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第39話「フィンランド・ユヴァスキュラ(10)」

 向こう側?


 言い表しがたい不穏で不吉な予感がして、何度かつばを飲み込んでから、俺はそう聞き直した。


「穴、だ」ひと呼吸置いて、老人は言った。


「人間の世界はつまらない、起こるすべてが予想の範囲内のことでしかない、人類は知恵をつけ経験から学ぶことでどんどん矮小で醜い存在へと堕落している、飢餓や戦争や恐慌、それに教科書にも載らない種々の争いを経て、世界は管理と支配が強まる一方だ、

 国家、社会、地域、それらはすべて人が作りだした幻想にすぎない、わかるかね、どこかに所属して身の安全と自尊心の充足を確保したいと願う弱き人間がすがるために生み出された、まぼろしの共同体なのだよ、

 ありもしないそんな幻想を拠りどころにせざるを得ない人間たちの持つ欲望や暴力など、悲しいほど小さくみじめなものでしかない」


 そこまで言って言葉を切る。こちらにまっすぐ背を向けて座っていた老人がイスごと体を動かし、わずかにだが横顔が映った。男性にしては長く伸びた白髪が目元を隠してはいるが、高く通った鼻と、シャープなあごが、彼の品のよさと残忍さを象徴している気がした。


 老人は焦がれる何かに思いを馳せるように、顔をほんの少し上に向けて、話を続けた。


「だがね、ディアーボは違う、ヤツらは違うんだ、ディアーボは文字どおり、次元がまったく異なるのだよ」


 老人は、長く息を吐き、それから深く吸い込んだ。俺にはそれが、絶望的な退屈に苛まれる者のSOSのように聞こえた。


「私は、生まれたときから勝者だった、勝利が約束されていた、思いどおりにならないことなどなかった、寡黙だが己だけの静かなる信念を持って行動する御しがたい性質の弟さえ手なずけたのだからね、

 この世界は、少なくともこの人間の世界では、私には敵などいなかった、逆境も、苦悩とも無縁だった、

 そうやって与えられる勝利を何の不思議もない当然のものとして受けとってきたわけだが、あるとき気づいた、いや、実際にはずっと昔からわかっていたのだ、ただそれを直視する機会も必要も、そして勇気もなかったということだ、

 わかるだろう、私はゼロになりたかったのだよ、何者でもない虫ケラのような、何の力もない一兵卒として自分の運命と対峙してみたかったのだ、弟はまさにそんな人生を選ぼうとした、あれは小さい頃から頑固で融通が効かない男だったが、自らの足で進路を選びとる勇気を持っていた、私は違った、そのことに心奥では気づいていながら認めることができずにいた、私は何にも縛られず生きようと行動できる弟が、ただただ羨ましかったのだ、

 そして考えた、まったく歯の立たない、圧倒的な絶望を味わってみたい、そう思った、それは私が切実に抱いた初めての願いだったわけだ、そんな世界がもしあれば、の話ではあるがね、

 だがそれはあった、ディアーボだ、連中の行使する暴力は、我々の常識を軽々と超越した、ディアーボの存在に、私は熱狂したよ、やがて数少ない出没事例を収集し調べていくうちに、連中のやってきた世界の輪郭がぼんやりと浮かび始めた、

 人間をゴミのように殺戮しては去っていく悪魔どもの蠢く世界、不可知で神秘的な、怪物たちの楽園だよ、そんな世界が、どうやら穴の向こうにあるらしい、

 そうとわかったら、これは行くしかない、そう思わないかね」


 饒舌に喋る老人の話に、圧倒された。


 だが狂っている、とは思わなかった。ケンジとアイリをさらい非人道的な扱いをした許しがたい人物のはずなのに、信じられないことに、俺の中の何かが、彼の語るディアーボの世界に強烈に惹かれつつあった。

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