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「お前……もっと必要なもんがあるんじゃないのか?」
携帯用の歯ブラシセットをレジでスキャンしながら、ケンは怪しむような視線を俺に寄せた。
「ない。ちょっと泊まりで遠出するだけだから」
歯ブラシを小さな袋に詰めながら、「またまた~」と鼻で笑うケン。
「ホテルとか民宿なら、備え付けがあるだろ。絶対お泊りじゃん。はいはい。隅に置けねえなあ……」
そう言いながらレジを出て売り場から何かを取ってきたケンは、「これは俺の奢りだ。持ってけ」と言い、スキャンして小銭を流し込み、袋に押し込んだ。
「要らない。そういうんじゃないから」
袋から出そうとする俺の肩に手を置いたケンは、「いいからいいから」と優しい眼差しを見せた。
「分かる。分かるよ……」
絶対に分かってねえ。余計な気ばっかり利かせやがって。仕方ない。後でどこかに隠すか、処分しよう……。ブツをボストンバックの内ポケットに突っ込むと「健闘を祈る!」と敬礼するケンを残し、バッグを持って自動ドアを潜った。
今日は時間通り帰りたい。
普段は残って仕事をするのを全く嫌がらない俺が店長にそう言いに行った時点で、ずっとこんな調子で俺をイジってきたケン。本当は他所のドラッグストアで買っていきたかったが、その時間すらも勿体なかった。まあいいや。ああ見えてむやみに口外はしないだろうし、”アキの部屋に泊り込んでいる”という事自体がバレなければ、そんなに問題ではない。
ただ、きょうケンが出勤早々”アキ、事務所辞めたってよ”と哀し気な顔をして言って来たときはさすがに目が泳いだ。情報通のグーさんからのラインで知ったらしい。
まさか、俺がアキの家に泊り込むなんて……。あいつが知ったらどんな反応するんだろうなあ。
薄い暗闇の中。街灯が飛び飛びに照らす静かな路地を、俺は罪悪感と期待感の入り混じった妙な葛藤を抱えながら歩いた。
着替えなどを詰め込んだバッグを肩に掛け、電車を乗り継いで下北沢へ。人でごった返す改札と駅前の雑踏を抜け、角を曲がって裏通りへ。時刻は午後七時。お腹も空いてきた。アキ、飯は食ったのかな。何か買って行けばよかったな……と今更後悔しながら、マンションに着いた俺は事前に教えてもらっていたオートロックの暗証番号を入力してフロントを突破。エレベーターで五階へと登る。
アキの部屋の前に立ち、深呼吸。今日からしばらくここで暮らすのか……なんか緊張してきた。ていうか、いつまで? ライブのあとは? 何にも決めておらず、つくづく行き当たりばったりだなあと不安を抱きながら、俺はドアノブに手を掛けた。
せっかくセキュリティーが厳重なマンションなのに、鍵をなくしたアキは玄関に小さな段ボールの端を《《かまして》》ロックが掛らないようにしている。つくづく不用心だ。
「おーい。入るぞ」
呼び鈴は鳴らすな、と言われていたので、そのまま玄関を潜って靴を揃える。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、俺は驚きのあまり口を開けて固まってしまった。
……片付いている。それどころか、めちゃくちゃ奇麗。どうしたんだ一体? 昨日の時点ではまだまだ散らかっていたのに。
ボストンバックを抱えたまま、トイレ、浴槽を確認する。カビや埃一つなく、シャンプー類やトイレットペーパーも整頓され、まるでホテルみたいに隅から隅まで磨き上げられている。
「アキ。おいアキ」
さっきから返事がない。リビングへ進むと、ここもあまりの変わりように言葉を失った。ベッドはメイクされ、床や壁はピカピカ。本、DVDや小物は棚に一寸の狂いも無く並べられ、ゴミなどは一つも見当たらない。
しかし、主がいない。出かけているのか? テレビもついていない。
まさか。不用心が祟って、事件に巻き込まれたんじゃ……。
心配になって、あちこちを探し回る。押し入れの中。床下収納。こんな所にいるはずもないのに。
そういえば、アキはスマホを無くしたって言ってたな。こんなことになるなら無理やりにでも買い替えさせておけばよかったと今更悔やみながら、スマホと睨めっこする。どうする。警察を呼ぶべきか。いや、肉親でもないのにこんなことで呼んでいいわけがない。
血眼になってあたりを見渡す。ふと、外の道路を通り過ぎる車の音が耳に飛び込んできた。
まさか、と思いベランダの前へ。窓が――少しだけ空いていた。
大慌てで窓を開け、裸足のままベランダに飛び出す。そこには――アキが手すりのある壁に寄りかかり、目を瞑ったままぐったりとしていた。
「アキ! ――おい、しっかりしろ」
彼女の元へ歩み寄り、肩を揺らす。うっすらと目を開けたアキが、微かに唇を動かした。
「かゆい……」
そう言って、まっ白な腕を爪を立ててぼりぼりと掻き始める。確かに……刺されている。赤くなって腫れたポツポツが、手、足、首にもちらほら。
「おい……一体何してたんだ。こんなところで」
ふああ、と大きく伸びと欠伸をしながら、アキがもごもごと言う。
「掃除……あれからずっとしてて、やっと終わったんでベランダでちょっと風にあたってたんです。そしたら、そのまま寝てて」
「おいおい。一睡もせずにか?」
またうとうとと寝かけるアキに肩を貸して、リビングの座椅子に座らせる。休まずに――ずっとやってたのか。どんな集中力だよ、と恐ろしくなる。
「いったん《《ゾーン》》に入ると、止まんなくなっちゃんうんですよねえ」
そう言いながら、テーブルの上のノートを開き、卓上のボールペンを右手に握るアキ。
「さ、ネタ合わせしましょ」
目は半開き。首がカクンカクンなりながらぼそっと言うアキを、俺は「いいから少し休め」と椅子の背もたれに優しく肩を押し付けた。
「はあい。じゃあ、少しだけ……」
あっという間にすやすやと寝息を立て始めるアキ。……無防備な寝顔。睫毛が長くて、少しだけ頬が赤らんでいる。これは小動物を愛でる可愛さだと、俺は自分に言い聞かせながらその場をウロウロとし始めた。
ふとアキの背後で立ち止まり、テーブルの上のノートを覗き込む。目がチカチカするほどの書き込み量だ。しかし、字が……読みにくい。横線が引かれている大学ノートなのだが、線からはみ出したり行が曲がったり。感情的に思いついたままに走り書きしているのだろうか。お世辞にも丁寧とは言い難い。こんな乱文みたいに書かれたネタが――あそこまで構成の整ったネタに昇華されていることに驚く。一体いつからネタを書き始めたのだろうか。”火が付いた”って言ってたけど、何がきっかけで?
俺はふと思い立って、物音を立てないようにベッドの下を覗き込んだ。そこには、段ボール箱の中に何十冊ものノートが敷き詰められている。アキがいつもここからノートを取り出しているから、気にはなっていた。
手を伸ばし、数冊抜き取る。ベッドの横で胡坐をかいた俺は、音を立てないようにぱらぱらとページをめくる。印象的なワードが目に留まり、指を止める。彼女の脳内に侵入して、どこまでも奥深い世界を探検したような気分になって……次第に読みふけり、あっという間に数十分が経った。
首が痛くなってきて、大きく伸びをすると、自然と欠伸が出た。腹も減ったな。よいしょと膝を立ててゆっくりと立ち上りながら、椅子に座ったままスースーと寝息を立てるアキとキッチンを交互に見回した。
どうせこんな調子じゃ、晩飯も食べてないんだろうな。
キッチンに足を運び、何か食材はないかと冷蔵庫を開ける。ひんやりとした冷気を顔に浴びて、微かに酸味のある匂いが鼻先を掠める。ここも掃除したのか、ピカピカの内装に照明がきらきらと跳ね返って、思わず目を細める。えっと中身は……飲みかけのペットボトルのお茶と、三つセットのプリン。あと瓶詰の練り唐辛子。毒々しいパッケージのタバスコ。キムチ。
辛い物が好きらしい。それが分かっただけで、作れそうなものがないことに絶望し、天井を仰いだ。
どうすっかな。この状態のままほっといて買いに行くわけにもいかないし。
そういえば、先ほど床下収納を開けたときにカップ麺がいくつかあった気が。もう一度確認すると、記憶通りそこにはきれいに整頓された状態で”ストック”と思わしき食料が入れてあり、その中からいくつかカップ麺を手に取った。
辛ラーメン。蒙古タンメン。ペヤング激辛焼きそば。どんだけ辛いの好きなんだよ。
「アキ。何か食べるか。って言っても、カップ麺しかないけど」
肩を軽く揺さぶると、アキはうっすらを目を開けながら「なんでもいい」と呟いた。
分かったと答えて、俺はキッチンへと引き返し、置いてあったやかんに水を入れてIHのスイッチを入れる。
しかし、選択肢は辛い物①②③しかない。あんまり得意ではないが、人んちのもんだし、文句は言えまい。
激辛ペヤングと辛ラーメン。お湯を入れたところで、「すぐに持ってきて」とアキの声が聞こえた。引き出しから取り出した箸を蓋の上に重ねて、やけどに気をつけながら指先でラーメンをテーブルへと運び、アキの目の前に置いた。
まだ少し眠たそうなアキは、肩を揺らしながらかすかに欠伸をすると、おもむろに箸を手に取り、まだ三十秒と経っていないラーメンの蓋を開け、バリバリと麺を齧り始めた。
「おいおいおい。まだ早いって!」
うるさいなあとでも言いたげに俺をじろりと睨んだアキは、パリパリの麺を咀嚼しながら「お腹空いてんですよ」と口を尖らせた。
「いや、でも。ねえ……」
蓋には”熱湯三分”の表示。たったこれだけが待てないとは。どんだけせっかちなんだ。
「いつもこうやって食べてるのか?」と訊くと、首を振るアキ。
「いつもは、お湯を入れた直後に食べ始めてますよ」
嘘だろ。いや、もはやこの人にはおおよその一般的な常識というものが当てはまらない気がした。
ツーンと鼻を刺すスパイスの香り。匂いだけで、辛いというのが伝わって来る。
「あ、忘れてた。タバスコ持ってきて下さい」
嫌な予感がしつつも、冷蔵庫から取って来てアキの目の前に置く。案の定、アキは表面が真っ赤になるほどにタバスコの液をラーメンに振りたくった。
俺がホラー映画の残虐シーンを見ているかのような表情をしていると、このくらい普通ですよ、と事も無げに言いながら麺を口に運ぶアキ。何を基準にした”普通”かは意味不明だが、この人の味覚もいい具合にバグってんな……とこれから先のことが不安になった。
そうこうしているうちに、俺の焼きそばも出来た。お湯を切り、いかにも辛そうな小袋入りの具材を加え、アキの対面に座って手を合わせ、食べ始めた。
あっという間に口の中を辛みが刺し始め、顔じゅうから汗が噴き出した。スパイスが気管に入ったせいか、えづくような咳を繰り返す。涙目で麺を啜る俺を見たアキは、「情けないですね」とぼやきながら、ものの二分程度で辛ラーメンを平らげた。
「ところで。なんて呼んだらいいんですか?」
立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取ってきたアキ。くぴりと口に含みながら、付き合いたての彼氏に訊くようなことを言いだした。
「ショウ、でいいよ」
「ふーん」
なんだ”ふーん”って。俺はもうすでにアキと呼び始めていたし、今更確認することもないので特に聞き返しはしなかった。
「歳は?」「二十四歳」「意外と歳食ってんですね」「余計お世話だよ」
「いいから、早く食べてください。ネ・タ・あ・わ・せ」
ボールペンで机をコツコツと叩きながら、急かしてくるアキ。散々話しかけておいてそれはないだろ。
大きく息を吸い込み、カップの底に残った麺を一気に口に運ぶと、慌てて立ち上がってキッチンに駆け込む。置いてあったコップに水を注ぎ、喉を鳴らしながら流し込んだ。
「あー、辛え。これもう二度と食わねえ」
事前の買い出しは必須。そう痛感しながらリビングへと戻ると、そこに立ってくださいとアキが対面を指さすので、言われるがままに移動し、腰の前で手を組んだ。
「じっとしててくださいね」
そう言うと、指先でボールペンを回し、頬杖をつきながら俺のことをじろじろと見つめ始める。やがて何かを思いついたかと思えばノートに書き殴り、また見つめ、書き殴る。その繰り返しが、一時間ほど続いた。
「俺の顔見てると……インスピレーションが湧くのか?」
「しっ」と顔の前で人差し指を立てるアキ。立ちっぱなしで、足が痛い。少しでも体勢を崩そうものなら怒られるし、何でこんな苦行をさせられているのか意味が分からなくなってきた。
「写生かよ」「黙ってください」「ちょっとだけ座っても」「我慢」
たまに懇願するも、ことごとく一言でぴしゃりと叩き落される。そんなこんなで二時間が経過し、体力も限界に近付いてきたかと思った頃。ノートを閉じたアキがしゃんと背筋を伸ばし、俺に言い放った。
「おめでとうございます。休憩です」
休憩――ってことは、また続くのか?
朗報と悲報が同時に舞い込んできて、喜んでいいのかどうか分からなくなった。とりあえず床にへたり込んで大きくため息をつく俺に、アキは「シャワー浴びてきますね」と言い、浴室へと歩いて行った。
俺は食べ終わったカップ麺や箸などを片付けると、ボストンバックに入れて来た荷物の整理を始めた。シャンプー、シェイバー、体を洗う用のスポンジ。あと寝巻用の服も出しておこう。
「あなたも入って下さい」
ふと顔を上げると、ジャージにTシャツ姿のアキが、濡れ髪のまま俺を見下ろしていた。
「えっ。早くねえ? もう浴びたのか」
「ちゃんと洗ってますよ。匂いますか?」
そう言って手を差し出してくるアキ。確かにいい匂い……じゃなくて。
「石鹸で頭から足の先まで泡立てて洗って、一気に流すだけです。ものの数分ですよ」
そう言って俺の背中を押すアキ。「三分で出てください」とプレッシャーを掛けて来るが、俺はそんな芸当は持ち合わせていない。
渋々小走りで脱衣所へと行き、扉を閉めて服を脱ぐ。洗濯機の中にはアキの服や下着が入っているのがちらりと見えたが、なるべく見ないようにして自分の服もそこへ入れた。
洗濯……一緒にしてくれるのかな。っていうか、俺がさせられたりして……。
出会って数日しか経っていない相手との共同生活。互いに違うルールを持つ者同士が、一つ屋根の下で暮らしていかなくてないけない。その難しさを、早くも身をもって痛感している。
髪の毛をシャンプーで泡立てる。コンディショナーは諦めた。さっさと身体を洗って流し、五分ほどで脱衣所へと出て体を拭き、持ってきたスウェットに着替えた。
少し時間過ぎたな……。そう思いながらリビングへと行くと、アキが俺のボストンバックの中を覗き込んでいるのが見えた。
「随分と準備がいいんですね」
俺は頭が真っ白になった。アキが手に持ってじろじろと見ているのは、ケンが仕掛けた時限爆弾。超うすうす。箱に書かれた品のない煽り文句が、より一層俺の絶望を引き立てた。
「いつ、どこで。誰と使うんですか、これ」
別に怒っている風でもなく、淡々と言い放つアキ。余計に怖い。どうしよう。どうやって切り抜ける、この状況。俺は脳みそをフル回転させながら次の手を練ったが、何も思い浮かばず。「えーと、それは……」とバツの悪そうな顔で声を振り絞るのが精いっぱい。
そうこうしているうちに、アキが爪先でするするとビニルの封を解き、中身を机の上に広げる。すっと立ち上がり、テレビの横の小物入れの引き出しから安全ピンを取り出して戻ってくると、机の上にぶちまけた”中身”を無表情でぶすぶすと穴だらけにし、両手で抱えて俺の手の中に握り込ませた。
「やれるもんなら、どうぞ。ご自由に」
「いえ。結構です……」
情けなくなって、その場にへたりこむ。アキは何事も無かったかのように椅子に座り、ペンを握り直すと、「その表情もいいですね」と目を輝かせながら快調にペンを走らせ始めた。




