いつの間にか
一転、冷たい水でも被った気分だった。
「え、理人くん北海道なの?転勤?」
「なんかそうっぽいよ」
「ええー随分遠いね」
化粧室で聞こえてきた女子たちの会話に、個室の鍵を開けようとした手が止まる。
「まぁアイツ何気に優秀だしね。札幌支店業績いいらしいよねー」
理人が忙しいのは知っている。
きっと期待されているのだろうと思う。
でも、先週末も理人に会ったのに、すみれは何も聞かされてない。
今のすみれは理人に何を言えるだろう。
恋人…というには中途半端で。
遠距離恋愛をするにも、着いて行くにも関係が薄い。
すみれに怒る権利もないし、だから理人も言わなかったのではないか。
何て言って離れるか迷っているんじゃないか。
「…っ」
…まずい。
泣きそうになって慌てて口を押さえた。
前にもこんなことがあった。
真紘の惚気話に傷ついて涙が出てきて。そしたら理人が気づいてくれて、おれにしときなよって。
ーーー最近真紘を見たのはいつだった?
先程話した。でもその前は?
いつの間にか、真紘を目で追うことも少なくなっていた。
あれ。
すみれを軽々と抱き上げた腕も、クリスマスもバレンタインも、高校生の頃読むフリをしていた本さえも。
切ない思い出は、全部理人との楽しい思い出に上書きされている。
理人は何かにつけて総務部に立ち寄って、総務部のメンバーと話しているのを見るのが好きで、お菓子をくれれば喜んだ。
朝や帰りに理人と会えば嬉しくて、仕事の話をしながら、秘密を共有している感じが楽しくて。
休みの日に理人の部屋で過ごすのが当たり前になっていた。
どうしよう。
今さら。
何て言おう。
何て聞こう。
…別れようって、言われたら?
終わりにしなきゃ、いけないんだろうか。
理人の負担になりたくない。
仕事に戻らなきゃ。早く。
こういうとき、どうしていたっけ。
思い出すのは、理人がそばにいてくれたことだけで、途方に暮れた。
そんなのもうどうしようもないのに。
とめどなく流れてくる涙を、どうやって止めていいかわからない。
いつの間にか大きく育っていた心を持て余した。
◇◆◇
「荻原さん、ちょっといいかな」
仕事仕様ですみれを廊下に連れ出すと、周りに人がいないのをチラリと確認した。
理人が出入り口側を背にして立っているから、誰かが廊下に出てきても理人の陰になって見えないだろう。
「また、何かあった?」
「あ…」
理人はすみれの頬に触れる。
何かというのは「真紘と」という意味合いだろう。
「さっき、話してたから…」
すみれは無言で首を振る。
「泣いたのかなって」
また、泣きそうになった。
目は赤くなっているけど、メガネだし、背は小さいし、目を合わせなければ誰にもバレないと思ったのに。
「あっ、ち、違います。これは…ちょっと」
「ひとりで泣かないでほしい…は、ワガママかな?」
穏やかな声に、心が波立つ。
もう、こんな風になるのは、すみれをこんな風にするのは、たった1人だけ。
「理人さん、わたし…」
「でさー、さっき部長が」
口を開きかけたところで、人の話し声が聞こえてきた。
すみれは我に返って青ざめる。
ーーー今さら何を言うつもりだった?
「何でもないです」
「週末、待ってる。ごめんね、引き留めて」
前半は小声で、後半は周りにも聞こえる声で。
微笑んだ理人の両の目の下のホクロが、涙みたいに見えた。
胸のあたりがキューと掴まれるように痛んだ。
また、一方通行だ。
泣いたのを気にかけてくれるくらいの情はあっても、きっとすみれは人生の転機を話すほどでもない相手で。
「…つらいな…」
手に入らないと知って、遠目に見る姿に一喜一憂しているときよりも。
知ってしまった体温を、手放す方がずっと。
でも、すみれが悪い。
大事にしてくれた人に甘えて依存して、何も返さなかったのだから。
施されることを当たり前にしてしまった。
泣いちゃダメ。
約束通り新しい恋を教えてもらったんだから。
ちゃんと、話さなきゃ。
終わりにしなきゃ。
優しいあの人の、幸せと、未来のために。




