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第18話「現在地・不明(2)」

 ヤツのそんな表情を、初めて見た。


 ゼンは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


 それは悲しみや恐れの表情ではなかった。待ちわびて待ちわびて、待ちくたびれたほどのプレゼントに、まったくふいに遭遇してしまった子供のようだった。あまりの嬉しさに、どう反応していいかわからないに違いない。


 だがそんなゼンを目の当たりにしても、俺は当惑しなかった。


 そんな暇さえなかったからだ。


 まじりっけのない邪悪をそのまま形にようなあの巨大なバケモノは、4本の脚を虫のように動かしながら、凄まじい速さでこちらへ向かってくる。やはり腐敗しているのか、頭部から肉の塊のようなものが飛び散っている。


 砂漠に風は吹いてない。にもかかわらず悪臭がここまで届く。たった一滴で広大な湖を汚染し尽くす恐るべき毒物でも投与されたような衝撃が全身を貫く。


 おい、逃げるぞ――俺はゼンに向かいそう呟いた。


 だが聞こえないのか、ゼンは同じ表情のままこぶしを握りしめ、ぶるぶると震えている。あまりの喜びに、ゼン自身戸惑っているのかもしれない。その歓喜の感情が爆発すれば、ヤツは、間違いなくあの怪物に飛びかかる。


 そんなことになれば命はない。俺にはわかる。サヴァイバーも覚醒者も関係ない。俺たちに迫るあの怪物は正真正銘のバケモノだ。ゼンでも絶対に歯が立たない。


 俺はヤツの耳元に顔を寄せ、思いきり叫んだ。


 バカ野郎、早く逃げるぞ!


 ゼンは目が覚めたようにビクンと体を揺らし俺を見た。

 だがその場から動こうとしない。


 腐肉を撒き散らす怪物の悪臭が、一刻ごとに激烈さを増す。あと10秒と経たずに、ヤツはここまでたどり着く。


 俺は思いきり息を吸い込み、吐き出す。

 

 怪物に背を向け、後方へ振り向きざまゼンの右腕をとった。ヤツの腕に自分の右腕を絡ませ、地面を踏み抜くつもりで全力で蹴る。


 そのひと足で驚くべき加速がつき、背後で爆発が起こったような砂ぼこりが舞い上がるのが振り向かなくともわかる。


 俺はゼンを連れて、隠れる場所もない広大な砂漠を駆けた。頭の中は逃げることだけでいっぱいのはずだった。


 だがふと、山梨の病院を思い出した。


 長く続く病院の廊下を、ゼンに腕をとられ飛ぶように走った記憶。立場が逆転した。そして今回は追跡ではない。俺たちは追われる側、狩られる獲物だ。


 追いつかれれば、死は免れない。


 俺は駆ける。ただひたすら、走る。できることはそれしかない。


 けどどうしても耐えられず、怪物を振り向いた。わずかにこちらが速いのか、ヤツとの距離は開いている。いつの間にか呆然とした表情になったゼンは、俺の腕を振りほどこうともせず、少しずつ遠ざかるあの怪物を見つめてる。


 ふいに、何かの気配を感じた。


 走りながらもう一度振り向く。気配の正体は確認できない。けどあのバケモノとは別の何かだ……その直感が、俺の足を止めた。


 後方を向き、迫る怪物への恐怖を飲み込んで目を凝らした。


 小さな点、だと思った。

 そうではなかった。


 高層ビルのようなでかさの怪物、その股を抜けるようにしてこちらに向かう、別の何かが見えた。怪物に比べると圧倒的に小さい。距離のため正確にはわからないが俺たちと大差ないサイズのようだ。


 だがスピードが尋常ではない。猛然と俺たちを追う巨大な怪物の比ではなかった。立ちどまり見ているほんの一瞬で距離を縮められてしまった。


 ぞっとした。俺たちに似たサイズだなんてとんでもない。近づくにつれ、新たな追跡者の大きさと姿形が鮮明になり、俺は悲鳴をあげそうになった。


 グロテスクとしか言いようがなかった。直視するのもためらわれるほどの腐乱。馬のような肢体だけが確認できるが、その上の原型はまったくわからない。凄まじい速度で大地を蹴るあの脚だけでも、俺やゼンの背丈の倍はある。背後には、あの巨大なバケモノまで迫る。


 俺はヤツらに背を向けて、再び全力で駆け出した。力のかぎり、走った。ゼンを引っ張っていることも忘れかけていた。


 それでもあの腐乱した追跡者が確実に距離を詰めて迫るのが、はっきりとわかった。


 逃げ切れない……諦めが急速に俺を支配し始めたそのとき、すまない、ゼンがそう呟いた。切迫した俺の耳に、その声は奇妙によく通った。

 足を止めずゼンを見る。


 俺はまたヤツの新しい表情を知った。ゼンは媚びるような目で俺を見つめていた。


 もう我慢できない、だめだ、やらせてくれ


 絞り出すような声で、そう、懇願した。


 こちらの返答を待たず、ゼンは左手で俺の腕を掴んで引きはがした。反動で俺だけが前方に加速し、その場にとどまったヤツと10数メートル距離ができた。


 ゼンは俺を振り返りもせず、すぐそこまで迫った異形の追跡者に飛びかかろうとした。


 おいやめろ、そう叫びかけて俺は気づいた。


 見覚えのある姿だった。


 俺たちとバケモノらを隔てるようにして、それは立っていた。


 100名以上を惨殺した黒いディアーボをまるで相手にせず、樹海の洞窟の奈落へ平然と落ちていった怪物。


 まるで鬼神のような、あの鎧姿の怪物が、そこにいた。


 鎧の怪物は、猛然と迫り来るバケモノどもを前に、微動だにせず仁王立ちしている。忽然と現れたその姿に、ゼンも驚きを隠せない。追跡者を迎え撃とうと腰を落とした体勢のまま、その場で固まっている。


 ふいに鎧の怪物が、ディアーボをわしづかみにしたあの異常な太さの右腕を、月も雲もない闇空へまっすぐに突き上げた。


 そしてゆっくりとこちらを振り向き、鉄仮面のようなカブトに覆われた横顔を、わずかに覗かせた。


 ここは自分が食い止める

 お前たちは、逃げろ


 ヤツがそう言っているのだと、妙なことだが俺には直感でわかった。声が聞こえたわけではない。だがそう確信した。


 それでも、驚きと困惑で、俺は動くことができない。


 次の瞬間――恐るべき速度で迫る異形の追跡者が、片腕を高く掲げて立つ鎧の怪物へ、一斉に鉄の爪を立てられた千枚のガラスに似た耐えがたい雄叫びをあげて襲いかかった。

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