第18話 けむりの家②
京子の別居の原因は父の露骨な態度もあったが、それよりも京子の子どもに対する気色の悪い愛着のためでもあった。京子は何かにつけて孝道に干渉した。家から出なくなった時も、孝道はミカンを投げつけられたと言った。競馬を始めた当初もその熱心ぶりに、母は牧場を探し、何の相談もせずに孝道を会員にさせて無理矢理下宿させたりしたが、当人はすぐに飽きて家へ戻ってきてしまった。高校の時の進路相談にしても、母親は勝手なことを言い並べて、孝道は何も話すことができなかった。そしてその度に孝道は酷く喚いて狂った。
父は孝道が喚くようになってから、こういうことを言っていた。
「三つ子の魂百までって言うけどな。母親、三歳ぐらいの孝道に何してたと思う。朝なんか、アイツが目覚めるなり〝はい、チョコレート〟って言って、あげてたんだぜ。本当に異常だったな。育てるって言わねえよな。ペットみたいに飼い慣らしてただけだよな」
孝道との関係が母親を別居に至らせた本当の原因であるのは確かなことだった。幼少、孝道が幸助を殴ったりしたのも、それを予期させることだった。生まれてから孝道を躾しつけずに可愛がって育てた京子は、幸助が生まれてから彼の方に付きっ切りになって、孝道を相手にしない時期があった。孝道が幸助を殴っていたのはそれの嫉妬だった。それからは〝お兄ちゃんなんだから〟と言う理由で、孝道は甘えたい時期に甘えを許されずに過ごしたのだと祖母はよく話していた。 孝道は永い歳月をかけて怨念を溜めこんで、大人になる前に発狂した。それは母親の干渉に対する強い反発でもあった。
――孝道は学生の時分に、人とは関わらないで過ごした。そのために社交という言葉をわからないだろう。それに加えて幸助にも反発的であった。そうした孝道の人格を作り出したのは父と母の不仲だった。いがみ合いを見せつけられた幼少の孝道にとって、そうした関係が、家族と、それからその他の人間との関わりの手段でしかなかった。実際孝道は学校に行っても人を悪く言うことばかりしていた。それは孝道がそうすること以外に、人と関わる術を知らなかったからである。 幸助が生まれたころは、大分穏やかになっていた家だが、その陰険さを段々と彼に気づかせたのは父の独りごとであった。
独りごとはこういうものだった。
はい。……はい。
すみません。……すみません。
どうも、申し訳、ありませんでした!
ふざけるな!
父は普段から険悪な人間であった。何を言っても怒っていた。それはしかし、京子の意固地な性格のせいであった。父と京子の不仲は幸助たちの教育方針の食い違いのためにもあった。
幸助は幼いころから父が嫌いだった。何かにつけて父は母親と喧嘩をしていたし、彼の話に関しても聞く耳を持つことはなかった。何をするにしても、父の言い分は絶対だった。その言い分が通らなければ父に何を言ったとしても俺がなにをしたんだと怒鳴るだけだ。そんな勝手な振る舞いは彼を苛々させるばかりだった。
しかしそうした彼の苛立ちは京子に育てられていたころのことだ。京子が家のことをせずに仕事をし始めたころ、結局誰が何で悪いからこの家はおかしいという問題は彼にとってどうでもよくなった。京子は仕事をはじめたころから、料理が粗雑になった。もともと朝からラーメンや海老チリ、ステーキなんかを食わせる母親だった。 学校の登校時に友だちがトイレで吐いている彼を見つけた時「朝、何を食べたの?」と言われて、それらのメニューを挙げると、友だちは怪訝な顔をして、朝からそんなに重い物を食べているのかと言うので、幸助ははじめて自分の家に確信的な嫌悪を覚えた。
それから表面だけ焼かれたハンバーグや、半分なまの野菜炒め、醤油の味しかしない煮ものなどが並ぶ食卓になった。幸助は並べられた食事をもう一度火を通して、再び手を加えてから食べたが、どうしても不味くて最後まで食べることができなかった。それを父が一生懸命に食べているのを見て、どうしてそんな無理ができるのかと驚くばかりであったし、孝道は物心ついたころから〝あんな物〟と言っていっさい手をつけることはなくなっていた。幸助が京子に対する不審感を覚えたのはこの頃であった。
京子の別居先で寝ながらうつらうつらとそれらのことを考えている間に、鉄の扉が開く音が聞こえた。彼はハッとして目を覚ました。京子が帰ってきた。京子は父から連絡を受けていて、事情を知っていた。しかし京子は帰宅しても彼を遠くから見ているばかりで何もできないというような雰態度だった。
「アンタ、アイツに何か言ったろ」
彼が母親を怒鳴ったのはこの時が初めてだった。それは祖母が前から彼にぼそぼそと呟いていたことを思い出したからだった。
「アンタの母親、たまにアンタたちがいない時に家に来るのよ。――図々しいわね。家のこと何にもしない癖に出入りして、節操がなさすぎるじゃない? それであれは絶対タカちゃんに何か余計なこと言っているんだわ。――どうしてなのかしら。アンタの母親が来た日の夜はタカちゃん、殊に荒れるのよ」
⁂
京子は孝道を見つけて家から連れ出すと言ってきかなかった。彼がそんなことをしてもどうにもならないというのも聞かずに、京子はアパートから出て行ってしまった。
取り残された彼はしかしながら清々していた。あの陰湿な兄とはもう関係ない。彼の考えるところに孝道の存在はもうなかった。そもそも小さい頃から彼にとって異常者の何者でもない兄の存在は、いなくなったほうがマシだった。あとは親権者に任せて放ってしまえばよかった。そもそも幸助に孝道の面倒など見れるはずもないのだから。
その後しばらくして彼のところには父が来た。
「何があった」
「あっちに行けば分かるよ」
白々しく彼がそう言うと父はネクタイだけ抜き取って家へ向かおうとした。彼はせわしない父を引きとめて話した。
「第一志望の大学は諦めるよ」
父は驚いたような顔をして彼を見て怒鳴った。
「どうするつもりだ」
彼はどうしてそんなことで父を引き止めたのだろうかと思った。どうせいつもと同じことを言われるだけだ。今さらこの男に自分の人生を話したところで、いつも思う通りにさせないように無茶苦茶にするのはこの家族なのだ。彼は自分自身をバカバカしく思いながら「今から推薦でいける適当なところを探す」と返した。
父は何か言いたげな顔をしていたが、それ以上は口にせず「そうか」と言っただけで、すぐに家の方へと向かった。
彼は母親の別居先に留まったまま、鞄につめ込んだものの整理をした。南側にある窓の向こう側には、集合団地が並んで見えた。夕暮れに向かう時刻で、団地の影がコントラストを強めている。そのそびえたつような建物の一棟一棟が、みじめな気分を思わせるのは、何のためだったのか彼にはすでにわからなかった。 大通りを車がいくつも行き来しているのを見ると、彼はこの世界だけ時間が止まってしまったように感じた。実際彼にはこの先のことが何もわからなくなっていた。今まで自分はなんのために生きていたのか、家族などという離そうとしてもいつまでもひっついて来る厄介なものに、生きた半分以上を費やしたバカバカしさにこの先やるべきことをなんの準備もできずにいることが更に彼を厭世的にしているのであった。
しばらくしてまた京子は戻ってきた。 彼女は黙ったまま夕食を作りはじめた。父はその後すぐに戻って、父母同士二人で話しはじめた。彼はそのくだらない喧嘩の話にはほとんど聞く耳を持たず、畳の上に寝そべりながら、暮れていく窓の向こうの景色を絶望的な感慨の中で眺めていた。
その晩は三人、同じ床で就寝した。その夜が彼の母を見た最後だった。