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第32話「フィンランド・ユヴァスキュラ(3)」

 ケンジが転校してきたのは、小学四年の春のことだ。東北の実家に複雑な事情があって、東京の、親戚の家に引き取られたのだと、仲良くなってから聞かされた。


 ケンジはケンカばかりしていた。同級生にサトヤという背が高く体の大きい典型的なガキ大将がいて、そいつからいつもからかわれていた。サトヤには取り巻きが多勢いた。ケンジは連中に悪口を言われるたび、こぶしを握り向かっていった。


 ケンカは強かったが、10人を超える数の暴力には勝てず、いつも最後はボロボロにのされていた。それでもケンジは、絶対に、まいった、とか、許してくれ、などとは言わなかった。そんなケンジに、俺はひそかに憧れていた。


 ある日、それまで傍観していた俺が、ケンカを止めに入った。それはケンカというよりリンチだった。5月の、連休が明けたころだったと思う。放課後、薄暗い校庭の隅で、取り巻きがぐるりと囲んで作った人垣のリングで、ケンジは、ボロ切れのようになってサトヤから殴られ続けていた。


 どうしてケンジを助けようとしたのか、今でも、わからない。下手に関われば次から俺も標的にされることは明らかだった。校舎の角の壁に隠れて事態を覗き見ながら、何度も、このまま何も見なかったことにして帰ろう、そう考えた。空手を始める、ずっと前の話だ。


 けど結局、やめろ、と俺は連中に向かって叫んだ。きっかけは些細なことだったに違いない。前の晩に正義のヒーローが悪を打ち負かすハリウッド映画をテレビで観たとか、朝に読んだマンガの主人公に感化されたとか、本当に、その程度のことだったと思う。


 サトヤは、足を震わせて制止に入った俺をはじめ笑っていたが、俺がよほどの形相をしていたのか、ふいに怯み顔をして、それから、何か悪態をつきながら、取り巻きを連れて帰っていった。


 ケンジは血と泥にまみれたボロボロの顔で、目を大きくして俺を見ていた。立っているのがやっとで、倒れそうになったので思わず支えてやると、照れくさそうに鼻をかいて、ありがとな、と、うつむきながら笑った。


 この日から、俺たちは友達になった。


 半年近く経ったころ、ひとりの女の子が新たに転校してきた。アイリだった。背筋をぴんと伸ばし、長い黒髪を後ろで結んで、意志の強そうな大きな二重の目で教壇からクラスを見渡していた。


 担任に促され自己紹介をするアイリに、俺は見入った。はっとして、通路を挟んだ隣の席のケンジのほうを向くと、ヤツも、俺を見ていた。俺たちは互いがアイリに抱いた感情に、そのとき気づいた。


 その日、給食のあと、屋上でいつものように二人で寝そべって空を見た。あのさ、あの子、かわいかったな、などと俺は言わなかった。誰かがクラスに転入してくれば、その日の話題はそいつのことで持ちきりになるはずだった。でも、俺も、ケンジも、アイリのことは話題に出さなかった。たったひと目で、アイリに対する、まっすぐで、真摯で、神聖な思いが生まれてしまっていた。ケンジもそうだったに違いない。


 俺たちは黙ったまま、白い雲がゆったりと流れていく秋の青空を眺めた。居心地の悪い沈黙ではなかった。まだアイリとひと言も口を聞いていないのに、俺にはなぜか、アイリとケンジ、この二人とこれからずっと一緒に過ごしていくイメージが浮かんでいた。


 どれほど時間が経っただろう、そろそろ戻ろうか、そう言って横を見ると、ケンジは目を閉じていた。柔らかい日差しと心地よい風にさらされて眠くなったのか、小さく口を開け、穏やかな表情をして寝息を立てていた。あのときから今まで、俺たちは、互いのアイリへの思いを口にしたことはない。


 ふと、我に返った。


 画面の向こうの老人は、まだ喋り続けている。声が途切れとぎれに聞こえる。だが俺にはそれが、意味を持つ単語の連なりとして耳に入ってこない。


 老人が最後に何か言い、画面が暗くなって、背後の光源が消えた。


 ダイニングルームのドアがゆっくりと開けられ、無表情をその顔に貼りつけた大柄な運転手が現れた。外へ出るよう俺たちを促す。一度俺のほうを向き、目をそらしてから、ゼンが、そっと席を立った。低く落ちついた声で、急がなくていい、とだけ言って、先に部屋を出ていこうとした。俺がショックを受け落ち込んでいると思ったらしい。けど俺には、自分がショックを受けている感覚はなかった。


 俺がすぐに立ち上がると、ゼンは驚いたのか、わずかに目を大きくした。だが、無理するな、などと意味のない言葉はかけてこなかった。ゼンは小さく頷いただけだった。


 そこから先はよく覚えてない。先導する運転手に続くゼンの背中だけをぼんやり眺めながら、歩くというより、足を止める判断をすることさえ億劫で、ただ彼のあとをとぼとぼとついていった。


 屋敷から出て、建物に沿って延々と庭を歩き、無機質な壁に囲まれた、工場のような建造物の中に入ったのはわかった。ケンジたちに会いに向かっているのだろうな、バケモノになったあいつに言葉が通じるかな、向こうは俺のこと覚えているのかな、などという考えが、まるですべて他人事であるかのように、次々と頭に浮かんでは消えた。


 やがて、ゼンの背に自分の顔が触れ、彼が立ちどまったことに気づいた。俺に視界を譲るようにして、ゼンが、一歩脇によける。そこは廊下の突きあたりで、くすんだ灰色の壁の中央に、ちょうど大きめのスマートフォンを横にしたような小窓があった。運転手が視線でそれを俺に示す。ゼンは、彼に似つかわしくない神妙な顔をして俺を見つめている。歩み出て、その小窓から中を覗き込んだ。


 俺の目に、懐かしい姿が映った。


 マナウスの男性と同じ造りの部屋、そのベッドの上で、ケンジは、あのとき、学校の屋上で昼寝していたときと変わらない寝顔を浮かべて横たわっていた。あれから七年近い時間が経過しているはずなのに、その寝顔があまりに変わらないことに驚きを覚えた。だが心は不可解なほど落ちついて、穏やかな気分だった。


 奇妙なことに、再会の喜びや、ケンジの身に起こったことへの怒り、そして恐怖はまったくなかった。それは本当に、奇妙というほかなかった。


 俺は一体ここで何をしているんだろうな、ぼんやりそういうことを思ったのと同時に、足元に滴る何かを感じて、俺は視線を下に向けた。涙だ、と理解した瞬間、一度だけ激しい頭痛が走り、それから、全身が小刻みに震えていることに気づいた。いま震えだしたのではなく、小窓を覗き込んだときから、いや、屋敷のダイニングルームを出たときから、すでに震えていたのだろうと思った。


 自分は落ちついてなどいなかったのだと、わかった。恐れ、怒り、不安、あきらめ……あらゆる負の感情がどうしようもないほど湧きあがり、無意識に、それを押さえ込んでいただけだった。

 その感情が、ディアーボとの遭遇から始まったこれまでのすべてがタチの悪い夢にしか思えないケンジの穏やかな寝顔をきっかけに、ごちゃ混ぜになって溢れ出た。


 脳が、その複雑な感情をうまく処理できなかったに違いない。混沌を極める感情の渦の中から、どういうわけか、安らぎの感覚が立ち上がってきた。


 バケモノでも何でもいい、ケンジが、生きて、俺のすぐ目の前にいる。


 その事実に応じる感情として、俺は、俺の脳は、恐れでも絶望でも怒りでもなく、安らぎを、選択したらしかった。


 脇からじっと俺を見ていた運転手が、ゆっくりとドアの前に移動し、頑丈で厳重な何重ものロックを解除しはじめた。


 濃い灰色に塗られたドアが、徐々に開いていく。それはドアというより、物々しい鋼材のかたまりだった。どれほどの厚みがあるかわからない。


 そのドアが、完全に、開ききった。


 運転手が振り返り、表情をいっさい変えずに、俺に向かい手招きする。


 俺は頷き、ケンジの待つ部屋へ一歩踏み出す。そのときわずかに聞こえるほどの小さな声で、ゼンが呟くのが聞こえた。


 アンガー・イズ・ア・ギフト。


 いま俺に対しそう語りかけるゼンの意図がわからない。だが俺の意識はゼンではなくケンジに向かっている。深く考えずに俺はこくりと首を振り、つま先に力を込めて、運転手が立つ重々しい灰色のドアへと近づいていった。

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