第六章 血の夢
朝。
陽光が校舎の窓から差し込み、木の床が敷かれた廊下を照らしていた。
静まり返った校内に、突然――
「タッタッタッタッ!」
軽快な足音が響く。
教室の引き戸が「ガラガラッ!」と開き、沙都子が勢いよく飛び込んでくる。
「やったー! 今日も一番乗りですわ!」
その後ろから入ってきた梨花が、教室を見回して言った。
「沙都子は二番目なのです。ほら、見て」
梨花が指差した教室の隅。
そこには窓際の席に座り、何か小さなものを黙々と作っている玥の姿があった。
外から差し込む朝日が彼を照らし、どこか神聖さすら感じさせる。
玥も二人に気づき、手を止めて軽く手を振る。
二人は一瞬だけためらい、すぐに玥の元へ近づいた。
挨拶をしながら、彼が何を作っているのか覗き込む。
玥は気にした様子もなく、針で数回仕上げをすると、それを沙都子の前に差し出した。
それは――
巫女装束をまとった人型の羊毛フェルト人形だった。
細かい表情や顔立ちは作られていないが、髪型と体つきの輪郭は梨花によく似ている。
ただし、頭には角のような飾りがあり、人ならざる存在であることを示していた。
「こ、これ……何ですの?
梨花、これ、あなたに似てますわ!」
沙都子は恐る恐る人形を持ち、梨花に差し出す。
意外にも、梨花はそれを見た瞬間、目を見開いて固まった。
沙都子に呼ばれるまで、反応すらしない。
「……みー。確かに似てるのです。
でも、どうしてこんなものを?」
玥はすぐには答えず、じっと梨花を見つめた。
丸い瞳に、わずかに緊張した梨花の表情が映る。
「たいしたものじゃないよ。
それは護符人形。気分が悪い時や、嫌なことがあった時に、軽く突いてみて。
少しは楽になるはずだから。……君にあげるよ」
そう言って、玥は沙都子の手から人形を取り、梨花へ放る。
梨花は両手で受け取り、興味深そうに指で軽くつまんだ。
――ビクッ。
まるで逆毛を立てた猫のように、梨花の身体が一瞬震えた。
それを見た沙都子が、慌てて聞く。
「ど、どうしましたの?」
「な、何でもないのです」
「嘘ですわ! 本当に効くんですの!?
見せて! 見せてくださいまし!」
沙都子は梨花に飛びつき、まるでおもちゃをねだる子どものように騒ぎ始める。
梨花は必死に逃げ回り、人形を守る。
「まぁまぁ、喧嘩しないで。
試作品があるから、それをあげるよ」
玥はそう言って、羽ばたく小鳥の形をした羊毛フェルトを取り出し、
取っ組み合っていた沙都子に放った。
少し粗削りだが、どこかデフォルメされた可愛らしさがある。
「……!
あ、ありがとう……ございます!」
突然の贈り物に、沙都子は頬を赤らめ、しどろもどろに礼を言った。
その照れた様子を見て、玥はふと、
レナがよく言う「持って帰りたい」という感覚が分かった気がした。
――もちろん、男が口にしたら変態扱いだが。
「気にしないで。大事にしてね。
僕、昨日あまり寝てなくてさ……少し休むよ。
授業が始まったら起こしてくれる?」
そう言って大きく欠伸をすると、
玥は操り人形の糸が切れたように、机に突っ伏した。
その早さに、梨花と沙都子が反応した時には、
すでに彼は深い眠りに落ちていた。
…………
「……ここは?」
玥は周囲を見渡し、眉をひそめた。
視界のすべてを満たすのは、暗赤色の液体。
ここは廊下のようだが、足元には血溜まりが広がっている。
「……悪夢、かな?」
自分の両手を見ると、同じ暗赤色の液体で汚れていた。
説明のつかない既視感が押し寄せ、
海馬を強く刺激し、思考を拒む脳とぶつかり合って、断続的な痛みが走る。
タッ……
足音。
無限に続く廊下に、乾いた音が反響する。
音の方を見ると、数メートル先に――
自分とよく似た輪郭の泥人形が立っていた。
全身は赤い泥で作られ、
顔には目も鼻もなく、耳元まで裂けた不気味な笑みだけが刻まれている。
危険だ――。
玥は距離を取ろうと後退したが、
泥人形は人間のような動きで一気に距離を詰め、
右手に握った何かを振り上げ、玥の顔へ突き出した。
――包丁。
避けきれない。
玥は床を蹴り、腰を捻り、上体を強引に左へ倒す。
刃は紙一重で頬をかすめた。
次は、こちらの番だ。
右手で、蛇のように相手の手首へ絡みつき、
ナイフを持つ腕を拘束する。
同時に左足を踏み込み、
血の水溜まりが跳ね上がる中、
体重を乗せた右膝蹴りを、泥人形の腹部へ――
…………
「――ドン!!」
大きな音が教室に響き渡った。
玥の膝が、机の下部に思い切りぶつかり、
身体が大きく震える。
ぼんやりと起き上がった瞬間、
教室中の視線が、自分に突き刺さっていることに気づいた。
「み、みぅ……あ……」
頭がようやく再起動した頃には、
この上なく気まずい状況が完成していた。
顔が一気に熱を帯び、
まるで燃え上がりそうなほど赤くなる。
「ぶっ……ははははは!」
教室は爆笑に包まれた。
玥は両手で顔を覆い、
いっそ今すぐ自分を絞め殺したい衝動に駆られる。
「ははは!
小玥、どんな良い夢見てたんだ? 大叔父さんにも教えてくれよ」
「あぅ~!
照れてる小玥、可愛い~!」
「まぁまぁ、よくあることだよ。
そんなに気にしない気にしない」
圭一たちの容赦ない冷やかしに、
玥の顔はさらに赤くなり、
今ならやかんを置けば沸騰しそうだった。
「はいはい、そこまで!
玥くん、顔を洗ってきなさい。それから授業に戻って」
知恵留美子先生が手を叩き、授業を再開させる。
玥は逃げるように教室を出て、
洗面台で冷たい水を顔にかけた。
「寝過ごして、しかも全員に見られるとか……
もう人生詰んだ……」
もう一度水を掬い、顔にかける。
冷たさが、確かに意識をはっきりさせてくれた。
――だが。
鏡を見上げた、その瞬間。
血にまみれた二本の手が、
背後から、ゆっくりと自分の首へ伸びてくる。
刹那。
玥は振り向きざまに腕を振り抜き、
水平の手刀を背後へ叩き込んだ。
――しかし、そこには何もない。
ただ、静まり返った廊下があるだけだった。
「……気のせい、だよね。ははは……」
自分に言い聞かせるように笑う。
だが、胸の奥に残った違和感だけは、
どうしても消えてくれなかった。




