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(アジフライ、たこの天ぷら……カレイの煮付け、冬ならぶり大根……か)
梨花は薄暗い店のコンロ前で、ボロボロのノートを開く。
その中には力強い祖母の字でレシピが細かく記載されていた。
魚は馴染みの魚屋から仕入れること。野菜は、乾物は……神経質だった祖母の性格は字にも表れている。
女木島で瀬戸に宣戦布告をして、もう1週間が経っていた。
祖母の店である魚福は、高松の商店街の隅っこに建っている。創業50数年。何度かリフォームはしたものの、外観はほぼ創立時そのままで、時が止まったような店だ。
店の扉は立て付けが悪く、窓には隙間もある。
そのせいか、外で繰り返し流れる高松祭のテーマソングが、隙間からどんどん流れ込んでいた。おかげで店はBGMいらずである。
(今年も賑やかだなあ……)
と、梨花は祭りに思いを馳せた。
町を歩けば、あちこちに高松祭のポスターが目につく。それもそうだ。祭りまであと一ヶ月を切っているのだから。
(高松祭には……キッチンカー。料理を作って、それで……)
梨花は無意識に、爪を腕に食い込ませていた。
(作れる、作れる……多分ね、このノートと……レシピサイトがあれば)
思わずため息を漏らしかけたその時。
「あら~梨花ちゃん!」
半分おろしたシャッターの向こうから、誰かがにゅっと顔を出す。
それは馴染みの常連さんだ。葬式で挨拶をしたばかりなので覚えている……向こうは梨花がおむつの頃から知っているらしいが。
シャッターを押し開き、おばあさん三人が店に入り込んでくる。そして壁にかかれた「暫く休業します」の文字を見て気まずそうに顔を合わせた。
「ごめんごめん、ついいつもの癖で……」
魚福と染め抜かれた暖簾は店の中に立てかけられている。
椅子は全て机の上に上げられて、ホコリこそないものの店は完全に生気を失っていた。
ほんの半年、いや1年前まではここでこんな常連客に囲まれて、ランチ時には大いに賑わったのだろうな。と梨花はぼんやりと考える。
「はい。すみません、まだ店の方はちょっと……」
「いつから開けるん」
「あ……それは、また、落ち着いた、頃に」
切れ切れとつぶやくと、三人は顔を見合わせた。
「やっぱり梨花ちゃんがお店継いでくれるんやね」
「そりゃあねえ。梨花ちゃん、お店継ぐために東京でお料理の学校に行っとったんやけん」
「サチ江さんが亡くなったときはどうなることか思うたけど、梨花ちゃんもおるけんもうこのお店は安泰ね」
「ねえ、この店は、ここいらの宝やから」
三人は好き勝手なことを言いながら、また賑やかに去っていく。
それを外まで見送りまたため息をついた、瞬間。
「すみません」
「ご……ごめんなさい。しばらくお休みで……」
背後からさした影に、梨花は思わず謝る。
これから何回謝る羽目になるのか。そう気が重くなるも、顔を上げて肩から力が抜けた。
「瀬戸……さん?」
「先日の御礼に来ました」
そこにいたのは、先日女木島で見た大男……瀬戸なのだ。
「……御礼も何も、別になにもしてないし。来て貰う必要もないんだけど」
島で見た時も大きかったが、周囲に比較できる物が多い町中で見るとその大きさがよく分かる。
身体の大きさを恥じるように、彼は背を丸め梨花に何かを差し出した。
「炊き込みご飯のレシピ教えてくださったので、そのお礼です。これが蝶子さんレシピの炊き込みご飯です。よかったら」
大きなタッパーには茶色のご飯が詰まっている。差し出しておきながら彼は照れるように笑った。
「こんな有名な定食屋さんに料理を持ってくるなんて、差し出がましいのですが……」
「別に……今は一時休業中だから」
こんな大男が立ち尽くすと、通行人の邪魔になるだけだ。仕方なく梨花は彼を店内に招き入れる。電気をつけると、祖母の店が白白と浮かび上がった。
席数はざっと30席。本当にここを回していくことができるのだろうか。改めて考えて、背中に冷たい汗が流れる。
「じゃあ、お嬢さんが跡を?」
「お嬢さんじゃない。香西。それに落ち着くまでお店は閉めてる」
「ああ、そうか。今ってお店休業中なんですね。実はちょっと食事を期待していて……」
太い眉をきゅっと下げた瀬戸の腹から、きゅううっと子犬の鳴くような音が響いて梨花は思わず力が抜けた。
どうにも、この男を前にすると怒りも湧いてこない。
「お腹すいたの?」
「……ちょっとバタバタしていて、すっかり食事を忘れてまして」
人に炊き込みご飯を持ってくるくらいなら、それを食べればいいのに。言いかけた言葉を飲み込んで、梨花はキッチンに向かう。
そこには開きっぱなしの祖母のノートと、小さな鍋があった。
「簡単なものでいいなら、あるけど」
「わ……もしかしてカレーライスですか。香りが本格的だ。いいんですか?」
鼻を動かして、瀬戸が嬉しそうな声を上げる。
小鍋に入っているのは、朝に作ったナスと豚バラ肉のスパイスカレーだ。東京から持ち帰ってきたスパイスをたっぷり仕込んだ。
「私の昼ごはんの残ったやつだし、口に合わないかもだけど」
そう謙遜してみせたが、味には自身がある。
湿気を払うジンジャーは強めに。リラックス効果のあるカルダモンもたっぷりと。
そして隠し味は柚子胡椒だ。これを入れることで、豚バラの脂っこさが落ち着くのだ。夏のカレーを作る時、梨花はこれを欠かさない。
……といっても、誰かに気づいてもらえるものではない。スパイスとはそういうものだ。
それにもう、スパイスやハーブをつかった料理は作れなくなる……このまま祖母の店を継ぐのならば。
「わ、スパイスめちゃくちゃ効いてる」
一口、食べて瀬戸が目を見開く。
その言葉に梨花の肩が揺れる。
「そ、そりゃあ……カレーだもん……」
「なんだろう、このピリッとしたの……あ、分かった。柚子胡椒? 暑い日にぴったりですね」
その表情に引き込まれかけ、梨花は慌てて顔を反らした。
「……それより、島を出て何しにきたの」
「本を探しに来たんです。島の子が将来の夢が見つからないというので、いろんな職業の本を。それと、あなたに炊き込みご飯をプレゼント」
夢。という響きに梨花はそっと手を握りしめる。握りすぎた手は、じんわりと熱を持っている。
「でも、それだけのために、ここに来たわけじゃないんでしょ」
「はい。蝶子さん……鬼姫とお祖母様のお話を少し、聞きたくて」
カレーを一瞬で綺麗に平らげた瀬戸は、おずおずと梨花を見上げる。
「どんな、会話をしていたのかとか、そういうのを」
「……詳しいことは、知らない。ただ、二人は実際には会ってなかった……と思う」
ぴちょん。とどこかで水の垂れる音がした。
外からは高松祭のテーマソングが相変わらず鳴り響き、夏の空気を盛り上げる。
しかし、店内は静かだ。音楽もない、常連のお喋りの声もない。
「私もお父さんも、お婆ちゃんがレシピサイトをしてたの知って驚いたくらい。そもそもお店の味は秘伝の味だからって、ノートに書き留めて、外に漏らさない人だったから」
祖母は全てにおいて厳しい人だった。
料理は伝統を守るのが一番と、そう信じていた人だった。
だからこそ、新しい味を警戒し簡単には受け入れない。料理の姿勢も店のあり方も、厳しかった。
だから梨花は彼女がレシピサイトに自分の料理を載せていることを知って、驚いたのだ。
そして喧嘩腰とはいえ、人と交流があったことも驚きだ。
「まあ鬼姫とは友達というか喧嘩友達? みたいで。だからそんな私生活の話とかはしてないと思うけど」
最後に鬼姫と交わした会話は、高松祭でのキッチンカーバトルの約束だった。
二人のDMページを開き、瀬戸に見せる。
「あ、失礼します……」
と、彼はまるで骨董品に触れる研究者のような顔でそっとスマートフォンを受け取った。
「……まさか鬼姫も亡くなったなんて、しらなくて。だから思わず瀬戸さんにキッチンカーをしろ。なんて言っちゃったけど」
先日した宣戦布告を思い出し、梨花は頬が熱くなる。
当事者である祖母と鬼姫がいないのなら、この戦いはドローだ。続ける意味もない。
「別に、無理に出なくてもいいと思う。私がちょっと、突っ走ってしまっただけで、申し訳……」
「出しましょう」
瀬戸が梨花の言葉を塞ぎそう言ったものだから、思わず小鍋を落としかける。
「は?」
「というか、先ほどお祭りの運営に聞いてきたんですが、このお店もキッチンカーエリアで出されるんですよね。ダニエルもキッチンカーで登録が済んでました」
「……へ?」
「多分蝶子さんが先に登録していたんだと思います。僕も手伝いますので、お祭り頑張りましょうね」
ライバルだと宣言したはずなのに。瀬戸はまるで学園祭に出るような笑顔を見せる。
そのせいで梨花は今度こそシンクに小鍋を落としてしまった。
鍋を落としたせいで、カレーがあちこちに飛び散って大惨事だ。なんとか拭き取って時計を見れば、もう時間は17時を回っている。
船の時間があるという瀬戸はとっとといなくなり、シャッターを完全に下ろせば常連客も顔を見せない。
ようやく静かになった店内に現れたのは、父だった。
「梨花」
「お父さん」
仕事が終わって今、帰宅したのだろう。葬儀の時も感じたことだが、数年ぶりに会った父はやはり老け込んでいた。
梨花は18歳で高松を出て、8年近く忙しさを理由に顔を見せなかった。いや、高松にいたころさえ、父は忙しくてほとんど会話を交わしていない。
間に立ってくれる母が数年前に亡くなったあとは、それがますます加速した。
だから今更、何を話せばいいのかも分からない。
「わざわざ高松に戻ってきてくれて。無理しょうらんか」
「……してないよ」
商店街で流される祭りのテーマソングがますます大きく鳴り響く。
かつて父とどんな会話をしていたのか、思い出せないまま梨花は言葉を紡いだ。
「キッチンカーはどっちにしても出さなきゃだし、お店もどうせ継がないといけないし」
「店のことは、また改めて、話そうな」
何を話すというのか。と梨花はつぶやきかける。
祖母は父の母だ。幼い頃から祖母の味で育った父は、きっと梨花に店を継いでほしいと願っているだろう。
「それより、最近このあたりで泥棒が増えてるらしいけん、鍵閉めだけはちゃんとな」
「うん」
言葉少なく父を見送り、梨花はまたキッチンに向き合った。
祖母はここで料理を作り続けた。見捨てるには、捨て去るには惜しい年数だ。
祖母の味で育った子どもたちは成長し、自分の子どもにもここの料理を食べさせた。遠方に引っ越した人も、この店の味を食べるためだけに帰省する。
祖母の味は人の心に染み込んで、梨花の味が付け入るすきもない。
(……どうせ、私が継ぐことになるのに)
ポケットに入れていたスマホが震え、タップすればそれは友人からのメールだ。
『梨花が狙ってた駅前のお店、空き店舗になったよ!』
はしゃぐようなその文面に、梨花の頬が引きつった。
『梨花の夢だったスパイスとハーブ料理専門店、楽しみにしてるからね』
それは残酷過ぎる文面だ。梨花は見ないふりをして、窓を開ける。換気扇を最大に回し、クーラーも全開にした。
うっすら残るスパイスカレーの香りを換気して、梨花はふと瀬戸が残していったタッパーを見る。
それは茶色くて、どっしりと無骨な炊き込みご飯だ。
恐る恐る茶碗についで温めると、何かが香った。
「ごぼうに、鶏肉、にんじん、こんにゃく……普通の具材だけど……」
炊き込みご飯としてはスタンダードな見た目である。きっとお醤油とみりんの、いかにも日本人好みする味に違いない。
そう決めつけて口に含み、そして梨花は驚いた。
何かぴりりとした味が、舌を刺激したのだ。よく見れば、何かが混ざっている。
「あ、これ……実山椒……だ」
それは夏の暑さを吹き飛ばすような、爽やかな味だった。




