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「他の店員いないの?」
首元が汗で湿った赤いシャツ。白髪染めの紫色の髪。不機嫌そうに唇を歪めたおばさんが、レジでお弁当を手に「温めますか?」と聞いた俺に苛立ちを向けた。
「どうかされました?」
飲料の品出しをしていたケンがいそいそとレジに入って来て、俺の目の前で気色ばんでいる客に尋ねる。
「この人、気が利かなすぎでしょ。あたしん家、電子レンジあるの。大体どこの家庭にだってそう。今温めたら、家に帰るまでに冷めちゃうじゃない」
客を刺激すまいと、俺は必死で頭を下げた。
「申し訳ありません。では、このまま袋にお入れしますね」
「当たり前でしょ」
しかしおばさんの怒りはまだ収まらない。
「こんな不愛想な店員、さっさとクビにしなさいよ。気分悪い」
隣で状況を見守っていたケンの顔つきが険しくなった。
「勝手に温めたわけじゃないんですよね? ちゃんと聞いたんですよね」
「……ええ。だから何?」
「ならそのとき”ウチには電子レンジがあるので、家に帰って温めます”って言えばいいだけじゃないですか」
火に油を注いだのか、顔を真っ赤にしたおばさんが口角泡を飛ばしながら喚き始めた。
「急いでるあたしがそこのテーブルに座って食べて帰るように見えるの? 言わなくたって判断しなさいよ! それが店員でしょ!」
ケンは一歩たりとも引かずに、おばさんに言い返す。
「確かに俺らは店員ですが、エスパーではありません。何も訊かずに見た目で判断される方が客にとって迷惑じゃないですか?」
そうだそうだ! とおばさんの後ろに並んでいたスーツ姿のおじさんが声を上げる。気づけばずらりと列ができていた。
チッと舌打ちをしたおばさんは、ばつが悪そうな表情を浮かべながら弁当の入った袋を奪い取るように受け取り、店を去って行った。
「……お前、いつかクビになっちゃうぞ」
レジの混雑を切り抜けた後に、俺は品出しに戻るケンに向けてぼそりと呟いた。
「言いたいこと言ってクビになるなら仕方ねえよ」
そう言ってにかっと笑うケン。
「俺にそういうメンタルが少しでも備わってりゃ、こんなにくよくよ悩まなくて済むのにな」
レジで大きなため息をついた俺に、ケンが棚の間で足を止めて振り返る。
「どうした。彼女と喧嘩したのか?」
「……そういうわけじゃないんだけど」
ケンはレジ前の栄養ドリンクの棚から一番高いのを抜き取り、俺に差し出しながら言った。
「我慢は良くない。タイミングを逃しちゃうとますます言いにくくなって、ずっと我慢しっぱなしになっちまう。素直に自分の気持ちをぶつけるんだ。すっきりするぞ」
「お前が言うと卑猥に聞こえるな」
俺はケンの差し入れを断り、「みなぎるみなぎる赤まむし」をそっと棚に戻した。もう二度とあんな事件はごめんだ。
「気持ちだけ受け取っとくよ」
客が入店してきた。俺はすかさず腰の前に手を組んで、「いらっしゃいませー」と愛想のない顔を向けた。
夕方のバイト帰りに、俺は最寄りのスーパーマーケットに立ち寄った。入り口で買い物籠を取り、入ってすぐの野菜売り場で足を止める。混雑する店内。小さな子供を連れたお母さんたちに混ざって、ケースにうず高く積まれた特売のジャガイモを手に取りながら品定めする。一個で38円。二個で68円。袋で買うと更に安いが、そんなにはいらないな。形のいいのを四つ選び取り、小さなビニル袋に詰めて籠の中に入れる。あとは人参、玉ねぎ。そうだ、にんにくも忘れずに。
実家に居たときは、夕食はほとんどカレーだった。親父は金属製品の加工を行う職人をしていたが、経営していた工場が海外メーカーとの価格競争に勝てなくなり廃業。借金を背負い、その後は深夜のスーパーマーケットでマネージャーとして働いていた。
俺が寝ている間に仕事に行って、学校から帰った頃には布団の中でいびきかいている。いつの間にやら作ってあった、野菜ゴロゴロ、水分多めのカレー。冷蔵庫から引っ張り出して、毎日火を通して食べてたっけ。
誰でも作れるカレー。でも、親父にしか作れないカレー。
不器用でも一生懸命作ってくれたアキの料理のお返しに――久しぶりに作ってみよう。かつての記憶を頼りに。
家に帰ると、ちょうどアキが覚束ない足取りで玄関に入ってきた。瞼が重そうな顔で、ぼーっとしている。どうやら寝ていたらしい。
「遅かったですね」
「ああ、ちょっと買い物してたんだ」
出迎えてくれたのかな? と思って嬉しくなったが、アキが恨めしそうな視線を俺に向けてぷいっとリビングに戻って行ったのを見て、何となく察した。
トイレに行きたかったのか。約束なんか気にせずに、堂々と行けばいいのに。
キッチンに入ると、冷蔵庫に食材を詰めながらリビングに向かって声を掛けた。
「アキ。今日は俺が飯を作るよ」
使い慣れないキッチンで調理器具などを集めていると、ソファに寝転んでいたアキが起き上がり、とぼとぼとやってきた。
「何作るんですか?」
「カレーだよ」と答えると、軽く目を見開いて頬を膨らませたアキは、興味深そうに俺の手元を凝視し始めた。
時刻は夕方の六時。あまり時間はない。ジャガイモの表面をごしごしと手でこすって洗い、ゴミ箱の上で皮を剥く。くるくると回しながら包丁の根っこで削ごうとするが、実に突っ込んで深くえぐってしまったり、何度も皮が途切れたりとうまくいかない。
「へたくそですね」
横でアキが口を挟む。
「普段はピーラーを使ってるんだよ。包丁で剥くのは慣れてない」
俺の言い訳に耳を貸す様子も無く、ぎこちない手つきを隣でじろじろと見つめるアキ。どうにかジャガイモと人参の皮を剥き終えると、まな板にごろっと並べて大きめにカット。玉ねぎは手で皮をばりばりと剥いて、芯を刳り貫き、指先を丸めながら慎重にスライスしていく。
とんとん、とん、と不規則なリズムを奏でる包丁の音。目が痛くなってきて、換気扇をつける。ふうと息を吐いて呼吸を整え、次はにんにくを二欠片ほど捥ぎって、冷蔵庫から取り出す。皮を剥いて芯を取り除き、適当にみじん切り。鍋に火をかけて投入。弱火で熱すると、徐々に香りが立ち上って来る。
今度は鶏のモモ肉。もうカットしてあるのを買ったから、トレーのラップを開封して、そのまま鍋に投入。
ジューっと脂の焼ける匂いがキッチンを包み込む。切った野菜をごろごろと流し込んで、かき混ぜながら炒める。
「あ、やばい。米炊いてねえ」
ずっとバタバタ。買ってきた無洗米の袋をはさみで切ったところで、アキに「計量カップは?」と訊くが、「ない」と即答。訊いた俺がアホだったと後悔しながら、スマホで検索。計量カップがないときは、水と米の割合を1:1にすればいいらしい。早焚きにセットしてまな板の前に戻ると、「これのことですか?」とアキが真顔で計量カップを渡してくる。あったんかい。今さら遅え。
水を入れて、野菜が柔らかくなるまで煮る。灰汁が出たらお玉ですくって、シンクに棄てる。
「お母さんみたい」
首を傾けて鍋を覗き込みながら、アキがぽつりと言った。
「え? 俺が?」
そんな風に言われるとは思っていなかったので、正直戸惑った。お玉を持ったままアキの方へ顔を向けると、「私のじゃないですよ。世間一般的な母親って、こんな感じなのかなって」と淡々と言葉を続けた。
また返しに困るような事を。色々と深入りして聞いていいことなのかどうか分からないじゃないか。
「アキのお母さん、仕事で忙しかったとか?」
慎重に言葉を選びながら尋ねると、アキは湯気に包まれた鍋を見つめながら「そんな感じです」とだけ答えた。
ああやっぱり。沈黙を恐れた俺は、今更だが、昨日なんとなく聞きづらかった話題に活路を見出すことにした。
「どうしてきのう……晩飯を作ろうって思ったんだ?」
俺の為に……と言いかけたところで、いや、そんなんでもないか、と口をつぐむ。
ぷいと顔を背けたアキが、それっきり黙ってしまった。あれ。むしろこっちの方が地雷だった?
「喜ぶと思ったから」
びっくりして、手に持っていたお玉を落としかけた。横目でアキの方に視線をやるが、俯いていて表情が見えない。
何だよそれ。そんな冗談ぽくない言い方で、らしくもないことを。意識してしまうじゃないか。そういうんじゃないって、割り切ってやってきたっていうのに。
「そうそう。俺、好きだったんだ、親父の作ったカレー。父子家庭で、仕事も忙しいのにカレーだけは作ってくれててさ」
どうにか誤魔化した。それでもまだ心臓が熱く波打っている。どきまぎして視線を泳がせていると、いつの間にやらアキが腕が触れるくらいの距離にいて、俺の顔を見上げていた。
「嬉しかったですか?」
俺のことを知ろうとしている――その眼差しが眩しくて。どうにか平静を装おうと、意味も無く鍋をせかせかとかき混ぜた。
「そりゃあ、もちろん。借金背負って、夜通し働きづめで。それでも俺の為に作ってくれてたんだからな。だからっていうか……俺も親父の為に何かしなくっちゃって思って。中学校に上がったくらいから、毎日料理をするようになったんだ」
生姜焼き。焼きそば。鮭の塩焼き。肉じゃが……できるだけ簡単で、親父の口に合うものを。今度は親父が寝ている間に、俺は毎日作り続けた。
「だから料理出来るんですね」
「出来るって言うか……上手ではないぞ」
隣で鍋を見つめながら、アキの手が俺の背中を軽く撫でる。その感触に胸がドキドキして。相方、という役割然的なものが、少しだけ面倒くさくなった。
「上手い下手というか、するかしないかですよ」
ああ、成程と思った。アキが料理を振舞ってくれた理由。お互い、求めているものが一致している。
俺は幼い頃から”世の中と自分”との距離感を把握したつもりになって、適度に折り合いをつけながら生きて来た。でも結局どうなった? 就活で人間としての価値を否定され、ブラック企業から逃げ出し、夢も目標もなくコンビニ店員として生きている。
でも、俺には相方ができた。相方をさせて頂いているのではない。多少無理やり誘われた感はあったけど、相方になることを受け入れたのは紛れもなく自分だ。
俺のことを受け入れ、必要としてくれた人。この手の温もりは、俺を安心させてくれる。
「コンビって何なんだろうな」
俺がそう問いかけると、アキは考える素振りも無く、間髪入れずに答えた。
「ひとりじゃないってことですよ」
そりゃそうだ。俺は煮えたぎる鍋の火を少し緩めて、お玉から手を離した。
「アキは、どうしてコンビを組もうと思ったんだ? 一人でやってても充分すげえのに」
それはちょっと違う、とアキが首を横に振る。
「私はコンビを組みたかったんじゃありません。ショウと一緒にやれば、面白いことができると思ったんです」
立っているだけなのに? と俺が笑いながら言うと、アキは少しむくれながら俺の脇に拳をぐりぐりと食い込ませた。
「立っているあなたがいいんです。それで充分面白くできますから」
それ、気を遣ってるじゃん。らしくもない。肩越しに視線を落とすと、固く口を結んでいるアキと視線が重なる。そのまま俺は動かなかった。
今言っておかなければ、ずっと我慢しなければいけなくなる。ケンの言葉が、俺の背中を押した。
「正直言っていいか? それは……嫌だ」
我儘かもしれない。でも、このままじゃアキにおんぶにだっこだ。親父がひたすら俺が寝ている時に作ってくれたカレーを温めて食べていた時みたいに。
「嫌って。立っているのがですか?」
「そうだ」
初めてと言っていいほど、面と向かって反発したせいか。アキは困惑したような目つきで、軽く唇を嚙んだ。
「立っているだけでいいって前提で最大限できることを生かしたネタなのは分かるけど……俺が喋れば、もっと面白いネタができるはずだろ? 俺に負担を掛けたくないって気持ちは分かるけど……。もっと信頼して欲しいし、俺だってアキの力になりたい」
鍋の蓋……するべきか。迷ったけど、しないことにした。料理に正解はない。作り手がどうしたいかによって、味が決まる。
「いいでしょう。ただ、覚悟してくださいよ」
アキはすぐさま俺の手を引っ張ってリビングに戻り、ベッドの下の段ボール箱の中から真新しいノートを引っ張り出した。ソファの隣の壁際に俺を立たせて、アキがノートとボールペンを手に並んだ。俺が右手で、アキが左手。
少しだけ、じっと腕を組んで俺を見上げながら考えを巡らせる。何か閃いたのか。アキは目を血走らせながら、ペンでノートに書き殴り始めた。
「あと一週間。とことんやりますよ」
ああ、やっちゃったな。もともと本気だったスイッチの、リミッターを振り切った先までレバーを押しちゃったみたいな。何を言わずに、黙って言われた通りにやってれば楽だったのに。
でも、楽はしたくなかった。俺はアキの”相方”としての自分を見つけたのだ。




