第13話 病院にて
「祖母さん。病院は楽しいかい?」
「つまらないわ」
一週間経ってまた父は出張先から戻ってきていた。父は医者と話していたので、彼はひとりで祖母と向き合っていた。病院内はところどころで停電していたが、院内の発電機で医療機材だけは動いているようだった。病棟では患者のうめきや、荒い呼吸などが聞こえてくる。あの津波から院内の灯りは点かなくなかったため、その声は余計に気味の悪く、どことなく嫌な気分にさせられるところだった。老人たちが廊下の手すりに捕まりながらゆっくりと歩いて行ったり、医者がせわしなく廊下を駆けて行ったりするのだが、祖母のいる病室は大人しいものだった。向かいのベッドでは呼吸器をつけた老人がこちらを見つめて、ずっと苦しそうにしている。人間の汗の臭いと、はらわたが腐ったような臭いが、消毒液の匂いと混じって、息が詰まりそうな空間であった。
「調子は?」
彼は話しながら病床の脇に椅子を置いて座った。そして祖母の着替えのある箪笥に目をやっていた。
「まあまあだわね」
「今度、孝道のところに行くよ」
「あら、タカちゃん元気?」
「わからない――、わからないけど、」
祖母が孝道を心配そうに言うのを聞いて彼は狼狽した。それは何か忘れていたことを思い出した気がしたからだ。しかしそれがいったいどういうものだったのか、彼にはわからなかった。きっと祖母の言い方が孝道がまだ小さかった頃を連想させたからだろう。
幼少の頃、祖母はいつも彼に言っていた。
「タカちゃんならすぐにできるのよ。コウちゃんはどうしてできないのかしらねえ」
彼にはその頃憧れた孝道を今は悲しみの中でしか見ることができなかった。
「親父のところに連絡があったんだって」
「そう――」
彼は祖母の小さな返しと一緒に一息ついて、祖母の方に向き直った。
「母親ともめたらしいよ」
「いやねえ」
祖母は病院のベッドに横たわったまま天井を見ていた。
「お母さんは、――それで、どうしてるの?」 「さあ?」
この頃の母親とは一切音信不通だった。けれども彼にとって京子が何をしているのかというのはなんの問題にもならない関心のないことであった。
「タカちゃん、まだ馬やってるのかしら?」
「らしいよ」
引き籠もってからの孝道の趣味は競馬だった。家にいる間はずっとテレビで中継を見ていた。
「早く家に帰りたいわ」
「明後日出られるって」
「そう――?」
病院の窓の外は閑散としている。冬空と枯れ木の並ぶ街並みにシステマチックに人並が流れていく様は何の感慨にもならないつまらない風景であった。
彼は数分祖母と簡単に話をして父と病院を出た。
「だけど太いなあ、祖母さん」
父は祖父が入院したときのことを話した。彼がまだ中学に上がったばかりのことだ。彼は祖父の最後の頃をあまり覚えていなかった。学校から帰ると、いつの間にか入院していた。その時祖母は〝こんなの世話できない〟と祖父の病床の前で言ったという。
「それで祖父さん気力なくして、可哀想に」
昔の人は生きがいがなければ人はただの人のように考えていたのかもしれない。ただ生きているだけというのは価値のないことなのだろうか――。
彼は父の運転する車の助手席で話をしていた。
「それが自分となると〝家帰せ、家帰せ〟だもんな」
「残酷だねえ。それより明日、孝道のところ行くの?」
「あ、ああ、行くぞ」
彼が孝道と会うのは3年以上も間を置いてのことだ。祖母と病院で話をしたとき、彼の心が揺れたのは、孝道が家を出たときのイメージが蘇るからにほかならなかった。
「――何だかアイツ、母親から手切れ金に二百万も貰ったって言ってるし」
「それ、俺の学費だろう?」
「そういうことになるんだろうな。母親が別居をはじめた時に、俺に突きつけた通帳なんて、スッカラカンだったからな――まぁ、何にしても駄目なんだろ、アイツら」
競馬は、高校に一年遅れであがってからも続いていた孝道の唯一の楽しみだった。しかしよくなかったのは、金をすってくるたびに荒れることだった。孝道が母の家事を責めはじめたのはこのころからだった。競馬をしながら孝道は荒んでいった。そのために京子はヒステリーを起こすようになった。京子は孝道を怖がってお金を渡した。それを彼は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。そのころ彼は大学受験をひかえていた。頭の中で彼は自分のことの方が心配だった。しかし孝道が荒れて、京子がヒステリーを起こすたびに、彼は家のことに段々と引きずられていった。 そうしたことが続いて、父と京子は別居するようになった。
「お母さんは明日から家を出るって」
ある晩父がいきなりそう言ったのだ。その時彼は言いようのない怒りを覚えた。けれどもそれが孝道に対してなのか、京子に対してなのかはっきりとしないものだった。