2.幽霊
「――それで、公由玥っていうんだね。雛見沢にはいつ引っ越してきたの?」
医師は世間話をしながら、玥の手に巻かれた包帯をほどいていく。
消毒が甘くて感染でも起こしたら、責任問題だ。
「はい、昨日の夜です。……っ、いだだだだ!」
ガーゼをめくった瞬間、傷口に刺すような痛みが走り、玥は思わず悲鳴を上げた。
「処置、すごく上手いじゃないか。うちで働かない? 近くの入江診療所だよ。行ったら“入江京介”を訪ねてって言えば会える。生徒の中には僕のこと“監督”って呼ぶ子もいるんだ」
そう言いながらも、入江の手は止まらない。
驚くほどの手際で薬を塗り直し、あっという間に包帯を巻き直していく。少なくともヤブ医者ではない。
「よし。玥くん、他にどこか具合は悪くない? さっき電話で、転んだとか吐いたとか聞いたけど」
入江はタオルで手を拭きながら、心配そうに尋ねた。
「大丈夫です。そろそろ授業に戻ります。初日から一時間も遅刻しましたし」
玥は立ち上がろうとするが、利き手の怪我のせいで動きがぎこちない。
「なら、これからは気をつけるんだよ。あんな白くて滑らかな手がまた傷ついたら――それは国家の……いや、全世界の損失だ! きっと無数の人が胸を痛める!」
「ふふ。そういう発言、警察に連れて行かれますよ。僕が男でも、普通にアウトですから。じゃ、失礼します」
「はは……え? ちょ、待っ――君、男……?」
入江の脳が一瞬フリーズした。
その間に、玥は保健室の引き戸を閉めて廊下へ出てしまう。
「……あの先生、面白い人だな」
玥は機嫌よく独り言をこぼす。
授業中の廊下は誰もおらず、好きなように歩ける静けさが、かえって心地よかった。
――タッ。
不意に、背後で足音がした。
玥は反射的に振り返る。
廊下の中央に、ぼんやりとした人影のような黒い“何か”が立っていた。
背丈は自分より少し低い――それ以外は、輪郭さえ判別できない。
「……ねえ。やっぱり、また会えたね。今度は何? また僕の生活を壊しに来たの?」
黒い影は答えない。
ただそこに“いた”かと思うと、霧のように薄れて、ほどなく消えていった。
「……ちっ」
玥は奥歯を噛みしめ、拳を握る。
その拍子に傷口が裂け、包帯の下から血がじわりと滲んだ。
「落ち着け、玥。深呼吸……力を抜いて……」
頭の中で何度も繰り返し、自己暗示をかける。
心拍が落ち着くにつれ、全身の緊張がほどけ、ようやく息がつけた。
再び“影”に遭遇するのを避けるため、玥は早足で教室へ向かった。
扉の上、取っ手、足元。
今度は何も仕掛けがないことを確かめてから、控えめにノックする。
「どうぞ!」
中から先生の声がした。
引き戸を開けると、教室には二十数名の生徒が座っている。見た目からして、小学生から中学生までが混在しているのが分かった。
二十組以上の視線が一斉に向けられ、さすがに玥も気まずくなる。
「玥くん、入って。皆、こちらが新しいお友達、“公由玥”くんよ。拍手で迎えてあげて」
留美子先生が率先して拍手をし、玥に前へ出るよう促した。
「えっと……皆さんこんにちは。公由玥です。中学一年で、最近東京から戻ってきました。よろしくお願いします」
教科書みたいな自己紹介。
それでも新顔の登場に、教室はそれなりにざわついた。
「公由って……村長さんの親戚か?」
「うぅっ、かわいい! かわいい! へへっ、連れて帰りたい!」
「レナ、だめ! 新しい子を連れて帰っちゃだめ!」
「でも! でもぉ!」
「だめなものはだめ!」
後列で同年代くらいの少年と少女が言い合っているのが見える。
少女はよだれまで垂らしそうな勢いでこちらを見つめ、今にも飛びかかってきそうだ。
少年は必死にそれを止めている。
「圭一くん、レナさん、授業中は静かに!」
先生に名指しされると、二人はすぐに座り直して黙った。
続いて先生は、今朝玥を保健室送りにした少女――沙都子を厳しい顔で立たせる。
「沙都子さん。今回の悪戯はやりすぎよ。玥くんにちゃんと謝りなさい」
朝の一件がよほど堪えたのか、沙都子は玥の前まで来ても怯えきっている。
「……ご、ごめんなさい」
玥は今朝の自分を思い返す。
確かに怒ったし、やりすぎたかもしれない。
これから同級生になる相手だ。ここで折れておくのも悪くない。
「大丈夫。手はちょっとした傷だし」
そう言って、利き手ではない方を差し出す。握手して和解しよう、という意思表示だ。
沙都子は怖がりながらも手を伸ばし、そっと握り返した。
「よし。沙都子さんは席に戻っていいわ。
玥くん、席は空いてるところならどこでも。後ろの方は年が近い子もいるから、休み時間に話してみてね」
玥が後列を見渡すと、さっきの騒がしい二人の他に、もう一人――一、二歳上に見える“姉御”みたいな女子がいた。
そうだ。
見ただけで分かる、言葉にしづらい圧がある。
前に住んでいた場所にも、こういう空気を纏う人間が何人かいた。
そして最悪なことに、残っている席はその姉御の左右、もしくはレナの隣だけだった。
謎の第六感が、玥に必死で告げてくる。
――レナの隣は危険だ、と。
玥は素直に直感に従い、姉御の隣に腰を下ろした。
姉御は椅子を後ろに傾け、唇を尖らせたまま、鉛筆を口と鼻の間に挟んでいる。
鷹のような目で、時折ちらりと玥を睨むように見た。
(……また面倒な人に目をつけられた? ほんと、災難を呼ぶ体質だな)
玥は自嘲気味に笑った。
この学校の授業は、実質ほぼ自習に近い。
小学生から中学生までいる以上、一人の教師が同時に全員へ教えられるわけがない。
先生は教科書を玥に渡すと、他の生徒の指導へ向かった。
分からないところがあれば、前原圭一という少年に聞くように言われる。
玥は教科書をざっと通してから、問題を高速で解き始めた。
二時間も経つ頃には、四分の一ほどを片づけていた。
「おっ? 玥くん、すごいじゃないか! 二時間でそんなに進めるなんて」
声に意識を引き戻されて、玥はようやく昼休みになっていることに気づいた。
この学校にはチャイム放送がなく、校長が廊下で鈴を鳴らして知らせるのだ。
顔を上げた瞬間――玥は自分が囲まれていることに気づく。
話しかけてきたのは、さっき後列で騒いでいた“圭一”だった。
「はぁ……どうやら、大麻煩が始まったみたいだ」
玥は首を傾げ、悪戯っぽく笑う。
可愛らしい外見と相まって、周囲の男子の目が一瞬で輝いた。
「ふっふっふ……そう! これから我々が行うのは、最も残酷で、一生の名声を左右しかねない――“自己紹介”だ!」
「おおおお!!」
中二病全開の台詞に、なぜか合いの手まで入る。
玥は笑顔を保ちながら、内心で盛大にツッコミを入れていた。
「我こそは最強無敵! “言語の魔術師”こと前原圭一! コードネームK!」
「おおおおお!!」
ポーズを決めながら淀みなく言い切る胆力。
しかも年下の男子が煽るように囃し立てる。
印象は確かに強い――悪い方向で。
「ふっはは! Kねえ、確かに印象は強いわ。大人の私にはまだまだだけど!」
突然の笑い声。
姉御が圭一の背後から姿を現し、続けて名乗った。
「私はクラス委員長兼、ゲーム部の女王――園崎魅音! 魅音って呼んで!」
玥の胸の奥で、ツッコミの炎が勢いよく燃え上がりかけた。
「竜宮レナ(Rena)です。よろしくね」
「古手梨花なのです。みぱ☆」
「わ、わたしは北条……沙都子です。よろしくお願いします……」
…………
皆がそれぞれ普通だったり癖が強かったりする自己紹介を終えると、魅音が指を伸ばし、玥の頬を指さした。
「さあ言いなさい! 小玥、誰が一番印象に残った?」
「それなら……沙都子、かな」
玥はそう言って、できるだけ人の陰に隠れようとしている沙都子を指さした。
「「ええええ!?」」
クラス全体――沙都子本人まで驚く。
だが玥が包帯を巻いた手をすっと持ち上げた瞬間、教室は一度、静まり返った。
「ねえ、沙都子。ちょっとこっちに来て」
玥は肘を机につき、頬杖をつく。
口元は笑っているのに、目はほとんど笑っていない。
次の瞬間、群衆がまるでモーセの奇跡みたいに左右へ割れ、玥と沙都子が向かい合う一本道ができた。
沙都子は全身が震えているのが見て取れる。
たった三歩の距離を進むのに、数十秒もかかった。
「おい! 沙都子に何する気だ!」
圭一が叫び、前に出ようとするが、魅音がさっと腕で制した。
何か言い返そうとした圭一も、魅音が人差し指で“静かに”と合図するのを見て黙る。
外からは蝉の声だけが聞こえる。
皆が固唾をのんで、二人を見守っていた。
「……さっき許したって言ったけどさ。正直、すごく痛かった。
これ、謝って終わりって話じゃないよね?」
玥の声は静かで、底なし沼みたいに粘つく。
一言一言が、人をゆっくり深淵へ引きずり込むようだった。
玥が拳を、ゆっくりと沙都子へ差し出す。
空気が極限まで張り詰める。
――次の瞬間。
拳は沙都子の額の手前、わずか一センチで止まり。
人差し指が、額を軽く弾いた。
「……え?」
沙都子は理解が追いつかず、間の抜けた声を漏らす。
「はい、これでおあいこ! 沙都子、悪戯は加減を覚えようね!」
玥の声が一気に軽くなる。
無機質だった表情は、天使みたいな笑顔に変わっていた。
その落差に、沙都子はまるで泥沼から救い上げられたような気分になり、堪えきれず泣き出してしまう。
「……あ、やりすぎたかも」
玥は頭を掻き、苦笑する。
これでは自分が泣かせたみたいだ。なんとか弁解して場を収めたい。
するとレナが沙都子の横に立ち、優しく頭を撫でながら玥に言った。
「ううん。玥、すごく良かったよ。今回は本当に危なかったし、悪戯の“上限”を覚えるのって大事だもん」
「そうだそうだ! 俺なんて転校初日に石ぶつけられて、三日間ずっと痛かったんだぞ! 三日間ずっとうつ伏せで寝るしかなかったんだ! どれだけ辛いか分かるか! 今日やっと罰が当たったな、沙都子ぉ!」
圭一も大げさな身振りで語り、教室の空気を一気に明るくしていく。
“言語の魔術師”は伊達ではないらしい。
「それは圭一が悪いですわ! ちゃんと冷やせば一日で治るのです! わたくしのせいじゃありませんの!」
沙都子は涙を腕で拭い、圭一を指さして舌を出す。
さっきまでの怯えが嘘みたいに、表情が明るくなっていた。
「くそぉ! 沙都子、お前、罰が足りねえ! 次は三日寝られねえくらい額を弾いてやる!」
「おーっほっほっほ! 小さな圭一、捕まえてから言いなさいませ!」
二人が教室内を追いかけっこし始め、周りの子どもたちが応援まで始める。
玥はようやく胸を撫で下ろした。さっきの件で悪い噂が立たないといいが。
その時、梨花がひょこっと顔を覗かせ、玥にぺこりと頭を下げる。
「みー。沙都子を助けてくれてありがとうなのです」
「助けたかな? たぶん、まだ僕のこと怖いと思うよ。さっき泣いてたし」
冗談めかして言いながら、玥は梨花を観察する。
沙都子と同じくらいの年に見えるが、どこか落ち着きがあり、静かな重みがあった。
会話を聞いていた魅音も、玥の前に来て言う。
「実はね、沙都子はあなたが保健室に行ってからずっと怖がってたの。朝は全然元気なかった。
でも今こうして圭一と騒げてるってことは、もう大丈夫ってこと。――つまり、小玥のおかげよ」
「たまたま思いついただけです。そんなに褒められると、耐えられないって」
「それより! まだ昼休みは終わってないよね! ってことは――」
魅音は急に声色を変え、教室全体に向かって叫んだ。
「み・ん・な! “新入生Q&A”を始めるよ~!」
「……え?」
玥が間の抜けた声を出した瞬間、人だかりが再び押し寄せる。
玥は苦笑しながら、現実を受け入れるしかなかった。




