第7話 母と兄
あの頃――、幸助はまだ高校生だった。学校から帰宅する際、彼は電車を利用していた。彼はこれから帰宅するということを考えるだけで、抑えきれない感情のために待ち時間はプラットホームを端から端へ歩いて考え事をした。ほかの人は目につかなかった。これから先、まるで頭に狂気を抱えたつもりで、途方に暮れた路を行かなければならなかった。彼のその狂気というのは家で聞く、陰惨な台詞の数々を思い出すためだった。
電車が滑り込む瞬間、騒音を聞いて、彼はハッとした。ヘッドライトがレールと並行にしかれたプラットホームのラインの奥で結ばれると、彼の心はそれに魅せられた。誰かのために警笛が鳴らされたのだとしたら、それは自分のためではなかっただろうか、と彼は思った。
しかしその瞬間、また陰惨なあの言葉を思い出す。
――ふざけんなよ。
それは苦痛の種であるはずなのに、我を忘れた時に不思議と彼の境遇を吹き飛ばす台詞にも聞こえた。
家に帰ればほこりだらけの部屋に兄がいて、ずっとリビングのテレビを占領している、昼間に録画した競馬の中継を見てホットカーペットの上でまるでブタのように寝ているのだ。京子は黙ったまま料理を作り、帰った彼には一言も話さない。何か物音を立てれば、兄がまた喚きだすからだ。帰宅するといつもこんなにピリピリとした関係を彼は目にしなければいけない。そうでなくとも兄は京子に対して嫌悪感をムキ出しにする。
「飯はまだか」「いつまで時間をかけてるんだ」「こんなヘタなもの食えやしない」「あんなもの誰でも作れる」「バカにしやがって」「オマエがオレに何をしてくれた」「オマエなんかいてもいなくても変わらない」「ジャマだから消えろ」「オマエがここにいても無駄だ」「ロクに家にもいないクセに母親ズラしやがって」「ふざけんなよ」……
彼はその罵声の中、ヘッドホンをかぶり、音楽でも聴いて外界でおこること全てをなかったことにしていた。あからさまに京子と孝道のふたりのあいだの事情が見えるが、どう関係する術もない。口を出せば「テメエにはカンケーねえ」と喚かれるだけだ。