第28話 終末
それから幾日か経った。 いつものように祖母に夕食をとらせていた。祖母の手が止まった。祖母はテーブルのポットのところを見て箸で空を何度も掴みだした。
「何? どうしたの?」
祖母の顔を見ると私は何だか恐ろしいような鬼の顔を見た気がした。左半分の顔が硬直して垂れさがっていた。その顔、左半分、眉が下がり、瞼も落ち、頬も垂れ下がり、口がほんの少しばかり開いていて、右の顔だけはしっかりとこちらを見ているのにもかかわらず、左の顔だけは狂気に満ちていた。 祖母はそれからじっと黙っていて、しばらくポットを見ていたが、やがてポットを指さしてから言うのだった。
「そこに猿がいるのよ」
「何?」
「猿よ」
ふと幸助は医者の話していたことを思い出した。
「抗ヒスタミン剤は徐々に効かなくなりますから――」
――効かなくなりますから、どうなるのかという説明はなかった。
しかしこれがその兆候のようだった。ようは脳の炎症が抑えられなくなって、病状というか、死に向かう兆しが見えてきたということだ。
ひと月経つと祖母は布団からひとりで上がれなくなった。布団から起こすと突然寝間着からおむつまで脱いでそのまま畳の上へ用を足してしまうこともあった。
また別のある日の朝、祖母を起こしてベッドの立板に掴まらせたまま着替えの支度をしていると、祖母は突然立板から手を離して後ろへ倒れてしまった。倒れた先には折りたたみのハンガー掛けがあり、ハンガー掛けのネジの取手にザックリ頭頂部をぶつけてしまった。
髪の毛の隙間に見える頭皮からあっという間に赤い血が湧き出て流れ出した。彼は慌てて近くのティッシュボックスからちり紙を抜き出して祖母の頭を抑えた。
しかし、それでも血は湧き出てくる。ちり紙はあっという間に真赤になり、血はすぐさま滴り出した。何枚ものちり紙をティッシュボックスから取り出して頭に当てたが止まる気配がない。祖母の頭を抑えたままで電話まで行くに行けない。それにこの血が床に滴ることだけは避けたかった。
毎日のように転んだりぶつけたりして顔の他に腕やお腹にも痣を拵えている祖母のそばを離れて人を呼ぶにしてもどこも安全ではない。
と、そうこうしているうちに伯母が祖母の世話をしに訪れた。
伯母は状況を見るや否や洗面所へと駆け込んで、ハンドタオルを持ってきた。
「これで頭を抑えなさい」
言われたとおりに頭を押さえるとティッシュペーパーよりずっと簡単日を流血を抑えることができた。祖母はそれを見届けてから病院に連絡を入れた。
その日、かかりつけの病院は休診で見てもらうことは叶わなかった。血の止まらない状況から失血することが恐ろしかった。伯母は祖母を看に戻ってきたので、彼は代わりに救急へ連絡した。
脳神経外科を近場で見つけて、診察を始めると医者は第一声にこんなことを言った。
「まさか、これは虐待ではないだろうね?」
彼も伯母も面食らってすぐに否定したが、悪く思われれば警察沙汰になってもおかしくはなかった。
傷口はホッチキスのような金具二針で止めた。
翌日の晩、祖母が風呂からあがり、紙オムツをいつものように着せた。祖母は背を丸めてその紙オムツをじっと見つめていた。時折ゴムのところを引っ張っては離して、パチリとそののう胞で膨れ上がった腹に打ち付けた。更に両方の太ももの皮を延ばして苛々しているようだった。彼は気にせず上半身を拭いていたが、祖母は急にこう言いだした。
「アンタ、アンタ!」
「何?」
「ちょっと、おトイレに行くわよ!」
「お風呂に入る前に行ったばかりでしょう? また行きたいの?」
祖母は彼の言うことには耳を貸さないでその身体を拭き続けた。
「アンタ! 身体にね。鯛と鮭がへばりついてとれないのよ!」
「鯛と鮭?」
「取ろうとしても取れないのよ。早く取っちゃって冷蔵庫に入れないと腐っちゃうわよ」
私は本当に訳が分からないので急いで服を着せて、
「鯛と鮭は食べちゃったからないよ」と言って寝かしてしまった。
翌朝、祖母は布団でちゃんと寝ていた。幸助は安心して、自分の朝食にしようと冷蔵庫を開けると、そこには紙オムツが綺麗に畳まれて入っていた。
「鯛と鮭だって?」
「そう、鯛と鮭」
「オムツが鯛で?」
「太ももが鮭でしょう。そう見えたんだよ、きっと。」
「それで冷蔵庫にオムツ入ってたの?」
「そう」
「はっははは――。笑っちゃうわね、それは」
伯母はその話を笑い飛ばしていたが、ここまで来ると彼にはもう終わりなんだという考えが強くなっていた。