第16話 訪問
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祖母を見舞った翌朝、彼は父と車に乗り込んだ。 O町は盆地になっている。見渡す限りは山の中である。車は国道から少し離れていった。小道を通り、家々や雑木林を通りすぎる。柿の木の植わっている丘の一角に住宅が密集していた。その密集した一軒に孝道がいるのである。丘の上の神社の中で車は停まった。
車の中で父は言う。
「お前も来るか?」
「一応行くよ」
青黒い玉石の敷き並べられた境内の脇を通って神社を出てると景色の開けている方へ行く。秩父山系を一望しながら近しい景色の斜面に広い畑があった。その畑の農道を行くと瓦屋根の小さな平屋が近づいてくる。
玄関には〝K〟と表札があった。
「あそこのオヤジ、しっかり自分のものにしてるんだな――」
「あれでしょう。裁判やって負けたやつ」
母方の祖父は曽祖父の遺産を争って裁判を起こした。祖父は遺言書を持って法廷に望んだが、遺言書はひとつではなかった。
「兄貴の方が日付が新しかったらしいからな」
遺産は曽祖父の家と土地であった。新しい遺言には祖父の兄が土地をもらい、祖父は家を与えられた。母方の祖父は親に結婚を反対され、勘当同然で家を出た。父はこのオヤジのことをとても嫌っていた。母方の祖父はすすんで離婚の話を京子に唆していたからだ。
「弁護士は妹の紹介?」
京子は三姉妹の真ん中だった。その下の末っ子の妹は弁護士をしていた。
「だろう? そうじゃなかったらうちの話だって母親の代わりに弁護士から通告がくるなんてことはないよ」
「阿呆らしい」
K家は家族ぐるみで物事を進める特異な体質があった。その体質は姉妹3人の他に男児がまったくなかったためである。K家祖父は後継ぎ欲しさに娘たちの家族に介入し、スキを見て子どもを懐柔しようとした。それは嫁入りした家から男児を引き離し養子縁組してK家筋の跡継ぎを得ようと画策していたためである。そして末の三女はそのことに関して積極的であった。
「弁護士雇ったらその分金とられるんだからな」
彼にとってそのことは事実にしろ妄想にしろどこかしらの真実味を帯びて脳裏に張り付いていた。京子の家庭破壊的な行動の裏付けには一つの筋の通った事実だからである。そしてそれは母親からくる突然のメールが意味しているように――。
「お前、まだ母親からメールくるのかよ」
「ああ、返したことないけどな」
それはとても虫唾の走る出来事だった。彼は母親に一度も携帯のアドレスを教えたことはなかった。それがなぜだか突然メールが届いたのである。おかしなことは他にもある。京子が出ていったあと、幸助と父は住居を変えるために引っ越したが、その引越した先の住所を知っていたことや、父が単身赴任であること、進学先に決めた大学の名称まで京子は知っていたからだ。
「それにあれは、探偵を使っているみたいだからな」
父はそこまで話すと呼び鈴を鳴らした。
孝道はへらへら笑いながら出てきた。
「鍵は空いてるよ」
髪が部分的に抜け落ち、孝道は全身むくんだような体つきででっぷりとしていた。首の周りは赤く腫れて、目の両端も赤くむくんでいる。髭が伸びたままで、全身は重そうにどっかりと気だるくしている。顎は上を向いていて、どこにも力が入らないといったようだ。 彼にはまだ孝道に対して恐怖の念が残っていたが、むしろその異様な風貌は3年前の孝道の面影を残しつつも無惨に変わり果てたとしか言いようがなかった。孝道の目はつり上がって、いかにも腹に悪い物を抱えているという感じである。
孝道は彼を見るなり目をむいてこう言う。
「何だよ。幸助も来たのかよ。お前はいいよ、どこか行ってろよ」
そして孝道が彼を見る目つきは、どこか怯えているのであった。
父は30分ほどして戻ってきた。彼は車の中で本を読みながら待っていた。父はただじっと険しい顔つきで運転席のドアを開けた。
「孝道のところにも弁護士から通知がきたんだってよ。あの家を出ろって言われたらしいな」
「ふうん。それで、孝道どうしたいって?」
「こっちに戻れないかって言ってるよ」
「でも孝道、俺らの生活に合わせられないでしよ?」
「だからと言って、野放しにはできないんだよ。もしどこかで悪さしたら、身元引受人は俺になるんだからな。俺が死んだって、お前にその番が回るんだぞ」
「あそう――。ところで、アイツ、いま何やってるの?」
「さあ? 相変わらず競馬に行ってるって聞いたけど、今は病気で出られないみたいだな」
「病気?」
「頻尿」
「は?」
「これ」
そう言って父が手渡そうとしたのは一升瓶だった。
「土産だと。アイツ酒を浴びてるらしい」
「それで頻尿?」
「だろう」
「頻尿って、あの歳で?」
「もうアイツもお終いだよ」
私と父は街道沿いで食事処を探して昼食をとってから孝道にいる町を後にした。