
そうは言いつつも、2年になってからは後輩に慕われることが多くなったのは事実だ。
特に女子からはよく声をかけられるし、こうして何かをもらうことも多い。
1年生の面倒は私たち2年生がすることになってるから、その関係だとは思うけど、どうして私だけ……?
隣に隆平もいるのに、こいつには声すらかからなかったし。それはそれでちょっとかわいそうだけど。
「まぁ、夏希的にはどれだけモテようとも、あいつが振り向いてくれないんじゃ意味ないかぁ」
「は、はぁ!? 何の話よ! 今陽介は関係ないでしょ!?」
「あれぇ? 俺、陽介なんて言ったっけ?」
急に隆平が変なことを言うものだから、思わずムキになって反論したのがよくなかった。
勢いでいらないことまで口走ってしまった。
そんな私の様子を見て、にやにや笑っている隆平は、こうなることが分かっていたようだった。
「……嵌めたわね?」
「何の話?」
「こんのぉ……。おりゃっ!」
恥ずかしさをごまかすために、隆平の背中を勢いよく叩く。
パシンッ! といい音がして、隆平は身をよじる。
「いってぇ! 何するんだよ夏希ぃ!」
「そんなことやってると嫌われるわよ!」
「ごめんってぇ!」
部室に向けて歩き出す私に、隆平は慌てて追いついて、隣に並んだ。
「そういえば陽介と転入してきた池ヶ谷さん、あれって付き合ってるのかなぁ?」
「さあね。本人たちは友達だって言ってたけど」
……こいつ、私が陽介とユッキーの関係を気にしてるのわかってて話題振ったんじゃないでしょうね?
だとしたら危なかった。また過剰に反応して墓穴を掘るところだったもの。
「友達って、一緒に帰ってたじゃん。なんかはたから見るとほぼ恋人にしか見えないよ」
「あれは家が近いからでしょ? 私だって部活がない日は一緒に帰ると思うし」
まだユッキーとは数回しか会ってないけど、あの子はいい子だ。
恐ろしいほどに純粋だし、守ってあげたくなる魅力がある。
素直で、でも遠慮がちで。一見して内気そうに見えるけど、そうでもなかったり。でも知ってるのはそれくらい。
なんだか気が合って、すぐに仲良くなれたけど、私って実はユッキーのことあまり知らないのよね。
ユッキーは、ほんとは陽介のことをどう思ってるんだろう……?
「そう言われてみるとそっか……。夏希もたまに陽介と二人で帰ってたもんね」
「そうね」
「夏希は朝部ない日とか一緒に登校してるんだ?」
「そうね」
「今日は休日だよな」
「そうね」
「もしかして陽介と池ヶ谷さん、デートしてたりして」
「そう――、ってはぁ!?」
ぼんやりと、ユッキーと陽介について考えていたから、隆平の話は頭に入ってこなかったんだけど、デートという単語は一瞬で私の思考に割り込んできた。
だって、陽介とユッキーがデートなんて言うから!
でも、あの二人がデート!? そんなことあるわけ! ない……、訳でもないかもしれない!
「うわぁ、まじかぁ……。もしそうだとしたらちょっと、いやかなりショックかも……」
「あぁ、ごめん! 冗談だって! さすがに俺も揶揄うのが過ぎた! きっとまだ陽介はフリーだよ! あいつ彼女なんてできたら真っ先に俺に自慢しに来るだろうしっ!」
「……ホントでしょうね?」
私が隆平を見上げると、隆平はなぜか少し恥ずかしそうに顔をそらす。
「大丈夫! それだけは保証できる! ……デートしてないかまでは保証できないけど」
「それじゃあ意味ないでしょうが!」
「でも、夏希だって陽介と二人で出かけたりすることあるだろ?」
「まぁ……」
確かに、友達同士で一緒に出掛けることをデートと言うのなら、私と陽介もデートしてるわよね、何度も。
……考えすぎだったかな? うん、そんな気がしてきた。
「……お礼は言わないから」
「わかってるよ」
降参とばかりに両手を上げる隆平は、本当にわかっているのか怪しいものだ。
「そんなことより休み明けのテスト、あんた大丈夫なの?」
「大丈夫だよ~。陽介がどうかは知らないけどね」
そんなことを話していると、あっという間に部室についた。
「じゃあ、お疲れ」
「うん、お疲れ」
そう簡単なあいさつを済ませ、私は部室に入る。
そこで一通り制汗剤を振りまいて、同じクラスの女子と話したりしながら汗が引くまで待ち、頃合いを見て帰ることにした。
……でもほんとに、陽介とユッキーはただの友達なのかな? 私がそうあってほしいって願ってるだけじゃなくて。
ずれてきたエナメルバッグを背負いなおしながら、ふとそんなことを考えた。
隆平があんなこと言うからよ……。なるべく気にしないようにしてきたのに。
陽介は夏休みに入ってから変わった。
今までずっと陽介のことを見てきた私が言うんだもの。絶対にあいつは変わった。
前みたいに私をがさつだとか、男勝りだとか言わなくなったし、なんか女の子扱いされているような気がする。
友達っていう関係の中でも、適切な距離感を保とうとしているのが分かる。そんな気遣いを感じる。
そうやって私を女の子として意識してくれるのは嬉しい。それは私が今まで願ってきたことだもの。
でも、そんな風に陽介を変えたのがユッキーだとしたら? 彼女の存在が陽介に変化をもたらしたのだとしたら?
そう思うと、なんだか悔しくて仕方がなかった。
私が何年も一緒にいて成しえなかったことを、ユッキーはたったの1ヵ月で成し遂げたってことだから。
あの子は純粋で本当にいい子。私にないものをたくさん持ってる。
その中のどれかが、陽介にとっていい影響をもたらしたとしたら、陽介にとってユッキーは特別な存在になっているはず。
そのことが、無性に悔しかった。
「あれ、夏希? 部活終わりか?」
その声が聞こえた時、思わず肩が跳ねた。
弾かれたように顔を上げると、驚いた表情で立っている陽介がいた。
なんでこんなところに? その疑問を置き去りにして、私は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
こんなところで会えるなんてちょっと運命的だなんて思って。でも汗臭かったらどうしようとか考えたりして。
でもそんな浮ついた考えは、隣にいる人の姿が目に入った瞬間、霧散した。
「……ユッキー?」
少し残念そうな表情を浮かべていたその顔は、私を見つけると喜色に染まる。
「あっ! なっちゃんだ! 偶然だね!」
なんでユッキーが陽介と一緒にいるのか。すぐに察しがついた。
……きっとデートしてたんだ。
「あ、あれー? あんたたちこんなところで何してんのよ? もしかしてデートとか?」
自分で言って、何を言ってるんだろうと後悔する。
これでもし、デートだって返ってきたら傷つくことは必至なのに。
「ち、違うよ!? お散歩してただけだよ!」
「そうだな。ちょっと俺の用事に付き合ってもらったから、雪芽の散歩に付き合ってやってた感じだ」
「そ、そうだね……」
ユッキーはデートって単語に異常に反応していたけど、陽介はそうでもないみたい。
どうやら二人はデートじゃなくて、何かの用事でこっちに来てたみたいね。ちょっと安心した。
デートを否定されてユッキーが残念そうなのが気がかりだけど……。
「ふーん、そうだったのね。二人はこれから帰り?」
「ああ、ちょうどいま昼飯を食い終わって帰るところだ。夏希もそうなんだろ?」
「そう。じゃあ一緒に帰りましょ」
そうして歩き出すと、ユッキーが小走りで駆け寄って来て、隣に並ぶ。
それを受けて陽介は私たちの後ろに回った。
「聞いてよなっちゃん! 陽介私よりお料理上手いんだよ!?」
「へぇ、そうなの?」
後ろを振り向くと、陽介は困ったように笑った。
「大したことはないんだけどな? さっき俺の弁当を食ってから雪芽がうるさくて……」
「弁当?」
「そう! 陽介ったらお金ないからってお昼のお弁当作って来てたの。ちょっと味濃かったけど、それでも私より全然上手くて……。なっちゃんはどう? お料理できる?」
お弁当って、それほとんどデートじゃない!? そこまでは私もやったことないわよ?
昔小学校の時に家族ぐるみでピクニックに行ったことはあったけど、それくらいよ!
そこまでやってデートじゃないって、さすがは陽介ね……。
「わ、私はそこそこよ」
「何言ってんだ、結構できるって言ってたじゃん。今度食べさせてやるって聞いてから随分経ってる気がするけど」
「へー! そうなんだ!」
「違うわよ! それって中学の時の話でしょ? 今はそこそこよ、そこそこ!」
料理なんて実はほとんどしてないのよね……。
高校に入ったくらいから少しづつ練習して、今はホントに簡単なものなら作れるようになったけど。
……ユッキーはできないって言ってるけど、ほんとはできるってオチじゃないでしょうね? 陽介よりはできないって口ぶりだけど、陽介がずば抜けて上手ければ私よりうまいってことになるじゃない?
「でもいいなぁ……」
私がそんなことで悶々としていると、ユッキーは感慨深そうに呟いた。
「二人は小学校から一緒なんだよね? そんな風にずっと仲良しなのは羨ましいなぁ」
「そんなことないぞ? 小学校の時は親が仲良かったから家族ぐるみで遊びに行くことはあっても、学校じゃそんなに仲良しじゃなかったし。仲良くなったのは中学の時からだよな? 確か」
確か、なんて曖昧な風にしか覚えてないのね、こいつは。
あれだけのことがあっても、陽介にとっては些細なことだったってわけか。
仲良くなり始めたきっかけはそうだったかもしれないけど、こうして深い関係になったのはあの事があってからなのに……。
「そうね。中学の時に陸部で一緒だったの。それから少しづつ仲良くなってって感じね」
「そうそう。まぁ、俺は1年で陸上辞めたんだけどな」
なんてことない顔で陽介はそう言う。
もうあの事は陽介にとっては過去ってこと? 陽介にとってはそうでも、私はまだ過去だなんて割り切れないわよ……。
「どうして辞めちゃったの?」
「まぁ、部活やるのがめんどくさくなっちまってな。高校でも文化系のゆるーいところならいけると思ったんだけど、結局家でゲームやってる方が楽しいってことになって、今はこうして帰宅部」
そう。結局陽介は陸上には戻ってこなかった。
才能はあったのに、勿体ないと思うけど、それが陽介の決めたことなら仕方ないと、今は思う。
「そういえばユッキーは部活、入るの?」
一人だけ暗い雰囲気になってても仕方ないと、私は話題を部活に切り替えた。
ユッキーもしばらくもしないうちにクラスの連中から部活勧誘が始まるだろうし、今の内に決めておいた方がいいと思う。
「うーん、私運動はできないしなぁ。運動部以外かも」
「そっか、体弱いって言ってたもんね。残念! 陸部に誘おうと思ってたのに」
「ごめんね、なっちゃん。でも、特にこれといってやりたい部活動もないかなぁ」
ユッキーはチラリと陽介の顔を見て、そう言った。
それは陽介が帰宅部だからどこにも入る気はない、ってこと?
陽介と一緒にいる時間を増やしたいとか、そういうこと、なのかな?
……邪推のしすぎか。らしくないわよ、私。
「そう! で、話を戻すけど、陽介の料理の腕が私より上だから、私が自信ついてきたときに料理勝負を挑むって約束したの!」
「なにそれ? 面白そうじゃない。私も混ぜなさいよ」
「えぇ? まぁいいけど、俺なんてすぐに追い越せると思うぞ?」
そんな風に談笑しながら3人歩いて帰る。
その間中ユッキーはずっと楽しそうで。
陽介は一歩後ろから、私たちを眺めて微笑みを湛えていた。
いつも無気力で、ボーっとしていた陽介がこんな風に暖かい笑みを浮かべる様になった。
それはきっと夏休みが始まってから何かあったから。それがユッキーとの出会いなのか、そうじゃないのか、今の私にはわからない。
ただ一つ、わかるのは。
陽介にそんな表情をさせているのは、私じゃないってこと。それだけは確かだった。




