第1話 兄
⁂
幸助には孝道という兄がいた。
「おまえは、馬鹿なんだよ」
それだけ言って、孝道は幼い幸助を激しく殴ることがあった。まだ小さくて言葉もよくわからない頃のことだ。畳の部屋の隅で柱に思いっきり頭を打ちつけられて泣いた。そしてそのまま畳に顔を強く押し付けられた。もがいてもあがいても4歳上の孝道の手は振りほどけなかった。もう死ぬのではないかと思うくらいの痛みが彼を泣かせていた。
彼の昔の家は荒川からすぐのところにあった。マンション群の一角、3LDKの公団の借りる一軒を父の仕事の都合で間借りできていた。彼は父親も母親も仕事で保育園へと預けられていたが、生まれた頃から病弱で、母親はいつも彼の面倒のために仕事を休まなければいけなかった。しかし彼にとって母親が休みの日がいちばん良質な時間を過ごせた。保育園に行けば昼過ぎにはいつも体調を崩した。慢性的な鼻炎と喘息で風邪なのか持病なのかいつも判断がつかなかった。体がだるい気がするのはいつものことだった。彼は6畳の広さの部屋でゴロゴロしたりいつの間にか眠って過ごすということがとても気楽で良かった。
しかし兄に殴られたのはその6畳間で起きた出来事である。
気づけば彼は訳もわからず孝道に、殴られたり、蹴られたりして青痣や単瘤つくった。母はそれを見ても、喧嘩をとめるだけで、訳は訊かずに、放っておくだけであった。