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「姫? いつもいないよ」
なみなみとビールを注いだグラス。弾ける泡と、麦の香り。乾杯、とグラスを突き合わせ、ググっと呑み干したグーさんが、上唇に白い髭をたくわえながら答えた。
「そうそう。たぶん、エンディングしてる間に帰ってるんだよ。以前出待ちしたけど、出てこなかったし」
ケンの手にも生。半分ほど飲んだところでグラスを置いて、ビール瓶に持ち代える。すかさず空になったグーさんのグラスにお酌。
「あ、ごめんね。別にいいのに」
「いやいや。毎度反省会はゴチになってますから。これくらいさせてください」
反省会。俺とケンと、グーさんご一行三名による、居酒屋での打ち上げ。ライブの後は恒例で、ケンは前々回くらいから参加しているらしい。
「でさ、今日の姫ヤバかったじゃん。まさかああ来るとはね」
グーさんが興奮気味に切り出す。隣に座っているチケットをくれた長髪のお兄さんが、サラダを頬張りながら小刻みに頷く。
「あれは予想外。なんかブチ壊しに来てた。たぶんグーさんのせい」
「え、俺? 盛り上がるかなって思ったんだけどなあ」
「客が主張したら駄目」
そうか。”頑張れ”って言ったのはこの人か。ケンを含むみんなも、同調してグーさんをたしなめる。
「スカピーのノリはまずかったね。もっと空気読まないと」
スカピーって何ですか? とレモンの刺さったコーラをちびちびと口に含んでいる俺が口をはさむ。グーさんの取り巻きの一人が、俺らもともと地下アイドルのライブで知り合ったんだよ、と教えてくれた。
「スカイ&ピース。五人組の”元”アイドルグループだよ。バズりかけてたとこでエースが脱退しちゃって、結局空中分解して解散。一年前くらいかな。でもみんな他の推しも掛け持ちしてるから、合同ライブのあと久々に集まってこんな感じで打ち上げしてさ。そんときに、めっちゃ可愛いくて《《ヤバい》》女芸人がいるって話になって」
姫。誰が言い出したのかは覚えていないらしいが、自然とそう呼ばれるようになっていったという。
「最初みたときは事務所入りたてで、一分ネタだったんだよ。ばーっと出てきて、何するのかと思ったら、手にジャンボバーガー持っててさ。あのクソでかいやつ。何も言わずに、普通に食いだしたのよ。客席睨みながら、ソースとかレタスボロボロ床に零して。んで、時間内に食べきるのかと思ったら、ほとんど残したまま鐘が鳴ってさっさと捌けてっちゃった」
「どんな空気になったんですか。笑ってたんですか、みんな」
「誰も笑ってなかった。でもやっぱり”めちゃ可愛い”っていうインパクトと、やってることが無茶苦茶って言うそのギャップがヤバくて。次の月には昇格してたよ。Cクラスに」
「それ聞くと、ただの危ない人じゃないですか……」
俺が怪しむような口ぶりで訊くと、グーさん、ケン含む全員が首をぶるぶると横に振る。
「それがさ。このライブ、毎月恒例で、二日公演あるわけ。初日は今日みたいに昇降格ありのクラス制なんだけど、二日目は選抜メンバーが全員五分ネタで、間に他事務所からのゲストがネタしたり、企画やったりするんだ。そこに、新人の姫がいきなり抜擢されてネタしたんだよ」
「どうだったんですか?」
グーさんが枝豆をひょいと指で持ち上げ、俺に向けながら言った。
「ヤバかった。語彙力全然追いつかないんだけど……文字通り”天才”っていうか。空気震えるくらいガンガン笑い取って、オチまで完璧でさ。俺らみたいに、興味本位で見に来てたやつらが、一気に虜になった。あのライブ以外はどこにも出てないらしいから、月を追うごとに口コミで信者が増えてきてね。チケットも瞬殺だから、取るのも一苦労になっちった」
天才。世の中に溢れ返っているといいってもいい、この表現。彼女のどこがそんなに”特別”なのか、正直ピンと来ない。しかしこの場にいる誰一人として、言い過ぎだとか誇張だとか口をはさむ者はいない。
「で、次の月以降も同じだったよ。初日に訳の分らないネタして、選抜の二日目で一番のウケ。昇格の対象のネタは初日だけなんだけど、二日目のおかげで実力が認められて、期待値込みで票が伸びたんだろうね。今月はついにAクラス。これからどうなるんだろうな。とりあえず、明日のネタが楽しみ過ぎる」
取り巻きの一人が、串カツを口にはさみながら”先月の事件”について言及を始めた。
「事件。そう、事件事件。ありましたね~」
ケンが興奮気味に手を叩いて、グーさんに視線を飛ばす。「いや、あれは俺じゃないよ」とグーさんが苦笑する。
「ゲラ事件ね」
誰かが言った。ゲラ。芸人が何をしても笑う客のことだと、隣のケンが耳打ちをしてくれた。
「ケンくんはあれが初だったっけ。いやあ、ビビったね」
「ほんまっすよ」
ケンがビールをぐいと呑み干し、顔を赤く染めながらしみじみと言う。
先月のライブ二日目。最前列にいたケンの隣に、”ゲラ”がいたらしい。
「あれはなかなかのゲラだったね。普段見ない人だった。誰が出てきても、何をしてても笑う笑う。しかも笑い声がすっげえ特徴的だから、どの芸人さんも間が狂ってやりにくそうだった」
その状況下で、姫の出番が来たという。
「もう、出てきた瞬間からアハハァ!って笑いだして。姫は一瞬ぎょろってそっち睨んで、構わずネタ始めたんだけど。まだフリの段階なのにケタケタ笑ってて変な空気よ。それが三十秒くらい続いて、ついに姫がネタを中断した。仁王立ちして、じーっとゲラの方を見たまま。さすがにそんときは、ゲラの笑い声が止まったよ」
「えっ。それで、どうなったんですか?」
グーさんは声を潜め、怪談でも話しているかのように恐ろしい表情で言った。
「脇でスタッフがバタバタし始めた。もう一触即発よ。いつ止めに入るかと思ってたら、怒りに満ちた目をした姫が、ぼそっと言ったんだ。”あなたは笑わなくていい”……って。結局そのままネタ放り出して捌けてった。いやあ、あのことがあったから、今日は取り敢えずあの”ゲラ”が来てないことに安心したよ」
本当ですよ、とケンが相槌を打つと、和やかな笑いが酒席に広がった。
「また明日ね」
アイコスを咥えたグーさんが、取り巻きを従え、サムアップしながら通りの奥へと去っていく。俺の手には、長髪のお兄さんがくれた、二日目のチケット。
「良かったな~今日は」
夜も深まりつつある下北通りを駅に向かって歩きながら、ケンが興奮気味に俺の肩を叩いた。
「まあ俺は……笑えなかったけどな」
「いいじゃねえか。それに本番は明日だ」
何よりグーさんが俺のことを気に入ってくれた、とケンは嬉しそうに微笑む。確かに呑み会は新鮮だった。笑えないことを苦に、学生時代から賑やかな場所を避けて生きて来たから。もともと地下アイドル好きの集まりとあって、グーさんを筆頭にクセのあるひとばかり。だからか、全く笑わない俺が混ざっても、すんなりと溶け込むことができた気がする。
「じゃあな。俺は明日用事があって行けねえけど、楽しんで来いよ」
最寄り駅で下車してケンと別れたあとは、改札を抜け、ひとり静かな夜道を歩く。
アパートに帰った俺は、部屋の明かりをつけ、荷物を整理しようとリビングの机の上で鞄を開いた。ライブで貰ったフライヤー、財布。諸々を取り出しながら、指先に尖った感触があることに気が付く。
掴みだすと、それは一本の割り箸だった。《《あの》》ネタの時に飛んできて、鞄の中に入っていたらしい。
ベッドに大の字になりながら、割り箸に目を凝らす。よく見ると……折れた部分に、削ったか切り込みを入れた跡のようなものがある。
もしかして、あらかじめ”ちゃんと折れるように”下準備をしていたのだろうか。思い返せば、ステージ上で彼女はつっかえることなく、次々と割りばしを真っ二つにしていた。
指先で割りばしをなぞりながら、ひとつひとつに丁寧に細工をしている”姫”の様子を想像した。
舞台での姿は――すべて彼女の台本だったのか? 狂気を身に纏い、雄叫びを上げる姿も。割りばしを割りまくる姿も。
一条アキ。一体、どんな人間なんだろう。
”あなたは、笑わなくていい”
そうに言い放たれたゲラのことが、ふと脳裏をよぎった。
今日のライブ。姫――彼女の眼に、最前列中央にいた”笑わない俺”は、どう映ったのだろうか。そもそも今日の姫のネタは笑う状況じゃなかったし、俺だってそんなに浮いてはいなかったはずだが――じゃあ、みんなが笑っている状況で、俺だけ笑っていなかったら?
ポケットの中から、二日目のチケットを取り出す。出演者の中に、”一条アキ”の中が印字されている。
それでも、俺は知りたい。彼女の本領を見てみたい。
久々に胸の奥から這い上がって来る欲求に、俺は静かに武者震いをした。




