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 しまった。

 薄暗い客席の最前列で膝を抱え、窮屈な足元に受付で貰ったビラとボールペンを滑り込ませながら、俺は後悔した。

 あれから一日。再びこの場に戻ってきたことにではない。開場前に、いや、階段の待機列に並ぶ前に、隣のドラッグストアでトイレを借りることを躊躇したことに対してだ。

 断続的ではないが、たまに押し寄せて来る尿意。しかし、我慢できないほどではない。幸い、開演して次々と目の前で繰り広げられるネタに没頭すると、そのことはすっかり意識の外へと追い出された。

 ”おまいつ”は演者に鬱陶しがられるから、最前は新規に譲る――というアイドルのライブから徹底しているらしい彼らの”哲学”を遵守し、グーさんたちは列の半ばから後方に陣取っている。その方式で、一番”新米”の俺はまた最前列という恩恵にあずかることができた。

 隣にケンはいない。今度はひとりで大丈夫なのか――不安はあったが、開場前にグーさんたちが声を掛けてくれて軽く話をしたおかげか、緊張は解くことができた。

 初日と同じネタが多数ではあるが、二日とも見に来ている客も少なくはないというのを気遣い、違うネタを披露してくれる芸人もいる。だからといって評価が大きく分かれることはない。月に二本も新ネタを卸すのは並大抵ではないだろう。クオリティが下がるのを嫌って、一本に集中するというのは充分に理解できる。

 一条アキ――”姫”は、同じネタはしないだろう。

 俺は確信を持っていた。反省会でグーさんたちから聞いた話によれば、二日目は”本気”を出してくるはず。

 入口で演目を貰い、予定通り姫の名前があったことにとりあえず安堵した。ただ出演順については記載がないため、芸人のネタが終わるたびに心臓がドキドキして、「来るか」と身構えてしまうというのを繰り返していた。

 大喜利形式のネタコーナー、他事務所からのゲストのネタを挟み、いよいよライブは終盤。

 会場が盛り上がりを見せる中、忘れた頃に奴が激しく主張し始めた。

 暴れる膀胱。もはや波ではない――大時化となって押し寄せて、堤防は決壊寸前に。

 目の前でネタが繰り広げられるが、だんだん頭に入らなくなってきた。頑張れ、耐えるんだ、と自分を鼓舞しながら歯を食いしばり――とうとうその瞬間が訪れた。

「一条アキ――」

 大トリだ。演者のリストを見る限り、最後に名前を呼ばれたのが彼女だった。

 袖から現れた姫を、待ってましたとばかりの大きな拍手が出迎える。姫はそんなことは意に介さないと言った様子で、マイクの前に立って目を瞑った。衣装は黒のワンピ―ス。髪はぼさっとしていて、寝ぐせもついている。

 やがて拍手が収まった瞬間。手に持っていた文庫本を開き、透明感のある落ち着いた声を鳴らした。

 三十年くらい前に発表された、「半生」という著名な小説の、冒頭部分。中学生くらいのときに読んだことがある。映画やドラマになった、誰も知る名作中の名作だ。

 抑揚をつけず丁寧に、じっくりと読み上げる声が、耳に心地いい。昨日の殺伐としたイメージが残っていた俺は、まずそのギャップに胸を貫かれた。

 しかし、次第にその内容に少しずつ違和感を覚えるようになってくる。

 ――こんな一文、あったっけ?

 自分の記憶違い? と思ったが、ネタが進むにつれてはっとした。

 これは、全くの別物だ。絶妙に《《それっぽく》》している。元の小説の内容が頭に入っているからこそ、主人公の行動がだんだんとおかしな方向にズレていくにつれ、そのギャップに心がくすぐられる。

 俺はいつの間にやら、彼女の語る小説の世界へと引き込まれてしまった。名作の”皮”を被った主人公が、あり得ないサイコパスな行動を公共の場で巻き起こす。

 終盤へと進むにつれ展開はエスカレートしていき、頭の中の突っ込みも追いつかない。比例するかのように、周囲の笑いの熱量が増していく。やがて会場は”何を言ってもウける”というトランス状態に陥った。

 隣も後ろも。いや、ここにいる全員が。腹を抱え、目の端に涙を浮かべ、息が切れる程に笑っている。

 俺の手は震えていた。これほどの笑いの波に飲み込まれたのは初めてだ。彼女が放つ言葉を一字一句聞き逃さすまいと、全神経を舞台に集中させた。

 そして、ネタのオチ――彼女は手に持っていた文庫本をのカバーを荒々しく外す。目の前で、ばっちり見た。表紙はボールペンでぐしゃぐしゃに書き殴られて真っ黒になっており、ページはすべて白紙だった。

「ごめんなさい。全部ウソです」

 深々と頭を下げた彼女に、一瞬呆気に取られたように静まり返った会場だったが……やがてぱらぱらと拍手が沸き起こった。彼女は頭を上げると、振り返る素振りも見せず、足早に舞台袖へと捌けて行った。

 拍手は、いつまでも止む気配がない。俺も手が痛くなるまで叩き続けていた。

 ふと我に返り、全身の緊張が解ける。すると思い出したかのように、奴がドアを叩き始めた。

 やばい。耐えられそうにない。さすがに限界だ――。

「すいません。トイレ行きたいんで」

 申し訳なさそうに小声で囁きながら、俺は薄暗い客席を背中を丸めて横切り、会場の外に出て階段を駆け下りた。エンディングが始まったのか、背後から拍手の音が聞こえた。

 今はもう、意識は股間に集中。足が縺れそうになりながらなんとか一階に降りると、店員さんに声を掛ける余裕もなくドラッグストアの奥にある男女兼用の個室トイレに駆け込んだ。

 洋式便器を目の前にしてはち切れそうになりながら、どうにかズボンを降ろし、座って放出。危なかった・・・・・・。

 安ど感に頬を緩めながら、ふとドアを見つめる。

 鍵の色が、青のままだ。しまった。締め忘れた。そう思って手を伸ばしかけた瞬間――がちゃりと扉が開いた。

「ねえちょっと」

 目の前には――先ほどまで舞台上で見ていた、一条アキがいた。

 黒いワンピース。やぼったいショートカット。吸い寄せられそうな三白眼。演じていたときと、何も変わらない姿。

 あまりの出来事に、俺は固まってしまった。一条アキが、俺を見ている。ドラッグストアのトイレの中で。なぜ。どうして?

 ふと我に返り、急激に状況を把握した俺は、下半身丸出しだということに慌てふためき、ぐっと膝を閉じて前かがみになった。

「うわ。ちょっと! 何で入って来てんの?」

 彼女は眉を潜めると、それより――と俺の胸ぐらを掴んだ。

「何で全然笑わないんですか」

 ぎゅっと唇を嚙んで、じろりと俺を睨む。

「あなただけ」

 え。怒ってらっしゃる? 俺は慌てて首を何度も横に振ると、必死に弁明を繰り出した。

「面白かったよ。マジで感動した。でも……」

 だったらなぜ、と言いかけた彼女に、俺は声を被せた。

「笑うことができないんだ。生まれたときからずっと、笑った記憶がない」

 一条アキの動きが、ぴたりと止まる。胸ぐらを掴んでいた手をそっと放し、しげしげと俺を見つめた。

「――本当ですか?」

 俺は静かに頷いた。

 なぜかは分からない。彼女の眼が――俺の顔ではなく、心の中を見ているような気がした。

「あの……すいません」

 コンコン、とノックされ、半開きのドアの向こう側から気まずそうな店員の声が聞こえた。

「トイレの中で……そのようなことは……ご遠慮いただきたいかと……」

 俺は顔がカーっと熱くなって。猛スピードでズボンを上げ、なぜか少し残っていた理性で手を洗って。一条アキの手を引っ張り、店員のおじさんに「失礼しましたぁ!」と謝りながら、店の外へと飛び出した。

「君、何考えてんの? 入って来る? 普通……」

 人が往来する通りの電柱の前で問い詰めようとすると、一条アキは「もう少し歩いた方がいいですよ」と冷静に俺の背中を押した。ライブ会場から、ぞろぞろと階段を降りて来る人たちが見えた。

 渋々通りを歩き始めたが、俺の頭の中は一条アキと並んでいるという訳の分からない状況と、さっきの出来事でぐしゃぐしゃに散らかったまま。

「笑えないって、何でなんですか?」

 一条アキが俺の服の袖を引っ張る。

「原因は分からない。本当に……笑ったという記憶がないんだ」

 早足で、周囲を気にしながら歩く。しかし、すれ違う人は、誰も彼女のことを見ていないし振り返らない。芸人とはいえ、あのライブにしか出ていないってグーさんが言ってたし、それもそうか。

「ふーん」

 角を曲がって、狭い路地に入る。正面からやってきた軽トラを塀に身体を寄せながらやり過ごすと、一条アキが背後から俺の二の腕を掴んだ。

「じゃあ、笑わせます。一度もないんでしょ。だったら、私が”初めて”を貰いますよ」

 すれ違った若い男の二人組が、にやにやしながら俺の方を振り返る。よく見たら、近くにご休憩の看板。

「最高に誤解を招く表現をどうも……」

 彼女を連れてその場から早足で離れながら、「でもな……」と頭を掻いた。

「無理だと思う。そう言って色んな人が笑わせようとしてくれたけど。結局駄目だった」

 カリスマ美容師。ホスト。塾講師――ケンが送り込んできた”トーク力がありそうな”数々の刺客。だが誰も俺の”笑い”という牙城を崩すには至らなかった。

「だから?」

 アキが目の前にやってきて、上目使いで俺を見上げた。

「今までが駄目だったからと言って。私も駄目だという根拠はなんですか?」

 何も言葉が出ない。ただ照れくさくなって、視線を逸らす。

 すると、彼女が白い肌の二の腕をすっと持ち上げて、俺の脇を揉む。俺はうはあ、と妙な声を出して、腰砕けになった。

「おい。物理的に笑わすのはやめろよ」

 構わず俺を見上げながら指先を動かすアキ。脇は弱い。アアア、と苦悶の表情になって、必死に肩を掴んで押し返そうとする。

「ねえねえ。あんたら、せめて中に入ってやっておくれよ」

 通りすがりのおじさんが声を掛けてくる。はっとして顔を上げると、そこにはまた”ご休憩”の怪しげなネオンが。

「この辺……ホテル街か。場所を変えよう」

 肩眉に力を込め、じろりと俺を睨むアキ。そりゃそうだ。笑うどころか、これじゃ恥ずかしいだけだ。

 どこでもいいから、座って話せる場所――。

 ひっそりとしたホテル街の路地を抜け、少し人通りのある道に出た。行き交う人の波に逆らいながら、辺りを見回す。

「ここでいいじゃないですか」

 アキが俺の袖を引っ張りながら指さしたのは、牛丼チェーン店。ここはちょっと・・・・・・と難色を示す俺を置いて、既に店内に入ろうとするアキ。

「仕方ないな・・・・・・」

 段差を一段上がって入店すると、っしゃいませーという若いバイトの男の掛け声が厨房から聞こえてくる。夜遅いせいか、店内にはカウンターに一人と、テーブルに二組しか客がいない。店員が席を案内するのも待たずにカウンターによいしょと腰掛けたアキは、既にメニューを手に「すいませーん」と声を張り上げながら、机をバンバン叩いている。

「ちょ、ちょ、ちょっと。もう何頼むか決まったのか?」

 慌ててアキの横に腰掛けると、アキは首を横に振りながらメニューと睨めっこしている。

「来るまでに決めるんですよ。はい決まった。はいどうぞ」

 俺にポンとメニューを渡してくる。バカ。こんな一瞬で決まるわけない。

「ご注文どうぞ」

 若くて動きの素早そうな店員が、シュタッとやって来て端末を手に構える。

「私、伝説の匂わないガーリック牛丼」

「俺は……えーと。この麻婆牛丼の……”肉抜き”で」

 店員が「えっ」と驚きの表情を浮かべ、「こちらのメニューは……肉を抜くのは無理なんですけど……」と困った様子で答える。

「じゃあ、こっち。もやしとキャベツの野菜ましまし牛丼……の、”肉抜き”で」

「……かしこまりました」

 不思議そうな表情のまま、店員が厨房へと入って行く。

「どうして肉食べないんですか。ここ、牛丼屋ですけど」

 そう言いながら、アキが身を乗り出して俺の顔をじろじろと見てくる。

「好き嫌いが多いんだよ」

 誤魔化すように言葉を濁すと、「ちゃんと答えて」とアキがまた背中に手を回し、両手で脇をこそばしてくる。

「アアア。わかったわかった」

 店内にいた客たちが、怪訝な顔をしてこちらに視線をやる。やっとアキが離れると、少しずつ呼吸を落ち着かせながら、言葉を絞り出した。

「死体……だから」

 たまたま水を運んできてくれた店員が、それを聞いてギョッとした顔をする。

「そら、そうですよ。死んでます。生きてたら食えません」

 きょとんとした顔で、アキが言う。

「肉も、魚も。生き物全般がダメなんだ。死んでるって考えちゃったら、どうしても喉を通らなくて」

 てきぱきと動き回るバイト君が、今度は二人分の注文をお盆に抱えてきて、俺たちの前に並べる。

「あ、それ分からないでもないですね。確かにもしもこれが”人間の死体だ”って言われたら、食べる気しないですもんね。生きてる姿想像したら気持ち悪くて」

 ごゆっくりどうぞ――と伝票を置こうとした店員が、露骨に顔を歪めながらドン引きしている。

 また誤解を――いや、間違ってないか。この人、ちょっと頭おかしい。

 コップに入った水をぐいと口に含み、牛のない”野菜炒め丼”と化した遅めの夕食を食べてとりあえず腹を満たそうと箸を割った瞬間。両方の鼻に割りばしを突っ込んで合掌をし、ぶつぶつと念仏を唱えているアキを見て、思わず水を吹き出した。

「あ! 笑った笑った! ほら! 私の勝ち! 童貞卒業!」

 テンション高く手を叩きながら叫ぶアキ。だが残念ながら唐突に訳の分からないことをされて”びっくり”しただけだ。そう伝えると、アキはため息をつきながら「なんだー」と肩を落とした。

「あの……汚さないで、くださいね」

 店員さんがやってきて、おしぼりで机の上を拭いてくれる。さっきよりなんか態度が冷たい。まあ、それは仕方がないか。

「でも、絶対笑わせますよ。賭けてもいいです」

 むくれた様子で、アキが俺の方を指さしながら宣言する。

「賭けるって……何を?」

 タレのついたキャベツをご飯と一緒に口の中に放り込む。かたやアキは、既に半分くらいを胃の中に収めている。早っ。

「あなたが笑うまで……寝ません」

 いやいや、それは絶対無理だろ。やめてくれ、と俺が激しく首を横に振る。

「じゃあ、あなたが笑うまで……何も食べません」

 そんだけの食いっぷりを見せられながら言われても。それも「死んじゃうからやめてくれ」と拒絶する。

「はあ。じゃあ……」

 アキがちらりと店の奥に視線を飛ばす。ご自由にどうぞ、と書かれた張り紙のある扉。誰か入っているのか、その奥からハンドドライヤーの音が微かに聞こえてくる。

「トイレ。あなたが笑うまでトイレに行きません。はい決まり。はいスタート」

 悪戯っぽく笑うアキ。それもダメだ、と拒否しようとした俺の口を掌で塞いで、耳元で囁いた。

「心配いりません。笑わせます。笑わせればいいんでしょ」

 そこから店を出て、駅に行くまでの道のりで……俺はありとあらゆる”攻撃”を受けた。

 トーク。一発ギャグ。歩きながら、たまに信号待ちをしつつ。道行く人の外観をいじったり、看板に書かれた語句をモジったり。道端にあるものでモノボケしたり。よくもまあ一瞬で思いつくな、と感心するほどの手数。それでいて、巧いなあと唸ってしまうほどのクオリティ。

 俺の周りをちょこまかと動き回るアキ。ライブで俺が笑わなかったことが余程悔しかったのか、根に持っていたのか。その表情は一切の恥じらいもなく、真剣そのもの。あれほどの爆笑を巻き起こしていた芸人が、たったひとり、俺を笑わせるだけの為に……なんて考えたら、贅沢な気がした。

 しかし、俺の表情筋はバグっている。面白くないのではない。笑えないのだ。

「あの……もう、俺こっちなんで」

 駅前のY字路で、逆方向に向かおうとするアキを呼び止めて、恐る恐る切り出した。

 アキは俺の正面に回り込み、じっと目を見つめながら眉を寄せる。

「逃げる気かな?」

 いやいや。逃げるんじゃなくて。帰るんです。

「そろそろ終電が……ね? 明日は朝からバイトがあるから」

 アキは見るからに不機嫌そうに口元を歪める。

「だから?」「帰ります」「なぜ」「いや、サボるわけにいかないし」

 気づけば、アキは俺の腕を掴んでいる。嫌な予感がした。

「じゃあ、その辺に泊まってから、直接行けばいいでしょ。帰る必要はありません」

 路地の看板を見上げながら、俺の腕を引っ張るアキ。刺激しない様に説得しょうと試みるが、お構いなしにずんずん進んでいく。

「あ、ここでいいや。さあ行きましょう」

 目が点になった。彼女が見つけたのは、ご休憩……いや、《《ご宿泊》》のご案内。突如として現れたお城のような建物の中へと、彼女は俺の背中を押した。

「おかしいって、こんなの。知り合ったばかりだよ?」

「だから何ですか。あなたが笑うまで、とことんやりましょう」

 入り口で押し問答をしている俺たちを、通りすがる人々が笑いながら見ている。誤解されてる。ていうか、何でこんなことに?

「中途半端は嫌いなんです。さあ、覚悟を決めて!」

 無理やり連れ込もうと背中を押すアキ。入口の柱にしがみついて抵抗する俺。

 行き交うひとの好奇の視線と嘲笑に晒されながら……俺たちのせめぎ合いは終電ギリギリまで続いた。

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