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かちゃかちゃとフライパンを動かす音と、野菜の水分が弾ける音。米の炊けた匂いが、リビングにまで漂って来る。
バイトを終えてアキの部屋に帰ってきた俺は、リビングの椅子に背中を預け、ゆったりと座っている。どうしてこうしていられるのか。それは、アキがそうしろと言ったから。
昨夜は夜通しゴキブリを探し回ったが、結局見つからなかった。俺は疑いを持っている。本当にゴキブリはいたのか――と。
よくよく考えれば、あれほど部屋を隅から隅まで掃除した時点で見つかっていないのは不自然じゃないか。アキ曰く、”……のようなもの”が見えた、と。つまり、はっきりと見たとは言っていない。
歯切れの悪いアキに、俺のモヤモヤは深まるばかり。今にもカサカサとどこかの物陰から這い出て来るのではビクビクしている。当の本人はそれほど気にしている様子はないし、むしろ俺が勝手に大騒ぎしている状況だ。
しかし俺は、そこまでアキを問い詰める気にはなれなかった。帰りが遅くなった訳を素直に話すと「そう」とあっさり理解してくれたし、それ以後もやけに俺に対して優しい。こうして飯を作ってくれるなんて、昨日までだったら絶対に考えられないことだ。
お待たせ、と言いながらアキが料理を運んでくる。キャベツとモヤシ、えのきの入った野菜炒めに、白ご飯。味噌汁も作るって言ってたけど……ない。
「うまそうだな。頂きます」
とはいえ、アキの手料理。それだけで十分に嬉しい。俺は野菜炒めをがさっと箸で掴んでひと口。続いて茶碗に左手を添え、白ご飯を掻きこんだ。
「アキ……」
「どうですか?」
まじまじと見つめるアキ。俺は箸を置き、右手で額をぐっと抑え、口の中のものを鈍く咀嚼しながら言った。
「味見したか……これ」
目の前でアキが不思議そうな顔をする。
「してません。センスで作りました」
「おう……」
味が……ない。そもそもアキに”調味料”という概念はあるのだろうか。それに口の中がやけに砂っぽいと思ったら、えのきの石づきががっつり残ったままだ。キャベツの芯も固くて呑み込めない。それと、ごはん。ちゃんと米と水の分量を量って炊いたのか……とは、聞くまでもなかった。
「味噌汁は?」
「真っ黒になって蒸発しました」
そうかそうか。……成仏しろよ。
「でも、うん。これはこれで……たべごだえが……ウェッ」
逆流しそうになるのを堪えながら、どうにか胃の中に流し込む。
そっと箸を置く。飯はこのくらいにして……昨日はゴキブリ騒ぎでなあなあになっていた件の核心に触れてみることにした。
「そういえばアキ。君はアイドルになろうとしてたのか?」
アキがきょとんとした顔で頬杖をつく。
「してませんよ」
「……興味とかは?」
「全くありません」
聞けば、アイドルの事務所にいたのはアキで間違いないそうだ。じゃあなぜ? 理由は単純だった。
「当時まだフリーで、ライブ帰りにスカウトされたんです。”芸能界に興味ない?”って。ぜんぜんなかったんですけど、”舞台には立ちたい”って言ったら、”いい場所がある”って言われてついていったら、大勢の中でフリフリの衣装着て歌って踊らされそうになって」
「それで……?」
「揉めました」
アキを見つけたスカウトも、まさか”お笑い志望”だなんて思わないだろうな……。
「結局断ったんだな」
「いいえ」
耳を疑った。アキは身振りを交えながら、語気を強める。
「条件を出したんですよ。歌も振り付けも衣装も演出もぜんぶ私のやりたいようにやって、一切口出ししないこと。グループでやるなら、メンバーは私が選ぶこと。そしたら、向こうから断ってきました」
……そりゃそうだろ。アイドルのヒトミが見たのは、そのときの様子だったんだな。
「ていうことは、アイドルとして舞台に立つ可能性は……ゼロではなかったんだな」
アキは机に両肘をつき、じろりと上目遣いに俺を見上げた。
「お笑いもアイドルも、自分を表現するという意味では同じです。ただ、お笑いの方が自分のやりたいようにできます。だから私はお笑い以外にないんです」
そうか、確かにその違いは大きいのかもしれない。
「プロデュースされることに興味はないのか?」
愚問かと思ったが、思いのほかアキは真剣な表情で答えた。
「する人によりますね」
「……例えば誰に?」
「誰も思い浮かびません」
膝を動かしたり肩を揺すったり、落ち着きなく座っているアキ。彼女をプロデュース……扱い切れる人などいるのだろうか。彼女の特徴、性格を全て把握して、才能を引き出せる人間。
「そういえば、芸人になるまで……何をしてきたんだ? 学生の頃から興味あったのか?」
激辛タンタンメンのカップ麺を取り出したアキは、お湯を注いですぐにバリボリと麺に齧りついた。料理……自分の分は作っていないのかよ。卑怯だ。
「学生? 行ってませんよ、学校には」
「ああ、そうか。いつからなんだ?」
「小学校を半年くらい通って……それっきり行ってません」
「……今、二十歳だよな。家を出たのはいつだ?」
「十八です」
引き籠りだったとは聞いていたが、まさかそこまで長期間とは。しかし冷静に考えれば、今も似たような状況じゃないか。事務所を辞めて以来、バイトをしている様子もないし。売れていない芸人って、働かないと食べていけないじゃないのか。それにしてはオートロック付きの一人暮らしにゃ広すぎる立派なマンションに住んでいるし。一体何者なんだ……アキは。
「両親は?」
「父親はいません」
母子家庭か。俺も母が幼い頃に亡くなって父子家庭で育ってきたから、気持ちが分かる気がする。
「小学校の時に引きこもったきっかけって、何かあったのか?」
聞きにくいことだが、そこに触れずにはいられなかった。
「授業中に教室を歩き回ったり、教壇の前でずっと喋ってたりしてたら、先生に嫌われちゃって。その度に怒鳴られて、腕掴まれて廊下に放り出されたりするうちに、行きたくなくなりました、学校」
「落ち着きがなかったのか?」
「……じっとしてられないんですよね、私」
確かに。アキを見ていると、つねに喋りながら指いじりをしていたり。足を動かしたり。あちこちに興味が移って、集中していないように見える。
「それは……家でも?」
アキが頷く。「母のことは心の中で”鬼ババア”と呼んでいました」とさらりと言った。
「子供の頃は、ほとんど怒った母の顔しか記憶にないですね。食事中にじっと座ってられずに立ち歩いたりしていると”イライラするから見えないところ食べろ”って怒鳴られて。そもそも母はマナーとか姿勢とかいろいろと口うるさいんですけど、それ以前の問題でしたね、私は」
「これもお母さんの言いつけ?」
俺はアキがよく使っているボールペンを持ち上げ、名前が書いてある小さなシールを指さした。
「私、無意識のうちにモノをどこかに置いて、忘れちゃうんです。あまりに無くしすぎるから子供の頃母がブチギレて、持ち物に全部名前を書けと言われました。学校に行かなくなってからあんまり意味はなくなったんですけど、続けていますね。書かないと無くしてしまうって思うとついつい」
そういえば、この部屋に来た日に言っていたな。”なくしたくないもの”には名前を書くと。ある意味おまじないみたいなものなのかな、って考えると。それはそれで可愛らしく思えてきた。
「ショウは……怒らないから」
「え?」
アキが指いじりをしながら、ぼそっと言う。
「まあ確かに。俺、そんなに怒ることってないかもな」
そういえば、初めて待ち合わせしたときにも同じことを言われたな。色んな人に怒られ続けてきた彼女にとって、俺みたいな存在は珍しいのかもしれない。
箸を置く。アキが作ってくれた不器用な手料理に感謝の意を込め、ゆっくりと手を合わせた。
「ごちそうさま。作ってくれてありがとう、アキ」
アキが顔を近づける。戸惑う俺の顔をしばし凝視したのち、「嬉しいですか?」と尋ねた。
「ああ。クオリティはともかく……俺の為に作ってくれたからな」と答えると、「ふーん」と唸ったのち、「ダメか」とぽつりと言った。
何なんだ一体。それはともかく、話を戻そう。
「十八歳の時に家を出たってことは……以前言っていた”火が付いた”ってのがそのきっかけなのか?」
アキがテーブルの上でがちゃがちゃと音を鳴らしながら雑に食器を重ね、キッチンへと運んでいく。
「家にたくさんあったんですよ。母が集めていた昔の映画とかのDVD。勝手に借りてきては、自分の部屋に持ち込んで見漁ってました。熱中しだすと、寝ずに何本も見続けているとか普通にありましたね」
シンクに置くと、水を流し始める。とりあえず漬け置きしといたら? という俺の声を無視して、アキはじゃばじゃばとスポンジで流し洗いをした食器を水切りに次々と重ねていく。
「年中カーテンを閉め切っていた部屋は薄暗くて、殆どの時間を画面の前で過ごしました。でも、映画の世界の中にいた私は孤独ではなくて――すごく居心地が良かったんです。そのうち居てもたってもいられなくなってきて、映画のストーリーとか、脚本っぽいのを書き始めました」
「小学生の時から? それ、結構珍しいよな」
「そうですか?」
アキは不思議そうな顔をしながら振り返る。
「どこへ行っても何をしても怒られる。この世界はうるさくて不自由。ならば、この映画を作った人みたいに、自分で世界を作ればきっと楽しいんじゃないかって思っただけですよ」
「でも、それなら映画監督とか脚本家とかじゃないか?」と尋ねると、濡れた手のままリビングに歩いて来たアキは、棚に並べたDVDの中から指先でひとつ取りだし、俺に手渡した。
チャールズ・チャップリンの『独裁者』。見たことはない――が、聞いたことはあるタイトルだ。
「一番のお気に入りです。彼の他の作品も、何度も何度も繰り返し見ました。彼の映画は、この世界の誰よりも私に優しかった。音はないけれど、彼の表情や仕草に心を奪われて……。部屋の中に鏡はありませんでしたけど、ずっと私は笑っていたと思います。そんな経験は初めてでした」
俺の前にすとんと腰を降ろしたアキ。懐かしそうにパッケージを見つめ、笑顔で呟いた。
「”人生はクローズアップで見れば悲劇だけど、ロングショットで見れば喜劇”。チャップリンがそう言っていたから、私がこのじめじめした部屋の中で送ってきた孤独で哀れでクソみたいな人生も、そのうち”笑い”に変えられるんじゃないって思えるようになったんです」
「それで芸人になった――と。躊躇いはなかったのか?」
俺が感心しながら言うと、アキは揺ぎない口調で答えた。
「もともと人前に出ることに苦手意識はありませんよ。周りの人間が拒絶していただけです」
何だか羨ましいと思った。アキは自分が拒絶されない世界を――ついに見つけたんだ、と。
「だとしたら……俺は未だに引きこもっているな。そのじめじめした部屋ってやつに」
世界は優しくない。笑わない俺に。学生時代――それなりに勉強は頑張ったつもりだ。でも就活に失敗し、やっと滑り込んだ会社は超絶ブラックの営業。半年で逃げるように辞めて、コンビニバイトをずっと続けている。
「……そうだ。コンビ名、”チャーリー”にしましょう」
「え?」
「私が”チャールズ”で、あなたが”チャップリン”。二人合わせて、彼の愛称の”チャーリー”です」
アキは楽しそうにゆらゆらと肩を揺らしながら、俺にはにかんだ笑顔を向けた。
「チャーリーが私にしてくれたみたいに、今度は私があなたを引っ張り出してあげますよ。じめじめした部屋ってやつから。舞台に立てばきっと見つかると思いますから」
「見つかるって、何が?」
アキはノートとボールペンを準備し、促すように俺の肩を叩いた。
「その為にはまず、やるべきことをやりましょう」
――まあ、やっぱりそうなるよな。
決して気乗りはしないが、仕方ない。ゆっくりと重い腰を上げた俺は、ソファーの後ろに移動して黙ったまま腰の前で手を組んだ。
いつもなら目の前にアキが座り、立っているだけの俺の顔を見ながらノートにペンを走らせるのだが……今日は違った。
アキは何も持たずに俺の隣に来た。マネキンのようにじっと立っている俺の手の位置や足の幅、顔の角度などを調整し、正面に立って確認。それを何度か繰り返した。
「なんだこれ。今からネタすんの?」
「そうですよ」
「いつの間にネタ完成してたんだよ。じゃあ俺も覚えないと」
アキは首を横に振り、また俺の横に並ぶ。俺がそっちを向こうとすると、「そのまま!」という鋭い声が響いた。
すーっと息を吸い込む音が静かに広がって、アキが喋り始めた。いや――ネタが始まった。
アキがどんなネタを書いたのか、すぐに分った。俺は動かなくていい。いや、動いてはいけない。そういう世界にアキが迷い込んだという設定で、ネタは進んでいったのだ。
圧巻だった。彼女の頭の中の世界が、この部屋の中にそのまま出現し、豊かな語彙力で次々と独特の空気を紡いでいく。尖った言葉で穴を開けたかと思えば、予想を裏切る言葉でひっくり返す。そしてすべて嘘になり、俺は騙されていたと知る。
面白い。演じているアキの横で、俺は心の中で笑っていた。これは彼女が引き籠っている間に少しずつ、心の中に溜めて行った”きらきら”した膿だ。だからおかしい。誰にでも分かる言葉で、動作で。《《立っているだけ》》の俺から笑いを産み出していく。
そう、俺は立っているだけで良かった。――彼女の創り出した世界で。
ひと通りネタを終えると――彼女は悩まし気な顔をして考え込み、机に戻ってペンを取り、ノートに書き殴る。そしてアキはまた俺の横に戻って来て呼吸を整えた。
「あの……」
「何ですか?」
アキがじっと俺を見つめる。苛立ちとか、そういうのがこびりついていない眼差しで。
「いや……いい。続けよう」
なんだ。俺、何もしなくていいんだ。台詞も覚えなくていいし、動作はおろか――立ってさえいればいい。楽勝。ラッキー。
アキが再びネタを演じる横で、俺はうだうだと考えていた。別に芸人になろうって決心したわけじゃない。笑いのセンスがあるわけでもなく、やったことすらないから、うまくやれるとも思っていなかった。実際、舞台に立った時、自分がどうなるのかなんて想像もつかなくて。だからこそ、こうして無自覚にやってこれたのかもしれない。
二度目のネタが終わる。アキは同じように浮かない顔をしていた。また練り直そうと、机に向かう。ペンを取り、ぐしゃぐしゃと振るう。
よし、と頷いて。俺の横に戻ってきたタイミングで、俺は思わず聞いてしまった。
「お前の相方……本当に俺で良かったのか?」
アキは驚きはしなかった。むしろ俺の眼球を貫いて脳みそに届くくらいのまっすぐな視線を俺に向けて、淡々と答えた。
「あなただから、このネタを書いたんです。これは私たちのネタです」
いいですか? とアキは聞いた。俺は黙って頷き、アキが演じるのを待った。




