顔馴染み
僕のバイト先には、“黒木さん”という先輩がいる。
この人が――かなりの強者だ。
何がすごいのかというと、常に冷静。……その“冷静”度合いが、半端ではないのだ。
――この前なんて、僕たちの働くコンビニが強盗に襲われた。ニット帽に大きなサングラス、マスクをした男は、僕の横、黒木さんの立つレジに突然やってきて包丁を突きつけ、こう言った。
「金を出せ!」
……オーソドックスなセリフではあるが、短くてわかりやすい。
それに対し、黒木さんはなんと言ったのかというと、
「少々お待ちくださいませ」
普段接客するようなトーンでそう言って、素直にレジの中の金を外に出しはじめた。
隣にいる僕はダラダラと汗を流しながらそれを見ていたというのに、黒木さんはそんな時も冷静沈着――テキパキと動いた。強盗の方も何も言わず、それをただ黙って見ているしかなかった。
「お、お前もだっ!」
思い出したように僕に向かって言うと、僕は、
「はっ、はいっ!」
……今思い出すと恥ずかしいくらいに狼狽え、黒木さんに習って金をレジから出した。
「ありがとうございました」
全てを終えると、そう言って黒木さんは頭を下げた。強盗は何も言わなかったが、動揺した様子で会釈をし、普通に歩いて外に出て行った。
「……ちょっ、黒木さんっ! 良かったんですか⁉︎」
「下手に抵抗するより、ああした方がいい。それに……」
黒木さんは非常ベルのボタンを躊躇無く押し、棚の上にあった防犯用のカラーボールを一つとった。
「金はすぐに戻ってくる」
警察を呼べ、と一言放って外に出ると、まだ近くを歩いていた強盗めがけてカラーボールを――高校球児ばりに振りかぶって、投げた。
――ボールは強盗の頭にストライクし、爆ぜた。
満足そうな表情で店内に戻ると、「金庫から金を持ってくる。すぐに営業再開だ」そう言って、店の奥に入る。
――強盗は、黒木さんの言ったとおり、すぐに捕まった。お金も、全額戻ってきた。
*
――こんなこともあった。
ある日、バイト終わり。「夜ご飯食べ行きましょうよ」と黒木さんを誘って、外に出た。――十二月の、冷たい風の吹く日だった。
「……あぁっ!」
いつも行く駅前の定食屋が閉まっている。見れば、開かない自動ドアには「店主急用の為、本日は休ませていただきます」との文字が。そこはいつもは夜遅くまで営業していて、なにより安い。僕たちが“夜ご飯”というと、必ずそこだったのだ。
「どうしましょう」
僕がそう言うと、
「……俺の家で軽く飲むか」
黒木さんは、そう言った。
僕は内心、はしゃぎたいくらいの気持ちだった。いつも冷静で、ミステリアスな雰囲気を醸し出している黒木さん。そんな黒木さんの家に行ったという人間は、おそらく周りにはいなかった。(ついに、謎の黒木邸に行ける……!)と、わくわくしていたのだ。
「普通のアパートだ。期待はするなよ」
買い込んだ食料と酒の入ったビニール袋を二人で半分ずつ持ち、歩いて向かう途中。黒木さんが言った。
「はい」
――……そこが“普通のアパート”じゃなかったことを、その頃の僕はまだ知らない……。
そこは、確かにぱっと見普通のアパートだった。築二十年は経っているだろうか。それなりに古く、雰囲気のある建物だ。
そこの二階の一番奥の部屋に、黒木さんは住んでいるという。――僕たちは、階段を登った。
――カンッ、カンッ、カンッ、
響くような金属音が鳴る。
――廊下の様子が黒木さんの背中越しに見えた時、僕は異様なものを目にした。
一番奥の、黒木さんの住んでいるという部屋の手前――奥から二番目の部屋の前に、男が立っている。スーツ姿で、右手にはビジネスバッグ。髪は七三分けされているように横に流され、ジェルか何かで固められているかのように黒光りしている。……そんな出で立ちの男が、扉の正面に立っている。……落ち込んでいるかのように頭を垂れ、立ち尽くしていたのだ。
(何してんだろ……)
そう思いながら、黒木さんの後を歩く。……すると――。
男の首がグルリと動き、顔だけがこちらを向いた。
肌は白く、目は見開いているのだが――黒目が薄い。……眼球が真っ白に見えた。
急に全身に鳥肌が立ち、僕は震えた。――そんな僕の目の前で。
黒木さんはそれに、会釈をした。
……扉の前に立つ“それ”も、黒木さんに会釈を返す……。
黒木さんは自分の部屋の前に着くと、ポケットから鍵を取り出してガチャガチャとやり出した。
(早く、早く……!)僕はそう思いながら、扉が開くのを待つ。
ようやく扉が開くと、黒木さんは中に入った。僕もそれに従い、中に入れさせてもらう。――扉を閉める寸前、もう一度だけ男の方を見た。
顔は元の位置に戻り、ぼんやりと下を見つめていた――。
「……なんなんですか! あれぇ!」
僕が小さな声でそう言うと、黒木さんはキョトンとした表情になる。
「……お前、あれが見えたのか」
平然とした様子で言った。
「……まぁ、顔馴染みだ」
“顔馴染み”……⁉︎ 僕は混乱する。
「顔馴染みって……! アレって、アレでしょう……! ゆっ、幽霊でしょう……!」
「……まぁ、そうとも言うな」
黒木さんは、至って冷静だった。
「まぁ落ち着け。こっちから何もしなければ、たぶん何にもしてこない。……スズメバチと同じだ」
「“スズメバチ”……って……‼︎ ……でっ、でも、外でスズメバチがブンブン飛んでたら、イヤでしょう!」
……僕も気が動転して、わけのわからないことを口走っていた。
「……まぁイヤだが……。少なくとも今までここに三年住んでいて、俺の部屋に入ってきたことはない。だから、大丈夫だ」
三年……! 僕はまた違う意味で、驚かされた。三年間、毎日帰って来るたびに黒木さんはあれの横を通って家に帰っていたのか……! 流石というか、なんというか……。いよいよ僕は、絶句してしまった。
「さぁ、食うか」
そう言って、黒木さんはビニール袋からツマミを出す。
「……はい」
なんて強者なんだ……。改めて、僕はそう思った。
――ちなみに、二時間後。日にちが変わって、少し経った頃。
僕はいつまで経っても、帰れないでいた。
「あのぉー……黒木さん」
「どうした」
黒木さんは窓際で、煙草を吸っていた。
「……今日、泊まっていいですか」
「…………構わんが」
そう言って、黒木さんは外に向かって煙を吐く。
……黒木さんみたいにはなれないなぁ、と、痛感した。