王宮で虐げられた令嬢は追放され、真実の愛を知る~あなた方はもう家族ではありません~
「お姉さま、ずるい! どうしてお姉さまばっかり!」
妹の叫び声を聞き、セシールはどう答えていいのかわからなかった。
「まあまあ、落ち着きなさい、ジャクリーン。セシールが王女付き侍女になったことにより、我がルマット家も王家と繋がりができたということだ。これはとても喜ばしいことなのだよ」
ルマット男爵が優しく諭すように言った。
「そうは言ってもお父さま! 私は納得できないわ! だって、お姉さまは庶子よ! 卑しい血を引いているくせに! 王女さまの侍女になんてふさわしくないわ!」
それでもジャクリーンは納得がいかない様子だった。彼女は興奮したまま言い返す。
今年十歳になったばかりのセシールは、新興の男爵家の庶子に過ぎない。しかし、なぜか王女付きの侍女に選ばれたのだ。
セシール本人も、どうして自分が選ばれたのか不思議だし、ふさわしいとも思えない。
亜麻色の髪に茶色の瞳という平凡な色に、平凡な容姿。金髪碧眼の妹ジャクリーンのほうが、見た目にも侍女にふさわしいのではないかと思える。
「ジャクリーン、そのようなことを口にしてはいけませんよ。セシールも大切な家族の一員なのです」
ルマット男爵夫人がジャクリーンをたしなめた。
「お母さままで……。お姉さまばっかり贔屓にして……。もう知らないわ!」
ジャクリーンはそう言うと、怒って部屋から出て行ってしまった。
「ジャクリーン! 待ちなさい! ああ、あの子ったら……」
夫人は困った顔をして、額に手を当てた。
「セシール、ごめんなさいね。あの子には、後でよく言い聞かせておくわ。きっと、あの子もわかってくれると思うの。だって私たちは家族なのだから」
「はい、お義母さま。私もジャクリーンと仲良くしたいと思っています」
「ありがとう、セシール」
夫人は優しく微笑んだ。
彼女は生さぬ仲のセシールに、いつも穏やかに接してくれる。
セシールの実の母は屋敷で働いていたメイドだったらしい。母はセシールを産んですぐに亡くなってしまったと聞く。
しかし、夫人はセシールのことをルマット家の娘として認めてくれているのだ。
だからこそ、セシールは夫人の期待に応えたいと思っていた。
「そうだ、我々は家族だ。我々は皆、家族だ」
ルマット男爵は何度も頷いた。
「ええ、そのとおりですわ、あなた」
夫人は夫の言葉に頷いた。
「お前が王女付き侍女となることは、我々家族にとって喜ばしいことだ。王女殿下に無礼があってはならない。くれぐれも礼儀正しく振る舞うのだぞ。そして、しっかりお仕えするのだ」
「はい、お父さま。わかりました」
セシールは真剣な顔で答えた。
「ふむ、いい返事だ。家族の役に立っているのだと、誇りに思うがいい。いいか、どんなにつらくても頑張るのだぞ。それが、家族のためであり、お前のためでもあるのだからな」
男爵は満足そうに微笑んだ。
夫人も優しく微笑んでいる。
二人の姿を眺めながら、セシールは心の中で決意を固めた。
自分は王女付きの侍女として、誠心誠意仕えなければならないのだ。
それが家族のためなのだから。
*
「お茶がぬるいわ! いつまで経ってもお前はグズね! 本当に使えないわ! 役立たず!」
ウージェニー王女は罵声と共に、ティーカップを投げつけた。
お茶が顔にかかったが、セシールは文句を言うことなく耐える。
「申し訳ありません」
「口先だけの謝罪は聞き飽きたわ! さっさと代わりのお茶を持って来なさい!」
「はい、ただいま」
セシールは慌てて部屋を出た。
心の中でため息をつきながら、セシールは歩き出す。
ウージェニー王女はわがままで横暴な性格だ。
気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こし、周りに当たり散らす。
そんな王女の相手をするのは、とても疲れることだった。
「あら、セシール。ちょうどよかった、こっちもやっておいてもらえるかしら?」
廊下を歩いていると、別の侍女が声をかけてきた。
「え……? でも、それは私が頼まれた仕事では……」
セシールは戸惑った。
「たかが男爵家の娘ごときが、王女殿下の侍女だなんて生意気よね」
その侍女はセシールを見下すように言った。
王女付きの侍女はセシール以外にもいるが、全員が伯爵家以上の娘だ。
男爵家の娘であるセシールは見下されて、様々な雑用を押し付けられている。
「ほら、早く行きなさいよ。それとも私の言う事が聞けないの?」
侍女は苛ついた様子でセシールの肩を押した。
「……わかりました」
セシールは小さく頭を下げ、その場を後にした。
王女付き侍女としての仕事は、決して楽ではない。理不尽な命令も多いし、身分の低いセシールにとっては辛いことも多かった。
しかし、それでもセシールは耐えていた。それは家族のためだ。
家族のために、セシールは王女付きの侍女として仕えている。
だから、どんなに辛くても頑張れる。
王女からの罵倒や、侍女の嫌がらせはまだ続くだろう。
これからもっと酷いことになるかもしれない。
それでも耐えるしかないのだ。
「うっ……ううっ……」
セシールは一人、寂れた庭園の片隅で涙を流していた。
誰も訪れないような場所を見つけてから、ここで泣くのが習慣になっていた。
王女付きの侍女になってから、セシールの日常は酷いものだったのだ。
雑用を押し付けられ、無理な命令もされて、セシールは心身共に疲れ切っていた。
「うぅ……ひっく……」
しかし、人前で泣くわけにはいかない。
王女付きの侍女として、毅然としていなければならないからだ。
泣きたくても泣けないのが現状だった。
そんなセシールにとって、この場所だけが唯一の憩いの場所だった。
「もう、辞めてしまいたい……」
セシールは小さな声で呟いた。
王女付きの侍女を辞めれば、どんなに楽だろうか。
しかし、それは許されないことだ。
家族のためにも、セシールは王女付きの侍女として働き続けなければならないのだ。
王女付き侍女の証として与えられた赤いペンダントが、ずっしりと重くのしかかる。
まるではずせない首輪のようだった。
「辞めたい……でも……辞められない……」
セシールは涙を流しながら、嗚咽をこらえた。
「……そんなに泣くのなら、辞めてしまえばいいだろう」
突然、背後から声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには見知らぬ少年が立っていた。
年齢はセシールと同じか少し上くらいだろう。
銀色の髪に赤い瞳という珍しい色彩の持ち主だ。
繊細で整った顔立ちと相まって、妖精や精霊ではないだろうかと思えてしまう。
「あ、あなたは……?」
セシールは戸惑う。
この場所には誰もいないと思っていたからだ。
やはり妖精や精霊といった、人ならざる者なのだろうかと思う。
「王女付きの侍女か? 嫌なら辞めればいいだけなのに、何をグズグズ泣いている? バカなのか?」
ところが、少年の口から出てきたのは侮蔑を込めた汚い言葉だった。
セシールは一瞬、何を言われているかわからなかった。意味が染み込んでくると、怒りがこみ上げてくる。
「な、なにを言うんですか! 私は王女付きの侍女として、務めを果たす義務があるんです! そんなことできるわけないでしょう!」
セシールは反射的に言い返した。
しかし、その声は弱々しく震えていた。
「義務? そんなくだらないもののために頑張るのか?」
少年は馬鹿にしたように薄く笑う。
「……くだらなくなんかありません」
セシールは絞り出すような声を発した。
「ふん、くだらないな。自分の意思もなく流されて生きるなど愚かしいことだ」
少年は嘲笑を浮かべている。
何を勝手なことをと、セシールは苛立ちが募る。
「……だったら、どうしろって言うんですか!? あなたは私の気持ちがわかるんですか!? 家族のために辞められない私の気持ちが、わかるっていうんですか!?」
セシールは怒りにまかせて叫んだ。
「家族のため? お前がそんなに泣くほど辞めたいのなら、受け入れるのが家族だろう?」
不思議そうに、少年は首を傾げる。
「それは……」
セシールは口ごもった。
燃え上がるようだった怒りが、急速にしぼんでいく。
父や義母はいつも、セシールのことを大切な家族だと言ってくれる。
だが、もし王女付き侍女を辞めたいとセシールが言ったとすれば、彼らはどんな顔をするだろうか。
悲しむだろうか、困るだろうか、それとも怒るだろうか。
色々な反応を考えてみるが、受け入れてもらえる姿だけが思い浮かばない。
セシールは唇を噛みしめた。
「でも……でも、私は……家族……家族なのに……どうして……こんなことに……」
セシールは涙をこぼしながら、嗚咽を漏らす。
日々のつらさよりも、ずっと胸の奥底を突き刺す何かがあった。
「お、おい、何も泣くことはないだろうが。そんなつもりじゃなかったんだ」
少年は慌てた様子を見せた。
おろおろとして、セシールをうかがってくる。
「ご、ごめん……なさい……」
セシールは途切れ途切れの声を絞り出す。
「謝るな、俺がいじめているみたいじゃないか」
少年はばつの悪そうな顔になる。
「でも……ひっぐ……」
しかし、セシールは泣き続けることしかできない。
何と言うべきなのか、わからない。
「……言い過ぎた。俺が悪かった。だから、もう泣くな」
少年はそう言って、ハンカチを差し出した。
「え……?」
セシールは驚きながら、ハンカチを見る。
竜の紋章が刺繍された、高級そうなハンカチだ。
「あ、あの……」
戸惑いながら、セシールはハンカチを受け取った。
「それを使って涙を拭け。返さなくていい。俺はもう行くから」
少年はぶっきらぼうに言うと、足早に立ち去っていく。
セシールはしばらくの間、呆然としていたが、やがて我に返り涙を拭いた。
ハンカチは高級品らしく滑らかな肌触りで、花のような良い香りがした。
「……誰だったんだろう?」
セシールは少年の姿を思い浮かべる。
見覚えのない顔だったので、おそらくこの城の人間ではないと思う。
「不思議な人だったな……」
セシールはハンカチを握り締め、小さく呟いた。
それからもセシールは庭園の片隅に通ったが、少年と会うことはなかった。
あのハンカチは洗濯して、今もセシールの手元にある。
セシールは毎日を憂鬱に感じながら過ごしていたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
あの出来事以来、王女付き侍女の仕事でつらいことがあっても、前ほど涙は出てこなくなったのだ。
ハンカチに刺繍された竜の紋章を眺めると、勇気が湧いてくるような気がする。
この紋章が、ヴァンクール辺境伯家の紋章だということは、後から知った。
ヴァンクール辺境伯家は、第二の王家とまで呼ばれる、由緒正しい家柄だ。
「ヴァンクール辺境伯家……」
セシールは、ぽつりと呟いた。
このハンカチの贈り主は、その辺境伯家の息子なのだろうか。
「まさか、ね……」
セシールは小さく笑った。
このハンカチをくれた少年が、ヴァンクール辺境伯家の人間だったとしても、もう会うことはないだろう。
仮に会ったとしても、辺境伯家の人間など、身分が違いすぎる。
だから、考えても仕方がないことだ。
*
やがてセシールは十六歳になり、さらに過酷な日常を過ごすことになる。
なぜか急激に太り出し、ウージェニー王女や侍女たちから『豚』と罵られるようになったのだ。
しかし、食事量は増えているどころか、むしろ減っている。
常に空腹なのにもかかわらず、セシールの体重は増える一方だった。
さらに吹き出物や皮疹が体中にでき、吐き気やめまいに悩まされる日々。
「まあ、本当に醜い豚ね。私はどんなに食べても太らないのに、こんな豚がいるなんて驚きだわ」
ウージェニー王女は蔑みの目でセシールを見た。
「申し訳……ありません……」
消え入りそうな声で、セシールは謝る。
声を出すのも、少し苦しい。
「本当に、気持ちが悪いわ! 早く消えてくれないかしら? あなたみたいな醜い豚がいたら迷惑よ!」
ウージェニー王女はそう言って、セシールを突き飛ばした。
「きゃっ……!」
セシールは悲鳴を上げて倒れ込む。
全身に激痛が走った。
骨が折れているかもしれないと思うほどの痛みだった。
「あら、ごめんなさいね。まさかそこまで痛がるとは思わなかったわ」
ウージェニー王女は冷たい声で言った。
「それにしても困ったわね。私、もうすぐ結婚しなければならないのに、こんな醜くて不快な豚を側に置くことはできないわ」
わざとらしく、ウージェニー王女はため息をつく。
セシールは恐怖に震えることしかできない。
「だって、相手は美男子で、私にふさわしい家柄の方ですもの。こんな醜い豚が側にいたら恥ずかしいわ」
ウージェニー王女はセシールを見下ろしながら嘲笑う。
だが、言っていることは間違っていないだろう。
セシールは何も言い返すことができない。
「そうだわ、いい考えがあるわ!」
ウージェニー王女は明るい声で言って、手を叩く。
すると、一人の侍女が部屋に入ってきた。彼女はウージェニー王女に恭しく礼をすると、セシールを見下ろす。
「お姉さま、久しぶりね。随分と醜く太ったじゃない。王女殿下の侍女として、恥ずかしいとは思わないのかしら?」
彼女はセシールを嘲笑うように言った。
「ジャクリーン……」
セシールは小さく呟いた。
王女付き侍女になってから、すっかり疎遠になっていた妹だ。
前に会ったのは半年ほど前だっただろうか。
「身の程知らずの豚が王女殿下の侍女だなんて、おこがましいにも程があるのよ。だから私が代わってあげるわ」
ジャクリーンはねっとりとした声で笑う。
「代わり……とは……?」
セシールはおそるおそる尋ねる。
嫌な予感しかしなかった。
「ええ、簡単なことよ。これからはジャクリーンに私の侍女になってもらうわ。同じ男爵家の娘でも、あなたのような豚と違って、私の侍女にふさわしく美しいし、わきまえているもの」
ウージェニー王女が上機嫌で説明する。
「そんな……私は……」
セシールはうろたえる。
王女付きの侍女を辞めたいとは、ずっと思っていたことだ。
だが、このような形は違う。
「さあ、そのペンダントをジャクリーンに渡しなさい。そして、この部屋から出ていくのよ」
「で、でも……私は王女殿下付きの侍女として……」
セシールは震える声で懇願しようとする。
「あら? まだわからないの? あなたはクビなのよ。だから早くペンダントを渡して出て行きなさい!」
ウージェニー王女が苛ついた様子でセシールを睨む。
「王女殿下は、ヴァンクール辺境伯令息とご結婚されるのよ! あなたみたいな醜い豚がいると、邪魔なの! 身の程を知りなさい!」
ジャクリーンも声を荒げる。
「ヴァンクール辺境伯令息……?」
セシールは小さく呟く。
どこかで聞いたことのある名前だ。
「そうよ! 私にふさわしい美しい方よ! 私はあの方に嫁ぐのよ!」
ウージェニー王女は誇らしげに言う。
「さあ、さっさと出て行って! 目障りよ!」
ジャクリーンはセシールのペンダントを強引に奪い取る。そして、そのまま部屋の外へと押し出した。
「あっ……」
セシールはバランスを崩し、床に倒れ込む。
「ふんっ! いい気味だわ!」
ジャクリーンは吐き捨てるように言うと、扉を閉めた。
「あ……あぁ……」
セシールは絶望に打ちひしがれながら立ち上がる。
閉じられた扉に背を向け、セシールはゆっくりと歩き出す。
「うっ……ううっ……」
涙がとめどなく溢れてくる。
だが、泣いている場合ではない。
セシールは震える足を前へと進める。
王女付きの侍女を解雇された以上、もうこの城に居場所はない。
一刻も早く出て行かなければならないのだ。
「きみは……」
小さな呟きが聞こえ、セシールは立ち止まった。
振り返ると、そこには銀髪の青年が佇んでいた。赤い瞳が驚きに染まっている。
「あ……」
セシールは小さく声を上げた。
この青年は、あの時にハンカチをくれた少年だと、すぐにわかった。
整った美貌は、成長しても損なわれることはなく、むしろさらに磨かれていた。
精悍さと繊細さを兼ね備えた容貌に、セシールは目を奪われる。
しかし次の瞬間、今の自分の姿を思い出して、慌てて顔を伏せた。
目の前の美しい青年に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。
「……失礼します」
セシールは震える声で言い、慌てて彼に背を向けて歩き出す。
「待ってくれ!」
青年の切羽詰まったような声に、セシールはびくりと肩を震わせる。
しかし、足を止めることはできない。
セシールは必死に足を動かし、城の外を目指した。
「……まあ、ヴァンクール辺境伯令息! こんなに早くいらしてくださったのですね!」
後ろから、ウージェニー王女の弾んだ声が聞こえる。
セシールは振り返らずに、前へ前へと歩き続けた。
*
セシールは男爵家の屋敷に戻った。
しかし、待っていたのは家族からの冷たい態度だった。
「この恥さらしめ!」
父に頬を叩かれ、セシールは床に倒れ込む。
「お前のような娘は我が家の恥だ! もう帰ってくるな!」
父は怒鳴り散らした。
義母も、侮蔑のこもった目でセシールを見ている。
「なんて醜いのかしら。こんな豚が家族だなんて、あり得ないわ」
義母がセシールを見下ろしながら言う。
「そうだ、お前など家族ではない! もう、この屋敷から出て行け! 二度と帰ってくるな!」
父は怒りに任せて怒鳴り続ける。
二人の冷酷な態度に、セシールは涙が溢れてくる。
きっとこうなるだろうと、想像はしていた。
本当は予想を裏切ってほしかった。大変だったなと抱き締めてほしかった。
だが、現実は厳しい。
「……はい……申し訳ありませんでした」
セシールは震える声で謝罪し、ゆっくりと立ち上がる。
もう、ここは自分の家ではない。彼らは家族でもない。
とぼとぼと、屋敷の外へ向かった。
セシールは途方に暮れていた。
もう帰る家もない。家族もいない。頼れる人もいない。
行く当てもなく、セシールは街をさまよっていた。
着ていた服は破れてしまい、みすぼらしい格好をしているためか、道行く人が冷たい視線を向けてくるのがわかった。
しかし、もう着替えを買うお金も残っていないのだ。
王女付き侍女としての俸給は、全て実家に入れていたためだ。
「うぅ……」
セシールは涙を流しながら歩き続けた。
もう夕暮れ時になっていた。辺りもだんだんと暗くなってきている。
「……ひっく……えっぐ……」
セシールは泣きじゃくりながら歩く。もう限界だった。
道端に座り込んで、そのまま地面に倒れていく。
「おい! しっかりしろ!」
そのとき、そんな声が聞こえてきた。
「え……?」
セシールはゆっくりと顔を上げる。
目の前にいたのは銀髪の青年だった。
「ヴァンクール辺境伯令息……?」
セシールは呆然と呟く。
夢を見ているのだろうかと思った。
こんな美しい人が、自分に話しかけるはずがない。
「大丈夫か?」
青年は心配そうな表情を浮かべて、セシールの顔を覗き込む。
「あ、あの……どうして……」
セシールは戸惑いながら尋ねる。
何故こんな場所にいるのか理解できない。
「きみが王女から追放されたと聞いて、ずっと探していた」
青年はまっすぐにセシールを見つめてきた。
その目は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。
「私を……?」
セシールは信じられない気持ちで青年を見る。
「ああ……そうだ」
青年はゆっくりと頷いた後、何かに気づいたように目を見開く。
そして慌てて自分の上着を脱ぎ、セシールの肩にかけると、そのまま抱き寄せた。
「……え?」
セシールは小さく声を上げた。
何故こんなことをされるのか理解できない。
「こんな薄着で……夜は冷え込むから、俺の上着を貸そう」
青年は優しくセシールの背中を撫でながら言う。
「そんな……ヴァンクール辺境伯令息の上着を汚すわけには……」
セシールは戸惑いながら、青年から離れようとする。
しかし青年は、セシールを離すまいとするように力を込めた。
「きみは俺の恩人なんだ。だから遠慮はいらない」
青年は真剣な声で言う。
その眼差しはどこまでもまっすぐで、セシールは思わずドキリとした。
「恩人……?」
セシールは首を傾げる。
自分はこの人に何もしていないはずだ。
「そうだ。俺はきみに救われたんだ。だが、今はそれよりも、すぐに王都を出よう。少し負担がかかってしまうが、我慢していてくれ」
青年はそう言って、セシールを抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこという体勢だ。
「きゃっ……!」
セシールは悲鳴を上げた。
しかし青年は構わず走り出す。
慌てて、セシールは青年の首に抱きついた。
「だ、大丈夫ですか……?」
こんなにも太った自分を抱えて走るのは大変だろう。
思わず、そう尋ねてしまう。
「大丈夫だ、俺は鍛えているから」
青年はそう言いながら、速度を上げていく。
セシールは青年の胸に顔を埋めていた。彼の心臓の音が聞こえてくる。
「私は……ヴァンクール辺境伯令息のお荷物にはなりたくありません……」
セシールは小さな声を絞り出す。
こんな醜く肥えた自分を、彼が助けようとする理由がわからない。
「俺はきみを助けたいんだ」
彼はきっぱりと告げた。
「……どうして……?」
セシールは震える声で尋ねる。
「私なんて……ただの醜い豚です……。王女殿下に疎まれて、追い出されて当然の存在なのに……」
「違う!」
青年は強い口調で否定する。
セシールは驚いて顔を上げた。
青年の目には怒りの色が浮かんでいた。彼は本気で怒っているようだ。
「きみは醜くなんかない。きみはとても美しい女性だ」
青年は真剣な表情で言った。
その目はまっすぐで真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。
「……あ、あの……」
セシールは戸惑う。
何故こんなことを言われるのかわからない。
「すまない、急がなければ」
青年は小さく息を吐き出すと、再び前を向いて走り出す。
セシールは青年の首にしがみついたまま、じっとしていた。
セシールは青年に抱えられたまま、馬車に乗せられた。
「あの……ヴァンクール辺境伯令息……私なんかが一緒に乗ってもよろしいのでしょうか?」
セシールはおそるおそる尋ねる。
「ああ、もちろんだ。それよりも、俺の名前はベルトランだ。ベルトランと呼んでくれ」
青年はそう言って微笑んだ。
その笑顔はとても優しげで、セシールの胸はドキリとした。
「は、はい……ベルトランさま……」
セシールは掠れた声で答えると、俯く。
彼の顔をまともに見ることができなかった。
「あの……それで……ベルトランさまはどうして私を……」
セシールはおずおずと口を開く。
「ああ……きみは俺のことを覚えているか? クソ生意気で、自分が賢くて何でもわかっていると勘違いしている馬鹿な子どもを」
ベルトランは苦笑しながら言う。
「えっ? い、いえ、そこまでひどくは……」
セシールは慌てて首を横に振る。
確かに勝手なことを言われて腹を立てたのは事実だが、言い過ぎたと謝ってくれた。
ひねくれたところはあるようだが、根は優しいのだろうと思ったものだ。
「いや、俺は本当に馬鹿なガキだったよ」
ベルトランはそう言って、懐かしそうに目を細めた。
その眼差しにはどこか切なさが滲んでいるように思えた。
「きみを馬鹿にするようなことを言ったこと、改めて謝罪したい」
彼はそう言って頭を下げた。
その姿に、セシールはぎょっとする。
「そんな……頭を上げてください! 私は気にしていませんから!」
セシールは慌てて言う。
あの時も謝ってもらったのだし、今更蒸し返すことではない。
むしろ、もらったハンカチに勇気づけられたのだから。
「ありがとう」
ベルトランは微笑んで言った。
その笑顔に、また胸がドキリとした。
セシールは心の中で頭を振る。
相手は辺境伯令息だ。身分が違いすぎるし、自分は醜い豚なのだ。そんな自分が彼に釣り合うわけがない。
セシールは自分に言い聞かせるように、何度も頭の中で繰り返す。
「……あの時、俺はきみに救われたんだ」
ベルトランは静かに語り始めた。
「俺はどうしようもなく愚かだった。だが、きみと出会って、初めて自分が馬鹿だと気づいた。きみが俺を変えてくれたんだ」
彼はそう言って、セシールの手を取った。その温もりが伝わってくる。
「だから、今度は俺がきみを救う番だ。俺はきみに救われたから」
ベルトランはそう言って優しく微笑んだ。
セシールは胸が熱くなるのを感じた。涙が出そうになり、慌てて俯く。
「で、でも……私は何もしていません。あなたが変わったというのなら、それはあなた自身の力です」
セシールは震える声で言う。
本当に自分は何もしていないのだ。ただ、自分の思いをぶつけただけだ。
「いや、きみがいなければ俺は変わることができなかった。だから、きみのおかげなんだ」
「でも……」
「……一目惚れした相手に、斜に構えた態度を取って泣かせてしまった。あの時のことは本当に後悔している」
ベルトランは自嘲するように苦笑する。
セシールは驚いて目を見開いた。
「え……?」
今、彼は何と言っただろうか。
一目惚れ? 誰が誰に? 彼が自分に? どうして? 何故?
様々な疑問が浮かんでくる。頭が混乱して言葉が出てこない。
心臓が激しく鼓動を打つ。頬が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。
「そ、それは……あの……」
セシールは必死に言葉を紡ごうとした。しかし上手く言葉にならない。
そんなセシールをベルトランが優しく見つめている。
その視線に耐えきれず、思わず俯いてしまう。
セシールは自分の胸を押さえる。
心臓の音がうるさいくらいに聞こえてくる。このままでは破裂してしまうのではないかと本気で心配になった。
「……大丈夫か?」
ベルトランは心配そうに言う。
その声を聞いて、ますます鼓動が激しくなった気がした。
しかし、己の身をわきまえなければならない。自分は醜い豚だ。彼に相応しい相手ではない。
「……はい……大丈夫です」
セシールは小さく深呼吸をしてから答えた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「あの……私は……醜くて太った女です。それに、王女殿下の侍女をクビになった身で……」
セシールは必死に言葉を探す。
しかし上手くまとまらない。何を言っても失礼なのではないかと不安になってしまうのだ。
「俺はきみを美しいと思っているし、きみがどんな姿であっても構わない」
ベルトランはきっぱりと言い切る。
その言葉を聞いただけで、セシールの胸は高鳴った。
「私なんかが……」
「きみは素晴らしい女性だ」
ベルトランは再び断言する。その瞳には迷いがないように見えた。
「俺よりも幼い身で、家族のために必死に働いていた。俺はそれまで、己が恵まれていることにさえ気づけていなかったんだ。愚かな領主になる前に、きみが気づかせてくれたんだ」
ベルトランはそう言って、セシールの手を握りしめる。その手はとても温かく感じられた。
「だから……私はそんな立派な人間ではありません……」
セシールは首を横に振った。
自分はただ必死だっただけだ。家族のため、自分の将来のために必死だっただけなのだ。
「いや、きみは素晴らしい女性だ」
ベルトランは決して引き下がらない。
その笑顔は眩しすぎて、セシールは直視できなかった。顔が熱い。きっと耳まで赤くなっているだろう。
「で、でも……私は……」
「俺の気持ちは迷惑だろうか?」
ベルトランの言葉に、セシールは思わず顔を上げた。
彼は悲しげな表情を浮かべていた。
「い、いえ……そんなことは……」
セシールは慌てて首を横に振った。
むしろ嬉しいくらいだ。
しかし、だからこそ不安になってしまうのだ。
「ならば良かった」
ほっとしたように、ベルトランは息を吐き出す。
彼の笑顔はとても穏やかで優しいものだった。
セシールは、これは夢ではないだろうかと信じられないくらいだ。
しかし、次の瞬間には現実を思い出す。
「で、でも……王女殿下がヴァンクール辺境伯令息とご結婚なさると……そう聞いて……」
セシールは震える声で言う。
それが事実ならば、自分がここにいることは問題だ。ベルトランの評判を下げることにもなりかねない。
「向こうが勝手に言っていることだ。あんな醜い女と結婚するわけがないだろう」
ベルトランは眉間に皺を寄せて言う。
嫌悪感丸出しの口調だ。
「え……?」
セシールは驚いて目を見開く。
王女は誰が見ても美しい女性だ。その彼女に対して「醜い」とはどういうことだろうか。
「見た目の問題ではない。中身の問題だ」
ベルトランは淡々と答える。
「あの王女はきみを虐げてきた。そんな相手と結婚などするはずがないだろう」
ベルトランは吐き捨てるように言う。その目には強い怒りが宿っていた。
「……とはいえ、俺もきみを救い出すのが遅くなった。父に認めさせるのに時間がかかってしまった。遅くなってすまない」
「いえ……あの……私なんかのために……」
セシールは慌てて首を横に振る。
彼は何も悪くないのだ。
むしろ、一度会っただけのセシールのことを気にかけてくれている。それだけで十分すぎるほどだ。
「俺としては、きみに求婚したいのだが……良いだろうか?」
ベルトランは真剣な眼差しで言う。
その視線に耐えきれず、セシールは思わず目を逸らした。
「……私は……醜い豚です……」
セシールは小さく頭を振りながら呟く。
その答えを聞いた瞬間、ベルトランの雰囲気が変わったような気がした。
しかし顔を上げることができない。
「きみは醜くない」
ベルトランはきっぱりと言い切った。
「そ、そんなはずはありません……! だって……!」
セシールは思わず顔を上げる。
ベルトランは真っ直ぐにセシールを見つめていた。その眼差しには強い意志が込められているように感じられた。
「きみは美しい女性だ」
ベルトランはそう言って微笑む。
その表情はとても優しくて、セシールの胸は大きく高鳴った。
「……あ……あの……」
セシールは顔を真っ赤にして俯く。
心臓が激しく脈打ち、今にも破裂してしまいそうだ。
「俺の目は魔眼だ。人の本性を見ることができる。きみはとても優しくて温かい心の持ち主だ。それに、努力家で誠実な人だということもわかっている。だから俺は、きみに惹かれたんだ」
「あ……わ、私は……」
セシールはどう答えていいのかわからなかった。
頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなっていた。ただ心臓だけが激しく鼓動を打ち続けているだけだ。
「……すまない。いきなり言われても困るだろう」
ベルトランはそう言って苦笑する。
「い、いえ……! そんなことは……!」
セシールは慌てて首を横に振る。
彼の気持ちはとても嬉しい。
だが、それに応えられる自信がなかった。
自分は醜い豚だ。彼に釣り合うような女性ではない。
「俺はきみが好きだ」
「……っ……!」
セシールは思わず息をのんだ。
顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろうと思うほど熱いのだ。
心臓の音がうるさいくらいに聞こえてくる。
「俺のことを好きになってもらえるよう、努力する。どうか機会をくれないか?」
ベルトランはそう言って、セシールの手を握りしめる。
「……わ、私は……」
セシールは小さく頭を振る。
しかし言葉が出てこない。何と答えれば良いのかわからなかった。
ただ、胸の奥が熱くなる感覚だけがあった。
「今すぐ答えを出さなくてもいい」
ベルトランは優しい声で言う。その表情はとても穏やかだった。
「俺はきみを必ず幸せにする」
彼の声は力強く、確固たる決意がにじんでいた。
*
王都から離れたヴァンクール辺境伯領。
その地にある屋敷で、亜麻色の髪の少女が花の世話をしていた。
ほっそりした華奢な身体に、動きやすい簡素なドレスを着ている。
「セシールが世話をすると、花が喜んでいるのがはっきりわかるな」
そう言って微笑むのは、銀色の髪と赤色の瞳を持つ青年。ヴァンクール辺境伯令息ベルトランだ。
彼は花に触れ、優しい手つきで撫でる。その眼差しはとても穏やかで温かかった。
セシールがこの屋敷にやって来てから、半年が過ぎた。
その間にセシールはすっかり見違えるほど元気になった。
あんなに太っていた身体は細く引き締まり、肌は健康的な色艶を帯びている。
ベルトランの両親である辺境伯夫妻も、セシールを歓迎してくれた。
ベルトランがセシールを連れて屋敷にやって来たときは、太った醜い姿だったにもかかわらず、彼らは優しく受け入れてくれたのだ。
この地にいれば、すぐに健康になると励ましてくれ、ベルトランも何かと世話を焼いてくれる。
そのおかげで、セシールはすっかり元気になり、充実した日々を送っていた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、とても嬉しいです」
セシールは花を見つめながら、自然と笑みが浮かんでくる。
「きみの笑顔を見ると、俺も嬉しくなる」
ベルトランはそう言って微笑む。
彼はいつも穏やかで優しい。セシールはそんな彼に惹かれていった。
そしてとうとう、彼の気持ちを受け入れ、二人は恋人同士となったのだ。
「そろそろ結婚式の日取りを決めないとな」
「ええ……」
ベルトランの言葉に、セシールの頬が熱くなる。
セシールがすっかり健康になったことにより、ベルトランの両親も結婚を許してくれたのだ。
懸念していた身分の差は、問題にされなかった。
幼い頃から優秀だったベルトランは、人の本性を見抜く魔眼のせいもあって、ひねくれてしまった。
このままでは歪んでしまうと、両親は頭を抱えていたようだ。
けれど、セシールに出会い、その性格は一変した。
人を思いやることの大切さを知り、素直に感謝できる心を持つことができたのだ。
だからこそ、彼の両親もセシールとの結婚を祝福してくれている。
「結婚式には、きみが育てた花を飾ろう」
「本当ですか!?」
セシールは驚きの声を上げた。
まさか、自分の育てた花を使ってもらえるとは思わなかったのだ。
「ああ、きみにもっと喜んでもらいたいからな」
ベルトランはそう言って微笑んだ。その微笑みはとても優しく温かい。
この笑顔も、優しさも全部自分のものだと思うと、セシールは胸が高鳴った。
「それに……きみには、きっと聖女の素質がある。だから、この花はぴったりだ」
「聖女の素質……ですか?」
セシールは首を傾げる。
その言葉の意味がわからなかったのだ。
「ああ、だからこそ……」
ベルトランが何か言いかけたところで、門のあたりから騒がしい声が響いてきた。
「あれは?」
セシールは門に視線を向けた。誰が騒いでいるのだろう。
「……ヴァンクール辺境伯令息を出せ!」
「ここの辺境伯令息のせいで、私たちがこんな目に遭わされているのよ!」
「そうよ! 私たちを助ける義務があるでしょう!」
セシールとベルトランは顔を見合わせた。
どうやら来客のようだ。
しかし、その態度はあまり良いものとは思えない。何か問題が起きたようだ。
「俺が行ってくる」
そう言って、ベルトランはそのまま門へと向かう。
セシールも慌ててその後を追った。
門の前では、汚い身なりをした三人組が立っていた。
でっぷりと太った少女を支えるように、両隣には痩せ細った中年の男女がいる。
「……っ」
彼らの姿を見たセシールは、息をのむ。
変わり果てた姿になっているが、かつてセシールの家族だった者たちだったからだ。
「……何の用だ?」
ベルトランは静かな口調で言う。その表情は冷たく、一切の感情を表していないように見えた。
「あ……! あんた、ヴァンクール辺境伯令息ね! あんたが王女殿下と結婚しなかったせいで、私たちがこんなひどい目にあっているのよ! 責任を取りなさいよ!」
太った少女が、甲高い声で叫ぶ。
「そうだ! お前が王女殿下と結婚していれば、我が家が落ちぶれることもなかったんだ!」
「そうよ! お前のせいで私たちは不幸になったのよ!」
中年夫婦も続けて、怒りに満ちた声で叫ぶ。
「意味がわからない。俺が王女と結婚しなかったことが、なぜお前たちの不幸に繋がる?」
首を傾げながら、ベルトランは冷静に問いかける。
「あんたが王女殿下と結婚していれば、私は王女付き侍女として良縁を得られるはずだったのよ!それなのに、私は……こんなことに……っ!」
太った少女は涙を流しながら叫ぶ。
「……さっぱりわからないな。お前が良縁を得られるかどうかなど、俺には関係がないだろう」
ベルトランはそう言ってため息をつく。心底呆れているようだった。
「王女殿下が結婚すれば、私は円満に侍女を辞めて結婚することができたのよ! それなのに、あんたのせいで王女殿下が病を得て、私たちも責任を取らされそうになって逃げてきたのよ!」
「だから、それが俺に何の関係が?」
「そりゃあ、王女殿下の病は、あの豚の呪いかもしれないわ。でもね! あんたが王女殿下と結婚しなかったから、こんなことになってしまったのよ! だから、あんたには責任を取る義務があるの!」
太った少女はそう叫び続ける。その瞳には狂気しか宿っていなかった。
「……あの豚の呪い、だと?」
ベルトランの声が一段低くなる。怒りを孕んだ声だった。
「そうよ! 私の姉だった、あの醜い豚! 王女殿下に追い出されて野垂れ死ににしたから、死に際に呪いをかけたに決まっているわ!」
「そうだ、あの豚……せっかく下女に産ませたというのに……役立たずの恩知らずが……」
「使えるからと我慢して優しくしてやれば、付け上がって……恩知らずめ」
中年の男女も、太った少女に同調するように言う。
「だから! あんたが王女殿下と結婚していればこんなことにならなかったのよ!」
「そうだ! 責任を取りやがれ!」
太った少女と中年男性は叫ぶ。
「なるほど……そういうことか……」
ベルトランは静かに呟く。口元には冷たい笑みが浮かんでいた。
「な、何? なんで笑っているのよ!?」
ベルトランの表情を見た少女は、怯えたような声を上げる。
しかし彼は意に介さず言葉を続けた。
「つまり、お前たちは、王女の身代わり侍女として娘を差し出したというわけだな」
ベルトランは冷たい視線で三人を睨む。
「身代わり侍女?」
太った少女は首を傾げる。
しかし中年の男女はハッとした表情を浮かべた。
「……そんな、まさかこれが身代わりのせいだというのか? 王女が生まれたとき、死んでも構わない侍女を密かに募集しているという話を聞き、下女に産ませたのに……」
中年男性は愕然としたように呟く。
「そんな……八つ当たりで殺されるというわけではなかったの……? まさか、そんなことが……」
中年女性も呆然とした様子で呻く。
「まさか、知らなかったのか。王家に伝わる呪術で、身代わりの侍女や従者に王族の受けた災難を肩代わりさせる。そのために、身代わりの侍女や従者を密かに募集していたんだ」
ベルトランはそう言ってため息をつく。
「そ、そんな……まさか、これも王女の身代わりのせい……?」
太った少女は己の身体を眺めながら、震える。
「だろうな。よかったな、お前がさっさと王女を見限って逃げてきたから、まだ生きていられるんだ。もしお前が王女の傍に残っていたら、今頃は死んでいただろうな」
「そんな……だったら、どうしてあの豚……お姉さまは何年も平気だったのよ! お姉さまの時は何もなかったなんて、ずるい! ずるいわ!」
地団太を踏みながら、太った少女は叫ぶ。
「はっ、本当に愚かだな。前任者が平気だったわけではない。ただ、彼女には聖女の素質があったために、無意識に浄化していたのだろう。何年も積もっていったため、浄化しきれず表面に出てきていたようだったが……」
「だったら……あのまま侍女の座を奪わずにいれば、私はこんな目にあわなかったっていうこと? いずれお姉さまが耐えきれずに死んで、補償金をもらって幸せになれたの?」
絶望の表情を浮かべ、太った少女は呟く。
「そんな……あいつを野垂れ死にになどさせるんじゃなかった……どこかで生きていないか……」
「そうよ……今からでもあの娘を探して、また王女殿下に差し出せば……そうすれば……」
中年夫婦は虚ろな目をしながら、ぶつぶつと呻く。
「……本当に最低だな、お前たちは。家族を何だと思っているんだ」
ベルトランは怒りを隠そうともせず、静かな声で言った。
その目は冷たく三人を見下ろしていた。
「お姉さまだって、私たちの役に立てるのなら幸せに決まっているわ! だって家族なんだもの!」
「そうだ! それが家族の絆だ! 我々の役に立つために生まれてきたんだから、喜んで命を差し出すに決まっている!」
「そうよ! 今度こそ、どんなに変わり果てた姿になっていたところで、受け入れてあげるわ! それができるのは、家族だけよ!」
太った少女、中年男性、中年女性がそれぞれ叫ぶ。
彼らを眺めながら、セシールは呆然と立ち尽くしていた。
家族と信じていた者たちは、最初からセシールを道具としか思っていなかったのだ。
しかし、どこかで納得している自分もいる。
役に立たなければ、家族として認められないと思い続けてきた。
それは、子どもながらに彼らの態度から感じ取っていたからだ。
「私……馬鹿ね……家族のために頑張っていたつもりだったけれど……本当に家族だと思っていたのは……私だけだった」
セシールは小さな声で呟く。視界が涙で滲んだ。
その途端、初めて気づいたように三人組がセシールを見た。
「誰よ、あんた……え……まさか……お姉さま!?」
太った少女は驚いたように目を見開く。
「そんな……まさか、本当に生きていたのか!?」
「まあ、なんてこと!」
中年夫婦も驚きの声を上げる。その表情は喜びに満ちていた。
「ああ、よかったわ! お姉さまだもの、きっと私たちに尽くしてくれるわよね? だって家族だもの!」
太った少女はそう言って微笑む。
「そうね! 家族だもの! きっと助けてくれるわ!」
中年女性は嬉しそうに言う。
「そうだ、お前は家族のために命を差し出すのが当然だ! それが家族というものだ!」
中年男性も叫ぶ。その声は喜びに震えていた。
「家族? どちらさまですか? 私の家族は、こちらのベルトランさまだけです」
セシールは三人組を見据えて、きっぱりとした口調で告げる。
「え……?」
三人組の顔色が変わる。信じられないものを見るような目で、セシールを見た。
「な……何を言っているの? お姉さま? こんなに綺麗になっているんだから、もう一回くらい身代わりになったって大丈夫でしょう?」
太った少女は、信じられないという顔で言う。
「そうよ! また元に戻れるかもしれないじゃないの!」
中年女性は悲鳴のような声を上げる。
「ああ……そうでした。ベルトランさまだけではなく、そのご両親もですね。私のことを娘と言ってくださって……本当に嬉しかったです」
セシールはベルトランの両親と対面したときのことを思い出して微笑む。
醜く太っていたにも関わらず、ベルトランの両親はセシールを温かく受け入れてくれた。
何かを要求することもなく、優しく世話を焼いてくれたのだ。
「何を……何を言っているんだ、お前は!」
「そうよ! あなたは私たちの娘よ!」
中年夫婦が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「そこまでにしてもらおうか」
ベルトランがセシールを庇うように一歩前に出る。
全身から怒りが立ち昇っているかのようだ。
「彼女は俺の妻、セシール・ヴァンクールとなる。お前たちが家族と呼ぶ権利はない」
ベルトランは静かに言う。
その声はひどく落ち着いていた。しかし、だからこそ冷え切った怒りが滲み出ている。
「何を……何を言って……」
「黙れ。これ以上、俺の妻を侮辱することは許さない」
ベルトランはそう言って三人組を睨む。
「ひっ……」
強い殺意が浮かぶ視線に、三人は小さく悲鳴を上げる。
ガクガクと震え出し、恐怖に満ちた顔で固まってしまった。
「お前たちは王都に連行する。手配書も回っているからな。せいぜい己の行いを悔いるがいい」
ベルトランは冷ややかな口調で言うと、門番に合図を送る。
門番は三人組を捕らえて馬車へと連れて行った。
「セシール、大丈夫か?」
ベルトランはセシールに向き直り、心配そうに問いかける。
「ありがとうございます……大丈夫です……」
セシールは弱々しく微笑むと、震える手でベルトランの手を握った。
その手の温もりに、少し心が落ち着く。
「よく頑張ったな」
ベルトランはそう言って微笑む。
優しい笑顔に、セシールの心が癒やされていく。
「はい……」
セシールはそっと頷く。
ゆっくりと息を吐き出して力を抜くと、瞳からポロポロと涙が零れた。
どうやら、かなり気を張っていたらしい。
「もう大丈夫だ。俺が傍にいる」
ベルトランはそう言ってセシールを抱きしめる。
優しい腕の温もりに、セシールは安心して身を委ねた。
*
かつてセシールの家族だった者たちは王都に連行され、処刑されることとなった。
王女の身代わりという役目を果たさず逃げ出したことで、その責任を取らされたのだ。
身代わり侍女は、王族の代わりに災いや呪いを受ける役割を負っている。
慣例として、王女は嫁ぐまで身代わり侍女によって守られることになっていた。
しかし、ジャクリーンはセシールから侍女の座を奪ったにもかかわらず逃げ出したことで、災いがウージェニー王女に牙を剥いたのだ。
ただ、ウージェニー王女にも問題はあった。
暴飲暴食をし、毒となる食物も平気で口にしていた。
身代わり侍女がいるからと、自分を律する努力をせず、ただ享楽に耽っていたのだ。
その結果、ウージェニー王女も病に倒れたが、自業自得とも言えるだろう。
もはや政略結婚の駒としても使えなくなった王女の末路がどうなるか、セシールにはわからない。
王女付きの普通の侍女たちも、職務怠慢や勤務態度の悪さによって、何らかの処罰が下されたらしい。
セシールは、王女によって解雇されたため、ベルトランの口添えもあってお咎めはなかった。
「これで、ひと安心だな」
ベルトランはセシールの肩を抱く。
優しい温もりに安心しながら、セシールは小さく微笑んだ。
「はい……本当にありがとうございます」
セシールは心からの感謝を込めて言う。
ベルトランは、自分の家族を守るために力を尽くしてくれたのだ。
「いや、礼には及ばないさ」
ベルトランはそう言って微笑む。
「あの、ベルトランさま……私には聖女の素質があるのですよね。でしたら、その力を活かすにはどうすればよいのでしょうか? 私もベルトランさまのお役に立ちたいです」
セシールは、ずっと心にあった疑問を口にする。それは心からの願いだった。
「セシール……」
ベルトランは少し驚いたように目を見開く。それから、真剣な眼差しでセシールを見た。
「……俺は、きみに聖女の素質があったから好きになったわけではない。きみだから好きになったんだ。だから、きみが何かになろうとする必要はない」
そう言ってベルトランは微笑む。その目はどこまでも優しかった。
「でも、私にもできることがあるのなら、それをやりたいんです」
セシールは真っ直ぐにベルトランの目を見て懇願する。
「……そうだな、妻のやりたいことを応援するのも、夫の務めか」
ベルトランは少し考え込んだ後、納得したように頷く。
「あの、では……」
セシールは期待を胸にベルトランを見つめる。
「神殿に連絡しておこう。だが、つらかったり苦しかったりしたら、無理をせずすぐに言うんだぞ。俺はきみの笑顔が見たいんだ」
「はい!」
セシールは満面の笑みを浮かべて大きく頷く。
「セシール、愛している」
ベルトランはセシールを抱き寄せて口づけをする。
「私も愛しています」
セシールもそう言って微笑み、自分から唇を合わせる。
その唇はどこまでも甘かった。
やがてヴァンクール辺境伯を継いだ若き領主の隣には、聖女と称えられる美しい妻が寄り添っていたという。
その仲睦まじい様子は、領民たちにとっての理想であり憧れであったと、後世に語り継がれている――
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