息子の六歳の誕生日に「ママとパパは離婚して、静香おばさんが新しいママになってほしい」と願われた
手作りのバースデーケーキを抱え、私は六歳になった息子、神谷湊の前にしゃがみ込んだ。
ろうそくの火を吹き消したばかりの湊の頭を撫で、今年は何が欲しいのかと聞いた。おもちゃでも旅行でもなく、湊は妙に落ち着いた顔で私を見つめた。
「ママ。今年の誕生日のお願いなんだけど、パパと離婚してほしい。そうしたら、静香さんに新しいママになってもらえるから」
伸ばしていた手が、そのまま宙で止まった。
結婚して六年。怜司にとって「ふさわしい妻」でいるために、私は舞台を降り、レッスンをやめ、SNSのアカウントまで閉じた。食べるものも着るものも、少しずつ神谷家が好むものへ変えていった。
それでも、少なくとも息子には必要とされていると思っていた。
けれど、その瞬間に分かった。彼らが言う「品のある子に育てる」という教育の中で、湊はいつの間にか、高級料理も分からず、洗練されてもいない母親を恥ずかしいと思うようになっていた。
小さく笑い、バッグから前もって用意していた離婚関係の書類を取り出した。
「いいよ。ママ、そのお願いを叶えてあげる」
1
弁護士に確認してもらっていた離婚合意書と離婚届を、怜司の前に置いた。
「湊の誕生日のお願い、聞くことにした。財産分与はいらない。湊はこれまで通りあなたと暮らして、親権もあなたが単独で持つ。それでいい」
怜司は顔さえ上げなかった。
新作料理の試作中だった。薄く切った帆立を白い皿の中央へ置き、ピンセットでハーブの位置を整えたあと、脇に薔薇のジュレを一滴だけ落としている。
しばらく待っても反応がないので、指先でテーブルを二度叩いた。ようやく彼が眉を寄せてこちらを見る。
「今、何て言った?」
思わず笑いそうになった。六年続いた結婚生活も、彼にとっては完成前の一皿より軽いのかもしれない。
「聞かなくていい。署名だけして」
必要なページを開き、彼の前へ滑らせた。
怜司が書類をめくろうとした時、湊が勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「パパ、静香さんもう来てるよ! キャビアをのせたサブレも作ってきてくれたんだって。あとでフードフェスに連れていってくれるって!」
白石静香。人気フードエッセイストであり、怜司の亡くなった恩師の一人娘でもある。
料理関係者の間では昔から、神谷怜司と最も感性が合う女性は妻ではなく白石静香だと囁かれていた。実際、その名前を聞いた瞬間、怜司の冷たかった表情がわずかに緩んだ。
書類を確認しようとした彼の手を、そっと押さえた。
「署名して。湊を静香さんのところへ連れていく時間は取らせないから」
怜司がようやく、きちんと私を見た。いつも大人しくしていた私が、そんな言い方をするとは思っていなかったのだろう。
湊は待ちきれない様子で父親の袖を引っ張っていた。
「パパ、遅れちゃうよ。静香さん、また遅刻したら今日の大きなマグロに謝ってもらうって言ってた」
怜司が困ったように口元を緩める。
「分かった」
そしてペンを取った。ほとんど内容を確認しないまま、最後の欄に署名した。
父子が出ていき、玄関の音が完全に消えてから、もう一度テーブルへ向かった。彼の名前の隣に、自分の名前を書く。
神谷怜司。神谷澪。
夫婦として名前が並んだのは、思えば二度しかない。一度目は婚姻届で、手続きを終えたその日に怜司は海外のガストロノミー・フォーラムへ飛んだ。そして二度目が、今日だった。
今回も彼は、別の女性のために迷いなく出ていった。
涙が一滴だけ紙に落ちた。すぐに拭い、書類をしまって二階へ上がる。
怜司と結婚する前、私の名前は水城澪だった。
二十二歳の頃には、すでにコンテンポラリーダンサーとして少しずつ名前が知られ始めていた。ヨガインストラクターの資格も持ち、身体の使い方を紹介する動画やレッスンを通して、SNSにもかなりのフォロワーがいた。
海外カンパニーから声をかけられたこともある。
怜司は一度も、はっきり「踊るな」と言ったことはない。
「結婚したんだし、そこまで舞台にこだわらなくてもいいだろ」
そんなふうに言われるたび、少しずつ出演を減らした。レッスンもやめ、SNSも閉じ、湊を妊娠してからは完全に活動を止めた。
出産の時には大量出血があり、産後は腰と骨盤の回復にも時間がかかった。医師から言われたのは「しばらく強度の高い舞台は難しい」ということだけだったのに、神谷家の誰もが、私がもう舞台へ戻らないことを当然だと思っていた。
私自身も、いつの間にかそれを受け入れていた。
変わったのは二年前だ。
リハビリという名目で、昔所属していたカンパニーに連絡した。基礎体力からやり直し、少しずつ身体を作り直した。
この一年は、毎週決まった時間に稽古へ通っていた。
怜司は一度も、私がどこへ行っているのか聞かなかった。
荷物をまとめていると、色の褪せた古いダンスシューズが出てきた。
結婚したばかりの頃、怜司は一度、この靴と海外公演の契約書をまとめてゴミ袋へ入れたことがある。あの夜は、ずっと泣いていた。
今はただ、胃の奥がひどくむかついた。
洗面所へ駆け込み、吐いたあとで顔を上げる。
鏡の中には、きちんと化粧をした女がいた。髪も整っている。部屋着の色まで、神谷家の祖母が好む淡い色だ。
でも、水城澪には見えなかった。
長い間、自分の顔を見つめた。
離婚することにして、本当によかった。
その夜、親友の桐生真琴に電話した。すぐにつながった。
「やっと私の存在を思い出した? 今日、結婚記念日でしょ。神谷怜司にサプライズするって言ってなかった?」
スマートフォンを見る。一週間前に送ったメッセージは、まだ未読のままだった。
「サプライズはやめた。迎えに来て。私が何かご馳走する」
真琴はすぐに車で来た。
向かったのは、彼女が経営している完全予約制のアートサロン「LUNE」だった。私はこれまで、そこで身体表現のワークショップや小さな公演の企画を手伝ってきた。
今日はキッチンを借り、怜司のために結婚記念日のディナーを作るつもりだった。
ところが到着すると、マネージャーが困った顔で出迎えた。
「水城さん、真琴さん、すみません。今夜はダイニングスペースが貸し切りなんです」
真琴が眉をひそめる。
「誰が?」
私は聞かなかった。半分開いた木の引き戸の向こうに、すでに答えが見えていたからだ。
怜司がオープンキッチンの中に立っていた。
最後の帆立を皿に置き、その横へ透明な薔薇のジュレを一滴落とす。料理の名前は『朝露』。完成まで時間のかかる一皿だと、以前聞いたことがあった。
どうやら、今日のためだったらしい。
静香が彼の向かいに座っていた。
湊は嬉しそうにその横に立っている。
「静香さん、パパ、この『朝露』は静香さんのために作ったんだって。他の人には最後の香りまで分からないけど、静香さんなら分かるって」
怜司が最後の仕上げを終え、顔を上げた。
「誕生日おめでとう、静香」
静香が嬉しそうに微笑む。
そのあと、湊が小さなケーキを持ってきた。
「静香さん、いつか僕のママになってくれない?」
静香は一瞬言葉を失い、答える代わりに怜司を見る。
怜司は否定も注意もせず、ただ湊の頭を撫でた。子どもの無邪気な冗談だとでも思っているように。
指先から少しずつ熱が消えていった。
その時になってようやく思い出す。私たちの結婚記念日は、静香の誕生日と同じ日だった。
怜司は何度も結婚記念日を忘れた。それでも彼女の誕生日だけは、一度も忘れていない。
今日のために、一週間かけて怜司の好きな牛テールのダブルコンソメを練習していた。
一度目は澄まなかった。二度目は温度を失敗し、三度目は鍋を持つ時に指を火傷した。
今も小さな水ぶくれが残っている。
真琴の身体が怒りで震えていたので、腕をつかんだ。
「行こう」
信じられないという顔を向けられ、少しだけ笑った。
「入らなくていい。離婚の書類なら、もう署名したから」
帰りの車の中で、真琴はとうとう我慢できなくなった。
「あなた、あの家のためにどれだけ捨てたの? 一昨年、海外のトレーニングに誘った時だって、あの人から電話一本来ただけですぐ帰ったでしょう。湊がひどいアレルギーを起こした時も、一人でエピペンを使って救急車を呼んで、夜通し病院に付き添った。なのに怜司は翌日になって帰ってきた。そんな家族のために、どこまで自分をなくすつもりだったの?」
窓の外を見たまま、何も言わなかった。
真琴の声が少しだけ柔らかくなる。
「澪、泣きたかったら泣けばいいよ」
もう、何度も泣いた。
今は不思議なくらい、涙が出なかった。
六年。十分だ。
2
翌日、思いがけず怜司と顔を合わせた。
場所は青羽市芸術劇場。次のレストラン企画で「身体感覚」をテーマに扱うらしく、怜司は副料理長やプロジェクトマネージャーを連れて、コンテンポラリーダンスの公演を観に来ていた。
そして、その作品の主演は私だった。
大きな幕が上がる。
最初のスポットライトが落ち、裸足で舞台の中央に立った。
三年間のリハビリ、二年間のトレーニング、そしてこの一年間、誰にも言わず続けてきた稽古。そのすべてを、あの一本の作品へ注いだ。
客席は見なかった。
それでも、怜司が最前列にいることは分かっていた。
一度倒れ、また起き上がる。身体をねじり、伸ばし、跳ぶ。
その一つ一つが、自分自身への証明のようだった。
水城澪は消えていない。
ただ長い間、奥へ押し込めていただけだ。
公演が終わると、大きな拍手が起きた。
舞台の中央で礼をし、照明の中から初めて最前列を見る。
怜司は拍手をしていなかった。ただ、まっすぐこちらを見つめていた。手にしていたパンフレットは、いつの間にか床へ落ちている。
隣に座っていた副料理長が、呆然とした顔で口を開いた。
「神谷シェフ……あの方、奥さまですか?」
その時にはもう背を向け、舞台袖の暗がりへ入っていた。
終演後、芸術監督が怜司たちを楽屋へ連れてきた。
「神谷シェフ、ご紹介します。今回の主演で、身体表現監修も担当している水城澪さんです」
怜司の目がわずかに揺れた。
手を差し出す。
「神谷シェフ、よろしくお願いします」
彼はその手を見つめた。
まるで、初めて私を見るような目だった。
そこへ静香が関係者通路から現れ、自然な動作で怜司の横へ立った。
「怜司、そろそろ行かないと。夜の会食が待ってるわ」
それから、ようやく私に気づいたような顔をした。
「水城さんの踊り、とても力がありますね。ただ私は、やっぱり料理の方が好きかな。味覚って、日常に一番近い芸術だと思うから」
以前なら、その一言を何日も引きずっていたかもしれない。
今は、どうでもよかった。
二人が去ったあと、近くにいた人が小声で「本当に息が合う二人ですね」と話している。
副料理長が気まずそうにこちらを見たが、何も説明しなかった。
楽屋へ戻り、すぐに弁護士へ連絡した。
湊の親権を怜司に任せることを決めたのは、六歳の息子に傷つく言葉を言われたからではない。その件については、すでに何度も弁護士と話していた。
湊は生まれた時から青羽市で暮らしている。学校も、祖母の家も、友人も、生活の基盤はすべてここだ。
一方で、舞台へ本格的に戻れば、私は地方公演や海外滞在も増える。何より当時の湊自身が、私と暮らすことを強く拒み、父親と一緒にいたいと言っていた。
合意書では、怜司が単独で親権を持つことにした。ただし、今後親子交流を再開する可能性は残し、実際に会うかどうかは湊の生活を乱さない範囲で本人の気持ちを尊重する。
教育費として、別に資金も残した。
湊を置いていくのは、あの子を捨てたいからじゃない。
今の生活を壊さずに、自分自身も立て直すには、それが一番現実的だった。
弁護士からは、最後の確認だけでいいと言われた。
「数日あれば提出できます」
頷いた。
数日くらい、どうということはない。
その日の夜、怜司のマネージャーから電話が入った。
「澪さん、神谷シェフから伝言です。以前おっしゃっていた牛テールのコンソメは、いつお店へ持ってきていただけますか? それと、湊くんの今週の生活記録がまだ提出されていなくて。これまでは澪さんが見ていたと聞いたんですが……」
鏡の中の自分を見る。
「コンソメはありません。今後も作りません。湊は怜司の息子です。学校のことも、父親がやってください」
金曜日には、神谷家の祖母、志津子からLINEが届いた。
神谷家は長く飲食業を営んでおり、月に一度、祖母の家で親族の食事会を開いていた。以前は仕事があろうとなかろうと、必ず湊を連れて出席しなければならなかった。
『今月の食事会も予定通りです』
『あなたと怜司の問題は夫婦の問題でしょう』
『湊は必ず連れてきなさい』
離婚届を出すまであと数日。
最後の最後で余計な揉め事を起こしたくなくて、神谷家の実家へ向かった。
怜司は小さな応接間に座っていた。
「湊ならアトリエにいる。少し見てきて」
返事もせず、その横を通り過ぎた。
湊は絵を描いていた。
足音に気づいて顔を上げ、私を見るなり身体で紙を隠す。
「ママ、見ないで」
その警戒した目に、まだ胸の奥が少し痛んだ。
でも、もう見えていた。
青い海と砂浜。手をつないだ三人。
怜司と、静香と、湊。
そこに私はいなかった。
「大丈夫。見ないよ」
部屋を出る前に、ひとことだけ付け加える。
「いつかパパが静香さんと結婚したら、もっときれいな海に連れていってもらえるかもね」
背後から、冷たい声が飛んだ。
「澪」
怜司が部屋へ入ってきて、私の手首をつかんだ。
「子どもの前で、どうしてそんなことを言う?」
振り返る。
「違うの? 私より静香さんの方が、あなたには合ってるでしょう」
怜司が何か言い返そうとした瞬間、スマートフォンが鳴った。
湊がすぐ顔を上げる。
「パパ、静香さん?」
次の瞬間、私の手首から彼の手が離れた。
少し離れた場所で電話に出る。さっきまで険しかった表情が、すぐに緩んでいった。
その背中を見ても、もう何も言わなかった。
その夜は客間に泊まった。
夢の中で、二十二歳の私は床にしゃがみ込み、ゴミ袋に入れられたダンスシューズと海外公演の資料を見つめて泣いていた。
少し離れた場所で怜司が言っている。
「結婚したんだし、そこまで舞台にこだわらなくてもいいだろ」
場面が変わる。
湊を出産した時の病院。
産後出血で危険な状態になった私のために、病院が地方で開かれていた料理コンクールに参加中の怜司へ連絡した。
彼が最初に尋ねたのは、
「子どもは無事ですか?」
という言葉だった。
医療スタッフが「奥さまも危険な状態です」ともう一度伝えてから、ようやく私の容体を聞いた。
翌朝六時、癖で目が覚めた。
以前なら、この時間には怜司のコーヒーを淹れ、湊の朝食を用意していた。
天井を見つめてから寝返りを打ち、もう一度眠った。
太陽が部屋に差し込む頃まで眠り、階下へ下りると、家政婦がキッチンで話していた。
怜司は朝早くから湊を連れ、静香が主催している週末のフードイベントへ出かけたらしい。
自分のためにお茶を淹れる。
不思議なくらい静かな気持ちだった。
あの三人は、もう十分家族らしく見える。
神谷家が必要としているのは、愛される妻ではない。ただ「神谷怜司の妻」という役割を黙って演じる女だった。
3
数日後、弁護士から最終確認が終わったと連絡が来た。
離婚届の証人欄には、真琴とLUNEのマネージャーが署名してくれた。
湊の親権、教育資金、将来的な親子交流についても、すべて合意書にまとめられている。
提出前日、真琴が私を新しくできたピラティススタジオへ無理やり連れ出した。
インストラクターの多くはダンス経験者らしく、若くて明るく、距離の取り方も上手だった。
真琴が肩を小突いてくる。
「どう? 家にいる無愛想なシェフより、こっちの方が感じいいでしょ」
思わず笑った。
「もっと早く外に出ればよかった」
「でしょ? 離婚届を出したら、次はもっと人を楽しませるのが上手い男たちのところへ連れていってあげる」
何の話か聞こうとした時、背後から聞き慣れた声がした。
「澪」
怜司が入口に立っていた。
私の周りにいる若い男性インストラクターを見て、明らかに機嫌が悪そうだった。
近づいてきて手首を取る。
「予定がある。来て」
すぐに振り払った。
「神谷シェフ。今は何年だと思ってるの? 自分が連れていきたいからって、人を勝手に引っ張らないで」
怜司はしばらく黙ったあと、低い声で言った。
「まだ離婚は成立してない。少なくとも今は、誤解されるようなことはしない方がいい」
ようやく意味を理解した。
呆れて笑う。
「自分だけは特別だと思ってる? 静香さんの誕生日を祝って、二人で会食して、車にも乗せて、湊が私の前で新しいママになってほしいって言っても放っておく。でも私が若い男の人と少し話したら、あなたへの裏切りになるの?」
怜司は長い間こちらを見ていた。
結局、何も答えなかった。
連れていかれたのは、会員制のガストロノミーサロンだった。
六年間、怜司がこういう業界内の試食会へ私を連れてきたことはほとんどない。彼の友人たちは、私を好まなかった。
コンビニの新商品も好きだし、路地裏のラーメン屋にも平気で入る。ワインのヴィンテージを覚える気もなければ、すべての食材の産地をありがたがる趣味もない。
以前、私が怜司と結婚したことを「安い炭酸飲料をクリスタルグラスに注いだようなもの」と笑った人までいた。
しばらく座っていたものの息苦しくなり、一人でテラスへ出た。
私が席を外したあと、友人たちはようやく怜司に聞いたらしい。
「怜司、お前たち最近どうしたんだ? 離婚するって噂、本当なのか?」
怜司はワイングラスをゆっくり回した。
「俺は離婚するつもりなんてない」
友人たちが顔を見合わせる。
「でも、澪ちゃんはそう思ってないんじゃないか?」
別の一人が、ため息をついた。
「昔、海外にいたあのシェフ覚えてるだろ。あいつもずっと厨房ばっかりで、奥さんは絶対離れないと思ってた。でも本当に出ていった」
怜司の肩を軽く叩く。
「本気で澪と一生やっていくつもりなら、少しはちゃんと見ろよ。人の気持ちはスープじゃないんだ。冷えたから温め直せば元通り、とはいかない」
グラスを持つ怜司の手が止まった。
「澪は行かない」
同じ頃、テラスにいた私のスマートフォンには、弁護士からメッセージが届いていた。
すべての準備が整った。
もう、離婚届を提出できる。
翌朝、市役所へ向かった。
書類に不備がないことを確認され、離婚届は正式に受理された。離婚届受理証明書も申請した。
手元に残ったのは、薄い証明書一枚だった。
それでも、六年間私を縛っていたものが、ようやく外れた気がした。
戸籍上の名字も、水城へ戻った。
もう怜司のコーヒーの温度を覚える必要はない。神谷家の食事会へ出る必要もない。
「有名シェフの妻らしく」という理由で、自分の好きなものを隠す必要もなかった。
市役所を出ると、真琴が待っていた。
私を見るなり抱きついてくる。
「今日は絶対お祝いするからね」
夜、真琴に連れていかれたのは、男性ダンサーが出演する会員制のショークラブだった。
ステージの合間には出演者が客席へ降りてきて会話をする。その晩、七、八人くらいの若い男性と話したと思う。
グラスが空けば水を持ってこようかと聞いてくれる人がいた。私がダンスの話をすると、本当に興味を持って続きを聞いてくれる人もいた。
誰かにちゃんと話を聞いてもらうことが、こんなにも新鮮だとは思わなかった。
神谷家も怜司もいない。誰かに「こうあるべきだ」と決められることもない。
翌朝は少し頭が痛かった。
それでも身体は驚くほど軽かった。
怜司の番号を、一時的に着信拒否から外す。すぐにつながった。
「何?」
相変わらず冷たい声だった。
笑った。
「一応知らせておく。離婚届、正式に受理されたから」
電話の向こうが静かになる。
「あと昨日、真琴にショークラブへ連れていってもらった。年下の男の子たちとも朝まで飲んでた。少なくとも、みんなあなたよりずっと人の話を聞いてくれたよ」
怜司の声が一気に低くなった。
「澪、何が言いたい?」
「別に。ちゃんと話を聞いてもらうだけで、こんなに楽なんだって初めて知っただけ」
少し間を置く。
「湊が六歳の誕生日に何て言ったか、覚えてる? 静香さんにママになってほしいから、離婚してって言ったんだよ。もう、その通りになったから」
電話を切る。
もう一度、番号をブロックした。
その日のうちに、アルナ高原へ向かう航空券を取った。
離婚したと母に知られれば、きっと「どうしてあんないい結婚を捨てたの」と責めに来る。
説明する気はなかった。
荷物をまとめて玄関を開けると、怜司と湊が立っていた。
湊は父親に言われて来たらしく、俯いたまま口を開く。
「ママ、ごめんなさい。誕生日の時、パパと離婚してなんて言うんじゃなかった」
見つめても、もうあの日のような痛みはなかった。
「謝らなくていい」
傷つくべきところは、もう十分傷ついた。
怜司が口を開く。
「湊をちゃんと教えられなかった。俺の責任だ。……悪かった」
少し驚いた。
六年の結婚生活で、こんなに明確な謝罪を聞いたのは初めてだった。
でも、遅すぎた。
準備していた箱を渡す。
「本当に悪いと思ってるなら、空港まで送って」
怜司が受け取る。
「何が入ってる?」
「一時間経ったら開けて」
彼はスーツケースを見る。
「どこへ行く?」
小さく笑った。
「離婚したあとまで、行き先を報告しないといけないの?」
空港まで、車内では誰も話さなかった。
怜司が荷物を下ろしてくれる。
別れ際、彼が珍しく柔らかい声を出した。
「早く戻ってこい」
何も答えなかった。
ただ少し笑い、そのままターミナルへ入った。
怜司は本当に、車の中で一時間待ったらしい。
時間になると、湊が我慢できずに箱を開けた。中には離婚届受理証明書と、双方が署名した離婚合意書の写しが入っていた。
湊には難しい文章ばかりだった。
それでも、もうパパとママが一緒に暮らさないということだけは理解したらしい。
「パパ……これから本当にママと一緒に住まないの?」
怜司は答えなかった。
証明書を手に取り、長い間見つめた。
そのあと、私のスマートフォンには何件もメッセージが入った。
『いつ手続きした?』
『どうして言わなかった』
『澪、着いたら連絡して』
『湊がずっと聞いてる』
全部、返さなかった。
あの日、内容も見ずに署名した書類が、今は彼の手元にある。
財産分与は求めなかった。湊の親権は彼に任せた。私は教育資金と、将来親子交流を再開する可能性だけを残した。
何かを奪うために離婚したわけではない。
ただ、自分の人生を取り戻したかった。
4
深夜、怜司は一人で書斎にいた。
離婚届受理証明書を何度見ても、書かれている内容は変わらない。澪は本当に離婚届を出し、日本を離れた。
そこで初めて、自分に問いかけた。
どうして、澪は出ていったのか。
そんな時、静香から電話が入った。
「怜司、大変なの。湊くんがフードイベントでアレルゲンを口にして、病院へ運ばれたの」
病院へ着いた頃には、湊はすでに処置を受け、容体も落ち着いていた。
静香はベッドのそばに付き添い、腕には湊が苦しんだ時につけたという引っかき傷が残っている。
周囲の人は、静香がすぐに異変に気づいたと感謝していた。
怜司だけは、すぐに何も言わなかった。
マネージャーへ視線を向ける。
「主催者に連絡して。バックヤードと調理スペース、控室の映像を全部確認したい」
調査に時間はかからなかった。
湊の食事にはもともと、はっきりとアレルギー表示がされていた。それを静香が自分で別の皿と取り替えていた。
自分が湊を助ける状況を作り、父子からもっと必要とされたかったらしい。
主催者側は警察へ相談した。
怜司も弁護士を入れ、静香との仕事上の関係も私的な交流もすべて終わらせることにした。
静香は泣きながら責めた。
「私がこんなことまでしたのは、ずっとあなたが期待させたからでしょう?」
怜司は長く黙った。
「俺が、お前と取るべき距離を取らなかったのは事実だ。それは俺の責任だ。でも、今日で終わりだ。もう湊には近づかないでくれ」
悪いのは静香だけではない。
曖昧な距離を許してきたのは、自分だった。
澪が何度不快そうな顔をしても、何も起きていないのだから問題ないと思っていた。誤解する方が面倒なのだとさえ考えていた。
その後、静香はメディアの仕事から離れ、日本を出た。
怜司はもう、彼女の後始末をしなかった。
5
その頃、私はアルナ高原にいた。
最初は小さな建物を一軒借り、コンテンポラリーダンスとヨガを教えるところから始めた。
昼は呼吸、体幹、身体表現のトレーニング。夜は現地の言葉と、昔から伝わる身体文化を学んだ。
結婚生活と怪我で弱っていた身体も、少しずつ力を取り戻した。
三年後には再び「水城澪」の名前で、海外の身体表現プロジェクトに参加するようになった。関わった作品はドキュメンタリーにもなった。
最初の小さなスタジオも、コンテンポラリーダンス、ヨガ、ボディワークを扱うリトリートセンターへと育ち、二つ目の拠点までできた。
国際ウェルネス・アート財団からは、アジア地域の身体表現プロジェクトを統括するアートディレクターとして声がかかった。
あの結婚生活は、もうずいぶん昔の出来事になりつつあった。
そんなある日、アシスタントが瞑想室をノックした。
「水城さん、日本から大きな文化ドキュメンタリー企画のオファーが来ています。身体表現部門をお願いしたいそうです」
資料を受け取る。
企画元は東雲文化振興機構。
作品タイトルは、
『食と身体――暮らしをつくる二つの感覚』。
その下に、もう一人の名前があった。
食文化総監修。
神谷怜司。
資料を持つ指が止まり、膝の上に置いていたペンが床へ落ちた。
6
三年ぶりに日本へ戻った。
撮影地は青嶺県雨白村。
到着した日は、細い雨が降っていた。
総監督がすぐに一人の男を連れてきた。
「水城さん、ご紹介します。食文化部門の総監修をお願いしている神谷怜司シェフです」
三年ぶりに見る彼は、相変わらず冷たく整っていた。
ただ、目だけは昔よりずっと深く見えた。
手を差し出す。
「神谷シェフ。今回、よろしくお願いします」
怜司がしばらく私を見つめた。
それから手を取る。
「……水城さん、こちらこそ」
スタッフがいる。
彼は私を「澪」と呼ばなかった。
私も彼を「怜司」とは呼ばなかった。
夜の撮影が始まった。
モニター前に座り、カメラの中のダンサーに呼吸と動きのタイミングを指示する。怜司は別のチームで郷土料理の撮影を担当していた。
それでも、彼が近くにいる時は何度も視線を感じた。
静かで、妙に真剣な視線だった。六年間一度も向けられなかった目で見られていることの方が、かえって落ち着かなかった。
撮影が終わる頃、雨は強くなっていた。
上着を羽織り、帰ろうとした時だった。
「澪」
足が止まる。
日本へ戻ってから初めて、彼は仕事上の距離を越えて名前を呼んだ。
振り返らなかった。
「俺に、何か言うことはないのか?」
ようやく身体ごと向き直る。
「仕事については、今日必要なことを全部話しました。それ以外はありません」
怜司が追ってくる。
「三年前、あんなふうにいなくなって……湊のことを一度も思い出さなかったのか?」
思わず笑った。
「六歳の時、あの子は自分の口で、あなたと離婚して静香さんにママになってほしいって言った。私にどうしろっていうの?」
怜司が眉を寄せる。
「あの時はまだ子どもだった。この三年、料理の道を無理に歩かせることはやめた。本人が絵を描きたいと言えば描かせたし、今はサッカーもやってる。祖母が口を出そうとした時も、俺が止めた」
わずかに息を呑んだ。
昔の怜司なら、しなかったことだ。
「静香とも、もう何年も連絡を取っていない。湊の母親は、お前だよ。それは変わらない」
雨に濡れた顔を見る。
それでも、あまりにも都合がいいと思った。
六歳の子どもに夫婦の境界が分からなかったとしても、大人には分かる。
怜司は静香の誕生日を覚えていた。
彼女のために料理を作った。
既婚者として取るべき距離を、何度も曖昧にした。
それは三年経ったからといって、なかったことにはならない。
「神谷シェフ。私たち、昔話をするような関係じゃないでしょう。仕事の話だけで十分です」
怜司は黙った。
「あなた、私のことほとんど何も知らなかったでしょう。知ってたのなんて、戸籍に書いてある名前くらいじゃない?」
それ以上は話さず、そのまま車へ乗った。
ドアを閉める。
雨の向こうに、怜司だけが残った。
その夜、激しい雨音で目が覚めた。
窓を閉めようとして、庭の外に立つ人影に気づいた。
怜司だった。
傘も差さず、服まで完全に濡れている。
しばらく見ていた。
結局、傘を持って外へ出る。
心配したわけではない。ただ、撮影の途中で食文化総監修が倒れられたら面倒だと思っただけだ。
宿泊施設の脇にある小さな茶室へ通した。
湯を沸かし、生姜湯を置く。
しばらくして、怜司が言った。
「ありがとう」
一瞬だけ動きが止まった。
結婚していた頃、彼から感謝の言葉を聞くことはほとんどなかった。
「何がしたいの?」
怜司が目を伏せる。
「知りたい。俺たちが、どうして離婚したのか」
彼の顔を見つめた。
笑えばいいのか、怒ればいいのか分からなかった。
六年間、あれだけ失望し、何度も傷ついてきたのに、彼は本当に何も分かっていなかった。
「どうして離婚したのか分からない。そのこと自体が、離婚した理由だよ」
怜司の身体が固まった。
「離婚する前、何度も言ったよね。湊は静香さんに母親になってほしいって言ってた。周りも、静香さんの方があなたに合うと思ってた。だから私は、財産分与もいらない、湊もあなたに任せるって言った。全部、あなたに話した」
彼の目を見る。
「……覚えてる?」
手の中のカップを握る指が強くなる。
答えはなかった。
それだけで十分だった。
怜司は、何も覚えていない。
あの頃の私は、彼にとって家の中にいつもいる人だった。
どこへも行かない。
だから、ちゃんと話を聞く必要さえなかった。
やがて、小さな声が落ちる。
「ごめん。……本当に覚えてない。あの頃は新しいメニューのことで頭がいっぱいだったのかもしれない」
思わず笑った。
「分かった。じゃあ、あなたでも覚えていそうな話をしようか」
まっすぐ見る。
「離婚する一年前。バレンタインの夜、あなたは会員制の試食会へ行った。翌朝、私が車の後部座席を片づけた時、シートの下から黒いレースの下着が出てきた。静香さんが酔ってワインを服にこぼして、車の中で着替えた。あなたは外で待っていたから、何もしていない。下着は置き忘れただけ。そう説明したよね」
怜司が眉を寄せる。
「本当に俺は車の外にいた」
頷いた。
「うん。あなたは彼女と寝てない」
立ち上がる。
「でも、既婚者の車の中で別の女性が着替えて、下着まで置き忘れるような距離感を許しておいて、妻が嫌がったら『考えすぎだ』で済ませる。それが普通だと思ってたの?」
怜司は何も言わなかった。
「私が離れたのは、浮気の証拠を見つけたからじゃない。結婚している間、私だけがずっと我慢していたから」
息を整える。
「私を忘れるあなたを許して、静香さんを優先するあなたを許して、周りから『あなたには釣り合わない』と言われることまで飲み込んだ。一番怖かったのは、最後には私まで、それが正しいんじゃないかと思い始めたこと」
7
怜司の顔から、初めて完全に余裕が消えた。
もう夜もかなり遅い。
話を終わらせようとした時、彼が低く言った。
「ごめん。……いや、知らなかったんじゃない。知ろうともしなかった。俺が悪かった」
胸の奥で、長い間押し込めていたものが少しだけ緩んだ。
あの結婚生活で起きたことを一つずつ言葉にして並べれば、怜司自身にも分かる。
あの頃の私は、確かに傷ついていた。
彼はまだ立ち上がらなかった。
「もう一つだけ、言っておきたい。静香と付き合ったことはない。彼女の父親は俺の恩師だった。卒業したばかりの頃、どこも俺にメインを任せてくれなかった時、先生だけが一度チャンスをくれた」
少し間が空く。
「亡くなったあと、静香のことを気にかけるのは自分の責任だと思ってた。彼女が料理に詳しかったのもあって、周りに誤解されても放っておいた。でも今なら分かる。きちんと線を引かなかったこと自体が、結婚していたお前への裏切りだった」
その言葉には少し驚いた。
でも、それだけだった。
「もうどうでもいいよ」
怜司がすぐに顔を上げる。
「よくない。お前がいなくなってから、何度も連絡しようと思った。でも、何を言えばいいのか分からなかった。湊も……俺も、お前のことを忘れたことはない」
言葉に慣れていないのか、そこで一度止まる。
「戻ってきてほしい。昔みたいに戻れって意味じゃない。できるなら、もう一度やり直したい」
二秒ほど言葉を失ったあと、本当に笑ってしまった。
「私は三年かけて、やっと自分の仕事も生徒も生活も取り戻した。それなのに、どうして戻るの?」
怜司は黙った。
「恩師への借りがあるから娘を気にかける。それはあなたの選択。でも私は、あなたの先生にも、静香さんにも、神谷家にも借りなんてない」
茶室の扉を開ける。
「帰って。二度言わせないで」
翌日、さらに面倒な話が舞い込んだ。
東雲文化振興機構から、『食と身体』を一つの画面で扱う追加企画が出たらしい。私と怜司が対談形式で一緒に出演することになった。
気が進まなくても、仕事は仕事だ。
その日の撮影が終わり、マイクを外していると、怜司がまた近づいてきた。
「湊に会ってくれないか? お前に会いたがってる」
手が止まる。
「会いたがってる?」
頭に浮かんだのは、私のいない三人家族の絵だった。
「三年前、弁護士を通して親子交流の可能性は残した。会いたくないって言ったのは湊だよ。そのあと、あなたからも一度も会わせようって話は来なかった」
怜司の顔が固まる。
三年間、息子の人生から完全に消えたわけではない。教育資金は残しているし、緊急連絡先も弁護士を通して知らせてあった。
ただ当時、湊本人が会いたくないとはっきり言い、怜司からも何の働きかけもなかった。
だから、無理に現れなかった。
「今になって『会いたがってる』なんて言わないで」
怜司が眉間を押さえる。
「そんな言い方しかできないのか?」
一度だけ見る。
「嫌なら聞かなくていいよ。私たち、本来なら仕事以外で話す必要もないんだから」
神谷家へは行かなかった。
その代わり、真琴と会う約束をした。
話している途中、知らない番号から電話が入る。
女性の声だった。
「水城澪さんでしょうか。神谷湊くんの担任です」
眉を寄せる。
「はい」
教師は少し言いにくそうに続けた。
「今日、湊くんが同級生とトラブルになりまして。お父さまに何度か連絡しているんですが、つながらなくて。ほかに連絡できるご家族はいないか聞いたところ、湊くん本人がお母さまの電話番号を教えてくれました」
手が止まった。
真琴は隣で聞きながら、明らかに不機嫌な顔をしている。
関わるつもりはなかった。
けれど教師は、相手の保護者もかなり感情的になっており、怜司にもまだ連絡がつかないという。
しばらく黙ったあと、立ち上がった。
「行く。今日だけはね」
学校へ着くと、面談室ですぐに湊を見つけた。
九歳になり、ずいぶん背も伸びていた。
他の子どもには保護者がついている。湊だけが、一人で壁際に立っていた。
相手の子どもの母親が、強い口調で言っている。
「どうして手を出したの? 家で教えてもらってないの?」
近くにいた子どもが笑った。
「神谷ってママいないじゃん」
「ずっと前にいなくなったんでしょ」
湊の目が一気に赤くなる。
また相手へ向かおうとし、教師が慌てて止めた。暴れた拍子にバランスを崩し、自分で床へ転ぶ。
その時、私に気づいた。
身体が固まる。
目はすぐに赤くなった。
それでも何も言わず、自分で立ち上がった。
教師の前まで歩く。
「湊の実母です。ただ、離婚後の親権は父親が単独で持っています。今後の対応については、父親と話してください」
湊が勢いよく顔を上げた。
けれど、すぐに俯く。
彼へ向き直る。
「どうして殴ったの?」
答えない。
「話したくないなら、パパが来るまで待って。これは私が勝手に決められることじゃないから」
突然、湊が叫んだ。
「みんなが、僕にはママがいないって言ったんだ! ママはそれで満足なの? 静香さんは、少なくともママみたいに僕を放っておかなかった!」
最後まで聞いた。
「三年前、会いたくないって言ったのは湊だよ。私は無理に会おうとしなかった。でも今怒ってるからって、全部私のせいにはできない」
面談室が静かになった。
湊の目が、さらに赤くなる。
しばらくして、怜司がようやく到着した。
バッグを持ち上げる。
「来たなら、あとは父親として対応して」
湊の横を通り過ぎる。
足は止めなかった。
背後から、二つの声が重なった。
「澪」
「ママ……」
それでも、扉を閉めた。
8
学校を出たあと、真琴と近くの小さなバーへ入った。
日本酒を飲み込むと、胸の中に残っていた重さが少しずつ薄れていく。
真琴がため息をついた。
「あの人も今さら焦ってるんだね。湊を産んだ時だって、病院から電話が来たのに、最初に聞いたのは子どものことだったじゃない」
グラスを置く。
「もういい」
これ以上、昔のことを掘り返したくなかった。
「明日、アルナ高原へ戻る」
店を出ると、少し先に黒い車が止まった。
怜司が降りてくる。
こちらへ来て手を伸ばしたので、すぐ一歩下がった。
「昔は、私がどこへ行くかまであなたが決めてた。でも、もう通用しないよ」
怜司の手が止まる。
そのあと、上着の中から一本の数珠を取り出した。
一目で分かった。
昔、海外トレーニングへ行った時に買った木製の数珠。
結婚二年目、古いからという理由で怜司が雑貨と一緒に捨てた。
あとから自分で探し出した時には、紐が切れていた。
今は一粒ずつ磨き直され、きれいに繋ぎ直されている。
「修理してもらった。ずっと書斎に置いてた。いつか戻ってきた時、見つけるかもしれないと思って」
その数珠を見つめる。
心が少しだけ動いた。
でも、それだけだった。
「遅いよ。一度捨てたものは、直しても昔と同じにはならない」
翌日、空港。
真琴は私よりひどい顔で泣いていた。
最後にお守りを押しつけてくる。
「次に会う時は、もっと大きな舞台に立ってるところ見せて。あと、ちゃんとあなたを分かってくれる人を見つけなさい」
笑って頷く。
保安検査場へ向かおうとした時、柱の向こうから小さな頭が見えた。
湊が箱を抱えて、ゆっくり歩いてくる。
「ママ。これ、渡したくて」
箱を開く。
中には写真が何枚も入っていた。
一枚目は、妊娠初期。
つわりで何も食べられなかった私のために、怜司が初めてお粥を作り、真っ黒に焦がした時。
二枚目は、生まれたばかりの湊。
怜司が爆弾でも持つようなぎこちない姿勢で抱いている。
三枚目は、歩き始めた湊が、よろよろしながら私の胸へ飛び込んできた瞬間。
六年間の中に、確かに存在していた数少ない幸せだった。
「パパが昔のパソコンから見つけた。ママの写真だから、返した方がいいって」
湊は靴の先で床を擦る。
搭乗案内が流れた。
しゃがんで、同じ高さから見る。
「もう簡単に人を殴っちゃ駄目だよ。ちゃんと自分を大事にして」
湊の目が一気に赤くなった。
突然、首へ抱きついてくる。
「ママ、ごめんなさい。六歳の時は、本当に静香さんの方がすごいと思ってた。パパにも合ってると思ってた。でも今は違う。あんなこと、ママに言うんじゃなかった」
少しだけ身体が固まった。
湊が鼻をすすった。
「パパ、もう僕に料理やれって言わないんだ。おばあちゃんが何かのイベントへ連れていこうとしても断ってくれる。今は絵も習ってるし、学校ではサッカーもしてる」
驚いた。
三年間で、怜司は本当に少し変わっていた。
「あと、前に僕がアレルギーで倒れたのも、静香さんがわざとお皿を替えたんだって。パパが調べてから、もう家には来てない」
少し離れた場所から、怜司が出てきた。
手には黒いベルベットの箱があった。
離婚前、神谷家から渡されていた古い指輪の箱だった。
離婚する時、私は指輪ごと神谷家へ置いてきた。
今も中に、その指輪が入っている。
「澪」
怜司が口を開く。
「お前がいなくなってから、俺は――」
手を上げて止めた。
「失ってから大切さに気づいた、とかは聞きたくない」
怜司は本当に口を閉じた。
しばらくして、別の話を始める。
「二か月後、国際ウェルネス・アート財団がレノア市で年次フォーラムと授賞式を開く。俺も食文化プロジェクトで招待されてる」
こちらを見る。
「お前も行くなら、そこで待ってる」
返事はしなかった。
拒みもしなかった。
そのままスーツケースを引き、保安検査場へ向かった。
9
二か月後。
レノア市。
国際ウェルネス・アート財団の年次フォーラムと授賞式が行われた。
三年間取り組んできた身体表現プロジェクトが評価され、私はクロスカルチュラル・アート賞を受賞した。
舞台の上でトロフィーを受け取る。
大きな拍手が響いた。
カメラが客席を映す。
その中に、見覚えのある二人がいた。
怜司は黒いタートルネックを着ていた。
その肩に、眠ってしまった湊が寄りかかっている。
二人は目立たない席に座っていた。
スタッフが特別に用意した席でもない。
私にも何の連絡もなかった。
一度だけ視線を向ける。
そして、もう一度客席全体へ目を向けた。
スピーチの最後に、口を開く。
「最後に、昔の自分へ感謝したいと思います」
スクリーンに古い写真が映った。
二十二歳の水城澪。
海辺のトレーニングデッキで、朝日を浴びながら逆立ちをしている。
何の迷いもなく笑っていた。
マイクを握る。
「誰かを愛するために、自分の居場所まで手放す必要はない。そう気づくまで、ずいぶん遠回りをしました」
授賞式が終わると、怜司が控室の外で待っていた。
「さっきの言葉、俺のことか?」
彼を見る。
答えなかった。
バッグから一枚の招待状を取り出す。
差し出した。
【MIZUKI BODY & RETREAT JAPAN オープニングレセプション】
三年間準備してきた、日本で最初のリトリートセンター。
コンテンポラリーダンス、ヨガ、ボディワークのほか、「食べることと身体」をテーマにした小さなレストランも併設する予定だった。
怜司が招待状を読み終え、顔を上げる。
少し笑った。
「神谷シェフ。オープニングディナーの最後の一皿を任せる人が、まだ決まってないの。興味ある?」
怜司は長い間、招待状を見つめた。
「これは、どういう意味?」
「仕事の依頼」
明らかに目が曇る。
二歩ほど歩いてから、足を止めた。
「それ以上があるかどうかは、これからのあなた次第」
怜司が固まった。
やがて、少し困ったような笑いを浮かべる。
手にしている招待状を指差した。
「あと一つ」
「何?」
「レストランのメニュー、大まかな方向はもう私が決めてる」
かつて、私の人生にいくつものルールを作った男を見る。
「神谷シェフ。今回は、私のやり方でお願いします」
窓の外では、レノア市を流れる川が夕日に染まっていた。
昔の私は、彼の世界へ入るために、自分の舞台を降りた。
今はもう、自分の場所に立っている。
ここから先、誰をその世界へ入れるのかも、自分で決めればいい。
今度は、私が決める。
(完)




