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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

落とした財布を返せなかった僕が、同じ電車で彼に出会うまで

作者: 神谷嶺心
掲載日:2026/01/10

コンビニのコーヒーの香りが、まだコートの袖に残っていた。


スマホを見ながら、ゆっくり歩く。

まるで、世界を見ないようにするための言い訳みたいに。


駅のホームが、ビルの隙間から見えてきた。

空は澄んでいたけど、空気には緊張の朝の味がした。


その時、彼が僕の前を通り過ぎた。


背が高くて、髪は整っていて、甘い香りがした。

ゆっくり歩いているのに、どこか急いでいるような雰囲気。


そして、財布が落ちた。


乾いた音が地面に響いた。

彼は気づいていない。


僕は立ち止まった。

財布を見て、彼を見た。


心臓が、まるで罪を犯したかのように高鳴った。


「声をかけよう。」

「やめよう。」

「ただ返すだけ。」

「変に思われたらどうしよう…」


そっと財布を拾った。

淡い色の革で、端に小さな傷があった。


彼はそのまま歩き続ける。

僕は財布を持ったまま、

秘密を抱えているみたいに後ろをついていった。


声をかけようと思ったけど、

体が言うことを聞いてくれなかった。


彼の香りに包まれて、

心はふわふわしていた。


まるで、彼に抱きしめられているような気がして。


「だめだ、妄想はやめよう…」


駅まであと少し。

距離はどんどん縮まっていく。


「いける。もうすぐだ。

電車に乗るなら、止まった時に渡せるかも。

でも…電車じゃなかったら?

どうしよう…声をかけて!」


顔が熱くなる。


スマホを取り出して、カメラを開く。


真っ赤だった。


「恥ずかしい…」


「こんな顔じゃ無理だ。

絶対笑われる…」


彼は階段の方へ曲がり、

手すりに手を添えて、ゆっくり降りていった。


「よし!…いや、違う。

でも、顔が落ち着いたら話せるかも。」


僕は彼の後ろを、

少し距離を保ちながら歩いた。


気づかれないくらい遠く、

でも香りが届くくらい近く。


彼はホームの端に立ち止まった。


背筋が伸びていて、肩幅も広い。


「またスマホ見ないと。

顔、赤くなってる気がする…」


「もう関係ない。

財布を返さなきゃ!」


彼の後ろに近づいたけど、

すぐに横に並んで立ってしまった。


何もできなかった。


近くで見ると、もっと綺麗だった。

どうやって顔を見て渡せばいいんだろう。


「何度か見れば慣れるかも。

それで勇気が出るかも。」


そうだ。作戦開始。


横目で見る。

頬のライン、顎の形、唇の厚み、目の奥まで…


「あっ、やばい…目が合った!」


どうしよう。


前を向いて、髪をいじって、顔を隠す。


でも、僕が見ていたことはバレてる。


「変に思われてないといいけど…」


電車の音が近づいてくる。


――シャアァァ――


「先に乗ってもらおう。

見られたくない。」


「でも、今がチャンスかも。」


彼が片足を車内に踏み入れた瞬間、

僕は近づいて、腕を伸ばした。


でも、声が出なかった。

喉が乾いて、心臓が暴れていた。


彼が振り返る。

縦のバーに手を添えて、僕の正面に立つ。


そして、僕を見る。


腕を伸ばしたまま、口を開けたまま。

変なポーズで固まっていた。


恥ずかしすぎて、

すぐに近くの空いている席に移動した。


気づけば、彼の正面に座っていた。


前髪の隙間から、下を向いたまま。


何度か、彼が僕を見ていた。

でも、目を合わせる勇気はなかった。


いくつかの駅を過ぎて、

彼が降りる準備をしているのが見えた。


でも、僕の降りる駅じゃない。


「今しかない。

話さなきゃ!」


ドアが開く。

彼はゆっくりと外へ歩いていく。


まるで、何かを待っているように。


僕は走って降りた。

つまずいて、彼の背中に手をついた。


すぐに離れて、謝った。


汗だくで、震えていて、

まるで体の中で地震が起きているみたいだった。


「財布!たぶん…あなたのです。」


彼は受け取って、見て、微笑んだ。


「僕のだね。

でも…返すの、遅かったね。」


僕は足の先まで真っ赤になった。

まるで、血が全部顔に集まったみたいに。


「ごめんなさい…

勇気が出なくて…」


彼はまた、ゆっくり笑った。


「じゃあ、明日返して。

同じ電車で。」


そう言って、歩き出した。


僕を残して、

心臓が落ちそうなくらい高鳴るまま。


彼は人混みに消える前に振り返った。


「気づいてくれて、ありがとう。」


そして、

まるで最初から見られることを知っていたみたいに、

微笑んだ。

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