コーヒーを淹れ直す
*
朝起きるのが辛い時季になった。冷え込むからだ。あたしは午前七時過ぎに起き出し、室内に暖房を入れてから、リビングを抜け、キッチンへと入る。さすがに毎日同じ調子で仕事に出かけていると倦怠する。だけど仕事をしないと、食べていけない。朝コーヒーを一杯淹れてトーストを一枚焼き、齧った後、洗顔とメイクをする。そしてカバンにノートパソコンや仕事に必要な資料や書類などを入れ、持ってから歩き出す。
毎日オフィスでパソコンのキーを叩くのが仕事だ。あたしも社の事務などを担当しているので、ずっとマシーンを使いっぱなしである。右手が腱鞘炎気味だ。でも仕方ない。職業病なのだから……。キーを叩き続けながら、しっかりと頑張る。合間に席を立ち、冷めてしまったコーヒーを淹れ直す。冷めたコーヒーは美味しくないから、フロア隅にあるコーヒーメーカーで温かいものを淹れてから飲んでいた。
*
正午を回るとお昼時なので、近くのランチ店に行き、食事を頼む。主に野菜中心のメニューを注文していた。健康的なのである。体調には十分気を遣っていた。出来るだけ体にいいものを食べ、食生活でバランスを取るようにする。何せずっと内勤で運動不足なのだし、ストレスも溜まっていた。休日になると、彼氏の崚太と会う。ずっと付き合い続けていた。出会ってから十年以上が経ち、互いに三十代である。
その日の昼もランチを食べていると、持っていたスマホにメールが入ってきた。彼からだ。急にどうしたのかなと思って開くと<お仕事お疲れ様。今度の週末来るよ。都合が付けば連絡してね。じゃあまた>とある。あたしも<分かった。また連絡するから。崚太も体調注意してね。じゃあ>と打ち、送信ボタンを押す。
そして食事を取り終わり、店出入り口で食事代を清算して、店外へと歩き出した。冷える。コートを羽織っていても凍えるのが分かった。食事休憩は午後一時までなので、時間までに帰社する。あたしも思っていた。これからは崚太との時間を大切にしていこうと。
*
もう一度も広島の実家には帰ってない。父と弟がいるのだが、父は事業に失敗して廃業し、今は年金をもらいながら暮らしているらしい。朝から大酒を飲みながら、バイト生活の弟とつるんでいるようだ。弟は高校卒業後、バイクの免許を取って近くのパチンコ店でバイトをしているらしく、もう十年以上顔を見てない。でもそれでいいのである。あたしも実家とは完全に縁を切った。二度と顔を合わせる気はないのである。
確か叔母から電話で聞いたのだが、父は肝臓ガンらしい。それもそうだろう。あれだけ大量に酒を飲み、不摂生しているのだから当然だと思う。言い方は悪いのだが、あたしも早く父には死んでもらいたかった。何の意義もないのだ。あんな人間が生きていたところで。それに先のない人間のことをいくら言っても仕方ない。のた打ち回って死ねばいいと思うのが本音だった。それだけ憎み合っているのである。
だけど完全に開き直った。もうあの人間たちに対し、言うことは何もないと。家族でもなければ、親兄弟でも何でもない。これから先は崚太と過ごす時を大事にしていこうと思ったのである。
*
十一月も半ばを過ぎ、その週も週末になってから、崚太にメールを入れると彼がやってきた。ゆっくりと快適に過ごすため、部屋の掃除をし、食事を買っておいて待ち続ける。いつも午後二時半過ぎに彼がやってくるのだ。それまでネットをしながら待った。スマホは充電器に差し込んである。パソコンを開いてネットに繋ぎ、トップページからニュースを始め、ブックマークしているいろんなサイトを閲覧した。
午後二時半を回った頃、崚太がやってきたようで玄関先で物音がした。立ち上がり、玄関まで歩いていって、扉越しに、
「誰?」
と訊いてみる。
「俺だよ。崚太」
「ああ。今開けるわ」
ロックを解除してチェーンを外し、押し開けると、彼が立っていた。崚太はアンダーシャツにポロシャツやジャンパーなどを重ね着していて、下はジーンズだ。決してお洒落をしているわけじゃなかったようだが、十分魅力的に見えた。
「寒いでしょ?中に入って」
「ああ、すまないね。お邪魔します」
崚太はゆっくりと室内へ入っていく。あたしもキッチンでコーヒーを一杯淹れ、彼に差し出した。温かい飲み物が冷えていた体の温度を上げる。彼がリビングにある椅子に座り、
「今日は特に冷えるね」
と言った。あたしも頷き、
「ええ。でも崚太、風邪とか引いてない?毎日会社に出勤してるんだし」
と言ってみた。
「大丈夫。外は多少冷えるんだけど、特に気にはしてない」
「じゃあ体調はいいのね?」
「ああ」
崚太もかなり心身の疲労が溜まっているようである。普段ずっと内勤でフロアに詰め、パソコンのキーを叩くのが仕事だからだ。営業担当で取引先とはずっと電話やメールなどで連絡を取り合っているようだった。気持ちが落ち着かないこともあるだろう。だけど会社員なら、誰もが辿ることなのである。あたしも別に気に掛けていなかった。
*
「コーヒー美味しかったよ。また眠くなってきたら淹れてね」
「ええ。……仕事漬けなんでしょ?普段は」
「ああ、まあな。でも合間に休憩があれば、その時間ぐらいはゆっくりしてるよ」
「無理しないでね。出来るだけ休んで」
「分かってる」
崚太が頷き、あたしをベッドに連れていって抱き合い始めた。口付けを交わしてから、ゆっくりと体を重ね合う。別にこれと言って変化のない性行為かもしれなかったが、抱き合えるだけでもいい。一頻り性交し合ってから、ゆっくりと互いの体を持たせ合う。抱き合うことに遠慮は要らないのだった。考えすぎることもなかったのだし……。
コーヒーはカフェインの入った、実に刺激的な飲み物だ。あたしも普通に一日に軽く三杯から四杯ぐらい飲んでいた。半ば水代わりだ。飲みすぎで胃が悪くならないよう注意していた。三度の食事後と午後三時の休憩時間にブラックで一杯ずつ飲んでいる。刺激物だから、飲みすぎるとまずいのだが……。
抱き合った後、シャワーを浴びるため、浴室へ入っていった。幾分熱めのお湯を浴びながら、互いに髪や体を洗い合い、寛ぎ続ける。気にすることはなかった。いろんなことは徐々に取れていく。いいことも嫌なことも全てだ。ずっと仕事で気を張り続けているのも事実だったし……。
入浴後、バスルームの外へと歩き出す。さすがに冷えた。いくらリビングに暖房を入れていても冷え込むのだ。お風呂上りにドライヤーで髪を乾かし、乳液などを付けて、その後、買っていた食事をテーブルに持ってきた。崚太は男性だから唐揚げなどが好きだろうと思い、唐揚げ弁当を買ってきて、あたしの方は野菜中心のヘルシー弁当にしたのである。
「唐揚げか。美味そうだな」
「ええ。しっかり食べて栄養付けて」
「うん。いただくよ」
彼も食に関しては貪欲だ。あたしの想像以上にたくさん食べる。元々崚太は体格もよく、あたしと違って三食じゃ足りないぐらいらしい。結構ガツガツ食べるのだ。お弁当なら普通にライス大盛りだったし、稀にハンバーガーなどのファーストフードも食べたがる。極自然だろう。成人男性の食事の取り方の実情は崚太に現れていた。
*
食事後、互いに寛ぎ続ける。さすがに普段の仕事で倦怠していて、お互いいろいろとあった。だけど、それも美味しいものを食べれば吹き飛ぶ。食後、崚太があたしの買っていた彼用の歯ブラシで歯磨きをして、口の中を綺麗にし、体を休めてゆっくりする。あたしも歯を磨き、崚太の眠るベッドに一緒に寝転がった。
彼はアルコールは一滴も飲まない。あたしもアルコールフリーのカクテルは軽く飲むのだが、別に大量に飲むわけじゃなかった。単に眠る前にグラスに半分ぐらい注ぎ、牛乳などで割って、ちょっとだけ飲む程度である。傍にいて気持ちが通じ合うのでよかった。何気ない時間なのだが、休日はこうやって淡々と過ぎていく。
また平日になれば、お互い仕事が始まる。ゆっくりと歩いていくつもりでいた。想い合うことに変わりはないので……。それに崚太とは一日に二回、朝と夕方欠かさずメールし合っている。互いにスマホにアドレスを登録し、メールを受け取ったり送ったりするのだ。別に不自然なことじゃない。自然なことだ。通じ合う者同士で。
土曜の昼に来た彼は、日曜の夕方帰っていった。一晩泊っていき、仲よく過ごせれば十分である。あたしもまた月曜から日常へと舞い戻るのだ。気持ちを落ち着けて、仕事でミスしないように。日曜の夜はなるだけリラックスしているのだった。また明日から仕事だと思い。
崚太の腕に抱かれているときが一番幸せなのである。ずっと包み込まれながら、ゆっくりとしていた。お互い想い合っているからこそ、愛し合う関係が成立する。何も怖くはなかった。彼を想いながら……。抱かれているときは尚更だ。想いは通じ合う。自然と。
崚太が帰ってしまった後、コーヒーを淹れ直してホットで一杯飲んでみた。確かに苦いのだし、カフェインが入っているので眠り辛くなるのだが、平気だった。カップ一杯飲んでベッドに入ると、自然と眠気が差してくる。寝つきは悪い方じゃなかったのだし、別に眠前の一杯ぐらい大丈夫だ。寝床に入って思う。彼のことをずっと愛し続けようと。
(了)