第35話 クズな彼女と生還する
びちゃり、と。何かが弾けた音が聞こえる。
足元の指が動き出し、散乱していた眼球を潰す音だった。
嘘だ。ここにある眼球は全部、プラスチックのはずなのに。
なのにどうして、水風船のように圧し潰すことが出来るんだ――!?
赤は、血の色。
血は、赤色。
武道場は破裂した眼球から、大量の血液を流し始めた。
まるで首を刎ねた後の処刑場だ。これでもう、演出だなんて疑うことは不可能。
俺たちは、この『呪い』に組み込まれてしまったんだ。
「……名雲、さん! 早く、ここから出るぞ!」
制服を血の雨と波で濡らしながら、椅子に座っている名雲さんを立たせる。
目の前の女は俺を見ても、微動だにしない。
俺を、『見て』も?
いや、違う。
俺が、『見えない』んだ。
「カエシテ」
血まみれの女の顔には、大きな二つの穴が開いていた。
鼻の上。眼窩にはそこに収まるべき球体が無くて。
底知れぬ暗い闇が、俺と名雲さんを睨みつけていた。
「走るぞ、夏菜!」
俺はヘッドフォンを剥ぎ取って、名雲さんの脚と背中に手を回して抱き上げる。
名雲さんは耳元で泣きながら絶叫していたが、慰める暇は無い。
足を絡めとるように、血が行く手を阻む。
全ての体力を使い果たす覚悟で、俺は無理やりにでも両足を動かし続け、そして。
「う、わぁっ!?」
出入り口の扉を開けると同時に、名雲さんと一緒に廊下に飛び出した。
誰も居ない廊下には、上階からバンド演奏の音だけが響く。
振り返ってみるけれど、そこには受付の銀髪少女はおらず、扉の先に見える武道場は、赤い照明も、眼球も、血も、あの女も居なくて。
採光窓から射す日光が、穏やかな秋の日常を見せつけていた。
「……白昼夢? いや、悪夢だったのか……?」
制服は濡れていないし、腕の中には名雲さんが確かに居る。
「……空見君。ごめん。これ、取ってくれないかな」
名雲さんは腕を動かす気力もないのか、俺にアイマスクを取るように頼む。
お姫様抱っこ状態だったことに気付き、俺は優しく彼女を床に降ろしてからアイマスクを取ってあげようとするが。
「ほら。空見君が、遅かったから」
その間際に、名雲さんが笑いを堪えるように呟く。
不審に思いながらもアイマスクを取ってあげると、そこには。
「私の『眼』、あの人に取られちゃった」
あの女と同じ空っぽの眼窩を見せつけて、名雲さんは口元を歪ませる。
俺が声も出せずにいると、激しい頭痛に見舞われた。
視界が一瞬白んで、世界が歪む。だけどそれも一瞬のことで。
それが幻覚だったと、すぐに気付いた。
目を閉じていた名雲さんが、ゆっくりと瞼を上げる。
そこにはちゃんと、『眼』がある。どうやらこっちが現実……らしい。
「……空見、くん?」
いつもの声と、見慣れた表情に心から安堵する一方で思う。
アイマスクを取るように指示した声と、あの顔は――。
本当に、幻覚だったのだろうか? と。
***
体育館の外に出て、俺たちは自販機コーナーで一息ついた。
「名雲さん、どこまで記憶がある?」
俺はいちごオレを、名雲さんはスポーツドリンクを飲みながらあの出来事を振り返る。
「君と一緒に……武道場を出るまで、かな。外の光を見た途端に、安心感で気が抜けちゃったのかもしれないね」
「……そうか。二人揃って、変な夢を見ていたのかな」
「そうかもね。文化祭は『祭』であって、『祀り』でもある。そして今日は一般公開日で、文字通り『外側』の存在が集まる日だ。私たちはあの銀髪少女と、眼の無い女に……生贄にされかけたわけだね」
声色こそ余裕そうだが、名雲さんの表情は暗い。
鷹森高校の周辺地域に伝わる、飛久比の怪談。
まさか、身をもって体験させられることになるとは思わなかった。
「でも、昨日もあのお化け屋敷は公開されていて、生徒たちの間で話題になっていたんだろう? もっと大騒ぎになってもいいはずだけど」
「昨日は校内公開という名目のリハだからね。【喪失ノ眼】も、今日のために準備をしていただけかもしれない。そして私たちがまんまと引っかかった……っていう感じかな」
人を誘い込むために、人の日常に紛れ込み、入念な下準備までしているのか。
真の意味での怪談であり、怪異そのものだな。
「とりあえず……この事は忘れよう。それから、他言無用で。無事に帰って来られただけで十分だ」
あの白い着物の女に生かされただけ、かもしれないが。
己の存在を忘れさせないために。あるいは、憎しみを後世に伝えるために。
あの女は銀髪女子と共に、文化祭の度に誰かを誘い込んでいるのかもしれない。
「いいや、忘れないよ」
だけど名雲さんはスポーツドリンクを一気に飲み干して、楽しそうに笑う。




