お花見は雨の喫茶店で
お花見をしに行こう、とマスターが言った。
来週の定休日にはきっと散っちゃうよ、だから明日の定休日に、恵麻ちゃん一緒に桜を見に行こう、って。
そう言われたのが昨日。あんまり嬉しそうなマスターの笑顔に、大人の男の人でも桜が好きなんだなー、大人がお花見するのって飲むこと目当てだったと思ってたんだけどマスターはそうじゃないんだなーと思いながら、ぼんやり頷いた。
桜は好き。でも、一人でお花見をするのはすこしさびしい。
小さいころ、おばあちゃんに「桜の下には死体が埋まってる」と驚かされたからか。葉桜になると、大嫌いな毛虫がうじゃううじゃ湧いてくるからか。
それともただ単に、桜を見ると思い出すからか。
桜が咲くころ繰り返された、出会いと別れの数々。知らない教室に入るときの心もとない気持ち。
知らない土地に来たときの、「ここでは自分はまだ何者でもないんだ」と感じた、自分に実体がなくなってしまったような、足元にぽっかり穴が開いてしまったような気持ち。
そんな気持が押し寄せてくるからか、一人で桜を見ていると、胸がつーんと痛くなる。
今頃マスター、お店でがっかりしながら待っているだろうなあと思いながら、窓の外を見る。
降水予報二十パーセントは外れ。満開になったばかりの桜を洗い流すように振った雨。きっと明日には、桜の花びらが浮いた水たまりがたくさんできているだろう。
あと一日、待ってくれれば良かったのに。あんなに桜を楽しみにしている人がいるんだから、雨が降るの、あと一日くらい待ってくれれば良かったのに。
マスターの笑顔を思い出しながら、行き場のない気持ちを雨にぶつける。お天気の、意地悪。
窓のむこうの雨雲に、イーッと思いっきりしかめっ面をしてから、玄関を出た。
風に吹かれてふわり、ふわりと横降りになる細かい雨を傘でうまくかわし、マスターの待つお店に向かう。
以前、「もしかして恵麻ちゃん、傘さすの下手?」とマスターに指摘された傘のさし方も、あれからだいぶマシになったんじゃないかと思う。
途中で通る道沿いには、桜並木が植わっている。雨に濡れた桜は、儚げで美しい。でも、私だけ桜を見てしまうことに罪悪感を感じて、なるべく桜が目に入らないように、目線の斜め上を傘でガードしながら歩いた。
お店に着くと、マスターはカウンターのむこうで肘をつきながらぼうっと外を見ていた。
「……雨だねえ」
「雨だねえ」
鸚鵡返しにやる気のない返事をしながら、傘をたたんで傘立てにかける。
「桜、見れなかったな、今年は」
心ここにあらず、といった口調。マスターのその姿は、雨の中佇む桜にちょっと似ていた。
「来年があるよ」
そう、自然に口をついて出たことに驚いた。一年後のことなんて分からないのに。来年の春にもここでアルバイトをしていられるのかな。就職活動が始まる、大学三年の春。
私の言葉にマスターがゆっくりとこちらを振り向き、一瞬きょとんとしたあと、
「そうだね」
と嬉しそうに言った。
なんだかそれでもう、来年の約束ができた気がしたんだ。私がここにいてもいなくても、きっと来年は一緒に桜を見ているんだろうなって。
約束なんて言えない不確かなものだけど、きっと来年は桜を見ても胸が痛くならない、そう思う。
「今日は、ここでお花見をしようか。あったかい飲み物、いれてくるよ。何がいい?」
カウンターの向こうでマスターが立ち上がり、サイフォンの準備をし始めた。
「え、でもここからは」
桜なんて見えないじゃない、と言い返そうとした私を遮るように、マスターがちょいちょいと手招きをする。
いぶかしみながらカウンターの席に座ると、マスターが私の髪に手を伸ばした。
それはとても自然な動作だったから、私は驚くことも忘れて、マスターの細くてきれいな手首を見ていた。細長い形の爪や、骨がでっぱったところが、きれいだなあって。
「ほら」
マスターが手にとって見せてくれたのは、桜の花びら。雨と一緒に私の髪に降ってきた、ハート型のピンクの花びら。
「恵麻ちゃんはやっぱり、傘をさすのが下手だ」
そう言ってマスターは笑う。
今年はこれで満足、と言ったマスターの声が、ふたりきりの雨の喫茶店に響く。
私の胸の中にあったピンク色の蕾が、急な温度上昇に花開き始めた気がした。ねえ、もう少しだけ待って。一度蕾が開いたら、きっとすぐに満開になっちゃうんだから。
冬の寒さを耐え忍んだはずの桜の蕾が、春の陽射しの暖かさにはあっさり懐を開いてしまうみたいに。
あなたの側はいつだって春みたいにあたたかかった。だからこれ以上、温度を上げないでね。
ねえ、マスター。桜は咲くまでが楽しいから。
今はまだ、もうすこし。あなたの隣で、咲きそうで咲かない蕾を、見つめていたいんだ。