飯より君が気になる
馬の蹄が乾いた音を立てて石畳を踏みしめる。
街の門をくぐったその瞬間、フィオナ・レイルは革手袋を外し、軽く頬を撫でた。春の風が頬にやさしく触れる。鼻先をかすめるのは、焼き菓子の香り、革の匂い、そして人の気配。
「……いい匂いのする町じゃない」
やや濃い目の赤髪が、風にふわりと揺れた。
肩より少し長く、素朴な三つ編みにまとめているが、光に当たると燃えるような深紅が浮かび上がる。旅を続けて鍛えられた体つきに、焦げ茶色の革ベストと白シャツを合わせ、腰には火打石と鍋用の魔道具をぶら下げている。
この町で、しばらく腰を据えて商いをする――その決意と共に、彼女は後ろを振り返った。
二台の馬車が、まるで相棒のように控えていた。
片や厨房用の道具や鍋が詰め込まれ、もう片方には木製の折り畳みカウンターと、客用の椅子、布張りの屋根用パーツがきちんと積まれている。
「さて、“旅路の鍋亭”、この町でも喜んでもらえるといいけど……」
小さく呟き、彼女は手綱を握り直す。
* * *
「えーと、旅商人で、屋台営業をご希望と……?」
木製の受付台の向こうで、ギルド職員の青年が眉をひそめた。
「はい。正式な手続きを踏んで、きちんとした形でやりたいんです。いまは許可証と、営業区画の空き状況、それから水場の使用申請も……」
フィオナは慣れた調子で、書類を一枚ずつ机に並べていく。
ただ、ここは初めて訪れる町だ。噂では小規模ながら交通の要所で、人通りも多く、衛兵や騎士団の治安管理も厳しいらしい。
「ふむ……この辺りで火を扱う屋台は少ないですから、規制もやや複雑でして。火災防止のため、火の魔術の使用も届け出が――」
「《着火》しか使いません。調理用の簡易術です」
「はあ、しかし確認が……」
ぎこちなくやり取りを続ける二人の前を、重たい足音が横切った。
鎧のこすれる音。金属と革の存在感を感じさせるその足音に、フィオナは無意識に目を向けた。
現れたのは、背の高い男だった。
黒髪を短く刈り上げ、厳しい目つきをしている。騎士の制式装備を纏い、肩のプレートには家紋らしき刻印。だが、装飾の類いは最小限。無駄を省いた武人の装いだ。
彫りの深い顔立ちに、無言の威圧感――見る者を寄せつけない壁のような雰囲気があった。
男は一瞬だけ立ち止まり、受付に視線を送る。
目と目が合ったわけではない。けれど、その鋭さはフィオナの体温を一瞬だけ下げたような気がした。
「……女一人で、屋台か」
それだけ言って、男は再び足を進めた。
その背中は、町を護るために鍛えられたもの――どこか遠くにいるような、そんな印象を与えた。
だがフィオナの脳裏には、そのたった一言が妙に引っかかる。
別に、偏見には慣れている。力のない料理人が、旅先で稼ぐには屋台が一番なのだと知っているから。
「見下してるわけじゃない。むしろ、心配してるんでしょうね」
ぽつりと呟いた声が届いたかは分からない。
黒髪の騎士は、まっすぐギルドの奥へと姿を消していった。
その背中を見送りながら、フィオナは小さく息を吐き、再び書類に向き直る。
今日、この町で「旅路の鍋亭」を開く。その決意に揺らぎはなかった。
* * *
許可証を胸元の革ポーチに収めると、フィオナは馬車を引いて町の西側、広場に面した石畳の一角へと向かった。
空き区画はちょうど二台分。通りに面しているが、奥に水場もあり、立地としては申し分ない。
ここなら、人の流れに沿って、香りも届くだろう。そうなれば、興味を持って近づいてくる客もきっといるはずだ。
「さて、準備開始っと……」
フィオナは腕まくりをすると、慣れた手つきで馬車の留め具を外し、側面をぱたんと開いた。
重ねられていた木製の板を広げ、片側に長いカウンターを作る。もう一台の馬車には、鍋、調味料棚、食器用の籠がぎっしりと詰められている。
布製の屋根を張り、支柱を立てると、淡い橙色のランプを吊るした。
テーブルクロス代わりの厚手の布を敷き、調味料壺や木製スプーン、焼きたてのパンを載せた籠を並べていくと、次第に空気に「屋台らしさ」が宿っていく。
「……よし、次は鍋ね」
彼女は背後の馬車に積んでいた大鍋を、両腕で抱えて持ち上げ、火台の上にそっと据えた。
その鍋は旅の途中、鍛冶屋に無理を言って作ってもらった特注品だ。熱が均一に伝わり、煮込みに適している。
鍋にたっぷりの井戸水を張る。
布袋からは、じっくりと燻製にした干し肉。油と旨みが凝縮されたそれを、包丁で厚めに刻むと、ふわりと香ばしい匂いが立ちのぼった。
続けて白豆と赤豆を混ぜ、軽く洗ってから鍋に投入。
乾燥ハーブを掌でこすり合わせ、香りを立たせてから振り入れる。少量の岩塩と、仕上げにトマトのピューレをひとさじ――
「《着火》」
指先に魔力をこめ、火石の隅をそっとなぞる。
パチ、と小さな火花が散り、薪に火が移る。炎は穏やかに鍋底を温め、すぐにことことと泡が立ち始めた。
町のざわめきのなかに、香りが溶け出していく。
豆と干し肉が煮える音。やさしい湯気。夕暮れの空に、ほのかに橙色が差し始める。
だが――
広場を行き交う人々は、香りに気づいても足を止めはしなかった。
旅人、商人、衛兵、老夫婦、子どもたち。誰もが「気になる」素振りを見せながらも、視線を投げかけるだけで通り過ぎていく。
慣れているとはいえ、少しばかり心が折れそうになる時間だった。
「ま、最初はね。どこもこんなもんよ……」
自嘲気味に笑って、自分のために小皿へ一杯よそおうとした、そのとき。
重たい足音が聞こえてきた。
ギルドの受付で見かけた、あの黒髪の騎士が、鎧を着たまま無言でカウンターの前に立っていた。
じっと鍋の中を見つめ、香りを嗅いでいる。
目元は鋭いが、どこか懐かしそうでもあった。
「……他に、食べる場所がなかっただけだ」
低く、くぐもった声。まるで言い訳のようなその一言に、フィオナはふっと口元を緩めた。
「はいはい。どうぞ、まずは温かい豆と干し肉の煮込み。パン付きです」
湯気を立てる陶器の器を差し出す。
彼は黙ってそれを受け取り、片手でパンをちぎりながら、慎重に口へ運んだ。
一口、二口。静かに咀嚼し、目を閉じる。
噛むたびに、干し肉の塩気と豆の甘みが溶け合い、舌に馴染んでいく。
何も言わない。けれど、スプーンの動きは止まらなかった。
やがて器は空になり、パンもすべて平らげた彼は、懐から銀貨を一枚、静かにカウンターの上に置いた。
「……明日も、来る」
短くそう告げて、彼は背を向けかけたが――ふと、思い出したように足を止めた。
「クラウス・ベルンハルト。騎士だ。町の治安も管轄してる」
それだけ言って、再び歩き出す。
その後ろ姿は、やはりどこか遠くに感じられた。
けれど、名を名乗ってくれた――それは、ささやかな前進だった。
「フィオナ・レイルよ。よろしく、クラウス」
静かに、湯気立つ鍋をかき混ぜながら、彼女は初めてその名を口にした。
* * *
翌日も、日が傾きかけた頃だった。
「旅路の鍋亭」のランプに火を灯した瞬間、重たい足音が聞こえてきた。
「こんばんは、クラウスさん」
フィオナが声をかけると、彼は無言で頷くだけだった。
変わらない表情、変わらない足取り。だが、カウンター前に立つ姿はどこか落ち着いて見えた。
今日の献立は、昨日の豆と干し肉の煮込みに加え、新しく仕込んだ「鶏と根菜の白湯スープ」。
鶏ガラから取っただしをベースに、大根、人参、キノコを柔らかく煮込んだ、優しい味わいの一品だ。
「今日は、少しあっさり目。鶏と野菜のスープよ。よかったら」
差し出すと、クラウスは短く、「ああ」とだけ答えて腰を下ろす。
カウンター越しに器を受け取るその手は、鍛え抜かれた分厚い指をしているのに、陶器を扱うときはどこか丁寧だった。
スプーンですくい、口に運ぶ。ふっと鼻から息を抜く音が微かに聞こえた。
どうやら、気に入ってくれたようだ。
「……昨日のも、悪くなかった」
「それはどうも」
ぽつりとした感想。けれど、それは彼なりの精一杯の褒め言葉なのだと、フィオナにはわかった。
言葉は少なく、食べ終わるとまた銀貨を置いて去っていく。
それでも、毎晩同じ時間に現れるようになったその習慣が、やがて町の人々の目にも留まり始めた。
「……あの騎士様、また来てるぞ」
「毎日同じ時間に? あの無愛想な?」
そんな声を横耳に聞きながら、フィオナは鍋の火を整えた。
数日経ったある晩のことだった。
クラウスの隣に、もう一人の男が座った。軽装の鎧を着た、栗色の短髪の若い騎士。ひょうきんな笑みを浮かべながら、カウンターに肘をついてくる。
「やあやあ、話には聞いてたけど、ここが噂の“鍋亭”か」
フィオナが首を傾げると、男は指でクラウスを指し、「こいつが毎晩ここに通ってるから、気になってな」と言った。
「初めまして、ライル・フォードっていいます。こいつの同期で、あっちは口数が少ないぶん、代わりに俺が話す係でして」
フィオナは思わず笑ってしまった。
「いらっしゃいませ。今日は豆の煮込みもスープもありますけど、どちらにします?」
「どっちもで!」
にこにこと答えたライルに、二品を出すと、彼は感嘆の声を漏らしながら食べ始めた。
「うん、これはいい。騎士団の食堂じゃ出てこない味だよ、ほんとに。なあクラウス?」
クラウスは黙ったまま、スプーンを口に運び続けていた。
だが、彼の目元はわずかに柔らいでいた。
「こいつ、実は味にうるさいんだよ。好き嫌いはないけど、舌は正直。まずいもんは二度食わない主義だ」
「へえ。じゃあ、うちの鍋は……?」
ライルがにやりと笑った。
「うん。気に入ってる証拠だよ。こいつ、飯だけは正直だから」
フィオナは、鍋をかき混ぜながら笑みを浮かべた。
言葉が少なくても、伝わるものはある。
料理は、言葉よりも雄弁だ。
* * *
その夜、鍋は早々に底をついた。
豆と干し肉の煮込みも、鶏の白湯スープも、すべて完売。
客たちは満足げに笑いながら帰っていき、ライルも「明日は三品目を頼むよ」などと冗談めかして去っていった。
クラウスは今日も言葉少なく食事を終え、最後に一言だけ、「明日も」と残して背を向けた。
広場の灯りが次第に薄れ、町が夜の帳に包まれ始める。
屋台のランプを少しだけ絞り、フィオナは残った洗い物を片付けながら、ふう、と息をついた。
「今日も、よく頑張った……っと」
そのときだった。
通りの奥――路地の向こうから、甲高い叫び声が聞こえた。
「だ、誰か――! 助けて!」
フィオナは思わず顔を上げる。
聞き覚えのある子どもの声だった。昼間、パンの耳を分けてやった少年――その名を呼ぶ間もなく、彼が飛び込んできた。
「お姉ちゃんっ! 変な人たちが、商人の荷車を襲って……!」
言葉の途中で、何かが砕ける音。怒号。複数の足音。
商人を狙った小規模な盗賊団か。あるいは町に潜んでいた浮浪者の暴徒化か。
フィオナは一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。
でも――手をこまねいている暇はない。
少年の背中をかばいながら、ランプの光を強め、カウンター裏から取り出した小瓶を握る。
中には火を増幅するための燃焼液。鍋の加熱にも使うが、使い方次第では……相手を威嚇することもできる。
路地の向こうから、男が一人、よろめきながら現れた。
顔に布を巻き、ナイフを手にしている。フィオナを見て、口元が歪んだ。
「……女一人、屋台か。ちょうどいい、腹も減ってる」
彼が一歩踏み出す。
そのとき、風を裂く音と共に、鋼の冷気が走った。
ギン、と音を立てて、盗賊のナイフが弾かれる。
男がよろけた拍子に地面へ転がり、目を見開いた。
「……あ?」
フィオナが息をのんで見た先――そこにいたのは、
黒髪の騎士、クラウス・ベルンハルトだった。
「退け」
その一言は、空気すら震わせるようだった。
剣を片手に、クラウスが前に出る。
鎧の隙間からはわずかに血が滲んでいたが、目には迷いがなかった。
後方の路地から、さらに数人の男たちが現れる。
棒や鉄片を手に、包囲しようとする構え――けれど、彼は一歩も引かなかった。
「貴様ら、ここがどこかわかっているのか。この街で刃を振るえば、そのまま牢だ」
「ちっ……騎士かよ……!」
盗賊たちは一瞬だけ睨み合ったが、結局逃げ出した。
クラウスは剣を下ろし、息を整えると、フィオナの方へと歩いてくる。
「……無事か」
「ええ……なんとか。でも、腕……」
クラウスの左腕の袖が破れていた。血が滲んでいる。
「かすり傷だ」
そう言いながら、彼はふと、ランプの灯りで照らされた鍋を見た。
蓋がずれ、残っていた煮汁が地面にこぼれている。
「……悪い」
そのひと言に、フィオナは思わず吹き出した。
「謝るなら、もっと優しく言えばいいのに」
彼は少しだけ視線をそらした。
「明日……鍋は、やってるか」
その問いに、フィオナは少しだけ考えてから――
「さてね。材料が残ってれば、考えるわ」
いたずらっぽくそう答えた。
* * *
夜が明けても、広場にはかすかに火薬と焦げの匂いが残っていた。
屋台「旅路の鍋亭」は、その朝、ひっそりと沈黙していた。
鍋の蓋は片側にずれ、中にあったスープはすでに冷たくなっている。
昨夜の騒動で鍋が傾き、煮汁は半分以上が石畳にこぼれ落ちていた。肉片と豆が地面にくっつき、夜露に濡れてしおれている。
支柱の一部も外れ、布張りの屋根は中途半端に垂れ下がったまま。
ランプのひとつは割れ、焦げ跡が屋台の隅に黒く残っていた。
フィオナは、濡れ布で黙々とカウンターを拭いていた。
洗い物は終わっていた。鍋も軽く磨いた。だが、どうしても心が晴れなかった。
彼女の手が止まる。ふと、手元の調味料壺が一つ、欠けているのに気づいた。
「……お気に入りだったのに」
ぽつりと漏らす声は、誰にも届かない。
それは怒りや悲しみではなく、ぽっかり空いた胸の奥から湧いた寂しさだった。
鍋を火にかけることすらせず、彼女は屋台の椅子に腰を下ろした。
思えば、ここに来てから毎日、鍋に火を灯すことで自分を保ってきた。
煮える匂い、人の声、食器の音――それらすべてが、フィオナにとって“日常”だった。
けれど今は、何も煮えていない。
湯気のない朝。鍋の沈黙。通り過ぎる人々の目線が、わずかに気まずそうに逸らされていく。
「昨日の屋台、大変だったらしいぞ」「怪我人も出たってな」
そんな噂が通りのあちこちでささやかれているのを、彼女の耳は静かに拾っていた。
彼女は無言で立ち上がり、鍋の蓋を手に取る。
鍋に残っていた冷めたスープを見下ろして、ふう、と息を吐いた。
そのとき。
「おーい、お姉ちゃん!」
振り返ると、昨日の少年が走ってきていた。
元気そうな顔で、パンを片手に笑っている。
「昨日はありがとな! オレ、逃げるときに転んでさ、でもあの騎士の人とお姉ちゃんが助けてくれて……」
言葉を重ねるうちに、彼はふと、屋台の様子に気づいた。
「……もう、やんないの?」
その問いに、フィオナは少しだけ口元を引き結び、曖昧に肩をすくめた。
「どうしようか、考えてるとこ」
少年は、ふーん、と口を尖らせて、ポーチから小さな包みを取り出した。
中には、家から持ってきたらしいハーブと、母親が焼いたと見える薄焼きのクラッカーが入っていた。
「これ、もらったパンの代わり。ぜったいまたやってね!」
少年はそれだけ言って、駆け出していった。
その背中を見送りながら、フィオナは手の中の包みを見下ろす。
小さく、けれど温かな何かが、胸の奥でふわりと広がった。
* * *
午後になっても、鍋に火は入らなかった。
広場には人の流れが戻り、屋台の前にも時折足を止める者がいた。だが、「旅路の鍋亭」は、今も沈黙を守っていた。
支柱は修理され、布屋根も張り直されている。だが、カウンターの奥には、まだ鍋の影すら見えない。
フィオナは屋台の隅で、膝を抱えたように座っていた。
心に渦巻いていたのは、恐れだった。
もう一度鍋に火を入れても、昨日のようなことが起こるのではないか。
また誰かが傷つくのではないか。自分の場所が、災いの種になるのではないか。
「……考えすぎよね。わかってるのに」
小さく呟いても、答えてくれる鍋は、今日は静かだった。
そのときだった。
「よっ、お疲れさん。まだ再開してないのかい?」
陽気な声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、ライル・フォードがこちらを覗き込んでいた。
普段より軽装で、手には紙袋をぶら下げている。
「ほら、差し入れ。パン屋で買ってきた。あんたのとこの鍋に合いそうだったからな」
そう言って、彼は袋をカウンターに置いた。中にはバターを塗ったハーブロールが数個と、チーズ入りのブレッドスティック。
「昨日は大変だったな。でもよ、みんなあんたの料理、楽しみにしてたぜ。俺なんか、もう禁断症状出てきた」
冗談めかして笑う彼の後ろに、数人の町人が立っていた。
老人が一人、帽子を胸に抱え、婦人が手にカゴを持って、遠慮がちに屋台を見ている。
「……やってないんですか?」
その一言に、フィオナは立ち上がった。
表情はまだ曇っていたが、目に宿る色は変わり始めていた。
「材料……買ってきてある?」
「もちろん。あと、鍋もちゃんと洗ってあるだろ?」
ライルが笑う。
フィオナは彼の笑みに応えるように、そっと笑みを返し、エプロンの紐を締め直した。
「じゃあ……火をつけましょうか」
彼女は鍋に水を張り、干し肉と野菜を刻み始めた。
手元は震えていたが、それでも包丁は止まらなかった。
香草をつぶし、塩をひとつまみ。
そして――
「《着火》」
小さな火が薪に灯る。
鍋がまた、音を立てて、息を吹き返す。
広場に、昨日と同じ匂いが、少しずつ戻っていく。
誰かが拍手をし、誰かが「また食べられる」と声をあげた。
フィオナはカウンター越しに一礼し、手を止めずに鍋をかき混ぜた。
再び始まった、“旅路の鍋亭”。
人々の笑い声と鍋の音が、町の空気をまた少し温かくする。
* * *
夜が近づく頃には、屋台の前に人の列ができていた。
香ばしい匂いに誘われ、昼の騒動など忘れたように人々は鍋を囲み、笑い声と湯気が広がっていく。
だが、フィオナの手元にはもう一つ、小さな鍋があった。
それは、カウンターの奥の木箱の中で、誰にも見られないようにそっと火にかけてある。
中身は、今日だけの特別仕込み――
牛すね肉をじっくりと煮込み、赤ワインと香草、トマトペーストでゆっくり味を染み込ませた一皿。
玉ねぎはとろとろになるまで炒め、ソースに溶かし込んだ。
仕上げに刻んだハーブと胡椒をほんのわずかに振り、香りを閉じ込める。
ごろりとした肉の塊。スプーンで崩れる柔らかさ。
日持ちはしない、素材も贅沢――だからこそ、ひと皿だけの贈り物だった。
(あの人が、また来るなら)
彼女はふと、手を止める。
鍋から立ちのぼる香りのなかで、胸の奥がほんの少し、熱くなる。
すると、不意に聞き慣れた足音が近づいてきた。
鉄靴が石畳を踏む音。
静かで、まっすぐで、重たい足取り。
クラウス・ベルンハルトが、変わらぬ表情で屋台の前に現れた。
昨夜の騒動を経ても、彼は以前と同じように、言葉少なにカウンターの椅子に腰を下ろした。
ただ、腕には新しい包帯が巻かれ、所々に血がにじんでいた。
「……来てくれて、ありがとう」
フィオナはそっと言って、奥の小鍋から皿をひとつ取り出した。
「今日は、特別メニュー。数量限定、一皿だけの牛すね肉の赤ワイン煮込みよ」
クラウスは目を細め、短く「ああ」とだけ答えた。
器の中、濃いルビー色のソースがゆらゆらと揺れている。
肉の塊は、フォークを入れるまでもなく、スプーンですっと崩れた。
ひと口、口に運ぶ。
フィオナは彼の顔をじっと見ていたが、彼はゆっくりと、目を閉じた。
静かな咀嚼。息を吐くように漏れる、小さな安堵の気配。
「……これは」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
代わりに、器を最後の一滴まで拭い取るように、パンで丁寧にぬぐった。
「気に入った?」
「……悪くない」
それは、この男にしては最上級の称賛だった。
「ふふ、ありがとう。もう少しだけ、豪華な台所があればね。ワインソースももう一段階いけたのに」
「十分だ。……むしろ、鍋ひとつで、よくこれを出せたな」
クラウスがそう言って、初めてわずかに口元を緩めた。
その表情に、フィオナは胸がふっと温かくなるのを感じた。
* * *
器を片付け終えたフィオナが、ふとランプの芯を整えていると、クラウスはその手元をしばらく眺めていた。
静かな時間。火の揺らぎと、夜の空気。
騒がしかった広場が落ち着きを取り戻し、屋台の前に立つのは、彼一人となっていた。
「……あのとき」
唐突に、クラウスが口を開いた。
「盗賊の刃が向いたとき、お前……少年の前に立ったな」
「え?」
フィオナは驚いて顔を上げる。
「腕に、火の瓶を構えてた。……あれは、料理用だろう」
彼の声には、いつものような重さがあった。でも、その奥に、ほんのわずかな温度が宿っていた。
「正直、止めに入る前に焦った。……でも、見てた。お前の手が、震えてなかった」
「……震えてなかったというか、もう、どうにでもなれって気持ちだったのよ」
フィオナは苦笑した。
「怖かったけど、あの子が泣いてたから。鍋が燃えても、火を使ってるのが私なら、せめて守らなきゃって」
彼女の言葉に、クラウスはほんの一瞬だけ視線を伏せた。
それから、まっすぐに彼女を見つめる。
「お前の料理は、うまい。味がどうこうより……腹の底に残る」
フィオナは、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、やってる甲斐があるわ」
クラウスは、言葉を選ぶように、ひと呼吸おいてから言った。
「……だったら、いっそ――」
彼は小さく息を吐き、言葉を切り、再び口を開いた。
「俺の家で、作ってくれないか。毎日とは言わない。けど……」
その続きを、彼は言わなかった。
無骨で、ぶっきらぼうで、不器用なその人なりの精一杯の言葉。
フィオナは目を丸くしたまま、しばらく何も言えなかった。
だが、すぐに眉を下げて、くすりと笑った。
「クラウス、そういうのはね、もっとちゃんとした形で言うもんなのよ」
言いながら、彼女はカウンターの奥に手を伸ばし、ほんの少しだけとっておいた赤ワインソースの小瓶を取り出す。
「それでもいいなら……条件があるわ」
「条件?」
「あなた、味にうるさいでしょう? 飽きられたら困るから、ちゃんと台所は広くしてもらうわよ。調味料棚もね。火の魔術、使っても怒らないでよ?」
クラウスは一拍だけ沈黙し、それから頷いた。
「好きにしろ。食えれば、それでいい」
それは、彼なりの「承諾」だった。
フィオナは笑いながら、鍋の底に残ったスープをかき混ぜた。
「じゃあ、明日は……家の場所、ちゃんと教えてもらわなきゃね」
その言葉に、クラウスの頬がほんのわずかに紅くなったのを、ランプの灯りが見逃さなかった。
* * *
翌朝、広場の空気は冷たく澄んでいた。
霧が石畳の隙間にゆらゆらとたなびき、まだ人の気配は少ない。けれど、屋台には早くも火が入っていた。
「旅路の鍋亭」は、いつもと同じように、けれどどこか柔らかい空気を纏ってそこにあった。
大鍋では、根菜とベーコンを軽く煮た朝食用のスープが、ことことと音を立てている。
湯気は白く立ち上り、霧の中でまるで灯火のように揺れていた。
フィオナはカウンターの奥で、いつもと変わらぬ手順で野菜を刻みながら、ふと空を見上げる。
高く、晴れていく空。雲が流れ、今日もまた始まっていく。
やがて、通りに人影がちらほら現れ始めた。
パン屋の娘が手を振り、昨日の少年が「おはよう!」と元気に駆け寄ってくる。
そして――少し遅れて、見慣れた背中が歩いてくるのが見えた。
クラウス・ベルンハルト。
いつものように鎧を着てはいるが、今日は右肩に革の鞄を提げていた。
「道具だ。……キッチン用にって、ライルがうるさくてな」
「へえ。騎士団って、料理人への気遣いも一流なのね」
冗談を返すと、彼は少しだけ口元を緩めた。
隣には、噂の発信源でもある張本人――ライル・フォードの姿もある。
彼はにやにやしながら、フィオナの作業台を覗き込んできた。
「おー、もう仕込み中か! 朝メシも食わせてくれよ、な?」
「……今、あなたのせいで変な噂立ってるから。後で片付け手伝ってもらうわよ?」
「へいへい、鍋磨きくらい朝飯前さ!」
わいわいと賑やかな笑い声が、屋台の周囲に満ちていく。
スープの香りが風に乗って広がり、今日もまた、誰かの一日が始まろうとしている。
フィオナは、鍋の蓋をそっと持ち上げた。
湯気がふわりと立ちのぼり、スープが柔らかな泡をたてている。
「……さあ、煮えてきたわね」
その呟きに応えるように、鍋がコト、と鳴った。
旅路の鍋亭は、今日も変わらず、誰かの心と胃袋をあたためる。
そして、その鍋が今後、どこで、誰のために煮え続けるのか――
それはもう、彼女の中で決まりきっていた。
恋愛ものというよりご飯ものになってしまった感。
甘酸っぱさよりおいしさかしら。